坂のある街の記憶

   赤坂御用地をめぐる坂と町   遠藤武夫
 仕事を辞めしばらく家にこもっていた頃、山仲間のMに言われた。
「退屈しのぎに町歩きは如何。お宅からも程近く緑豊かで山気分が味わえ、然も信号が無い3キロメートル弱の コースがあるわよ。」
聞けば彼女が住む北青山から至近の赤坂御用地外周道、地元のジョギングコースとして知られているそうだ。 それを10年近く経って思い出し、梅雨晴れの昼過ぎ、新宿駅西口行きのバスに乗り、 権田原へ向かった。
 バスを降り、明治記念館を向こう側に見て交差点を渡り、御所の石垣に沿い、東へ足を向けた。石垣は胸の高さ、 低く盛られた土手なかに今が盛りのハルジオンが咲き、土手上に巡らされた四つ目垣が内と外との境隅を分ける。 Mの話に依れば、このコースを走るジョギンガーが惹かれるのは、風景のバリエーション。そして街路樹の美しさ。 御所に沿う高さ20メートルに達するユリノキ。明治記念会館側に沿うトチノキ。それらの樹冠が大きな影を 歩道に落として午後の強い日差しを和らげる。


 歩き始めてまもなく警官が屯す門前に出る。門脇に置かれた派出所に小さく、「東宮御所正門」の文字。 門前から僅か歩いて安鎮坂。北側に続いていた明治記念館関連の建屋が切れ、植込みの下は崖地。 谷を埋める屋根とビルの狭間を高速道路が縫い、クルマが疾走する。安鎮坂は初め緩い直線だが、 路面が鮮やかな赤褐色に変わる中程から勾配を強めて、車線を分ける白線と共に弧を描き、 坂下から直ちに始まる鮫ヶ橋坂へと上り返す
 坂下に本瓦葺き武家門、鮫ヶ橋門がある。とうに消滅した橋を後世に伝えようと、門名として残された。 “鮫ヶ橋”は永井荷風が大正4年に刊行した『日和下駄』の後半の章、「閑地」に出ている。文中の閑地は、 御所を火災から守る火除地跡。現在は家屋で埋まって痕跡不明であるが、鮫ヶ橋門と向き合う 「みなみもと町公園」がその面影を残している。
 荷風の文を引用すると、鮫ヶ橋谷町は市内三大貧民窟の一つに挙げられ、甲武鉄道(現JR中央線)に沿う 北側に吹き溜まりのようなその集落があった。明治末に代々木ヶ原で万国博開催の気運が高まり、 もし会場に向かう外国人が汽車の窓からこれを見下ろされると国辱だからと、取り壊す噂も流れたが、 肝心かなめの金集めが思うに任せず、天皇崩御で万博そのものが没になった。

 荷風と関係ない余話に、“鮫ヶ橋の狸”がある。四谷駅に通じる御所トンネルが開通して明治中頃。 御所の森の巣穴から抜け出た狸が夜な夜なトンネル入り口に現れ、汽車の音の真似などして住民を困らせていた。 住民は終車始発の音を頼りに寝起きしていた。ある夜も懸命に汽車の真似をしていたところに本物の汽車が現れ、 敢えない最期を遂げた。新聞は早速「そこが畜生の浅ましさ、汽車の時間を間違えたらしい」と伝えた。

 鮫ヶ橋坂を上りかけた途中の土手のなかにホタルブクロの花を見かけてそれを眺めながら 迎賓館前西門の 広い三角形の緑地(新宿区立東若葉公園)。東南に向かう一辺の外側が迎賓館正面である。 高さ約5メートルもある鉄柵のなかには、緑の芝生ごクロマツの疎林を前景にしてベルサイユ宮殿を模した 本館が見える。だが変だ、見えたのは林立するビティ足場ばかり。その理由は正門脇に掲げられたパネルの 説明文で解った。
 旧赤坂離宮が迎賓館として発足してから33年が経ち、老朽化した館内設備(電気、空調、衛生、防災)改修、 館外全体補修工事を行っているのだ。

 外堀通りに出て再び石塀に戻った。歩道脇にユリノキが続く。初夏に黄色い花を咲かせるモクレン科の この樹は明治初年に渡米し、赤坂離宮竣工後、四谷見附から離宮に到るアプローチを飾る景観樹として選ばれた。

 四谷見附から上智大学あたりは平成期に入って暫くの間、仕事で通った。その後は久しく訪れていないが、 その風景は少し変わった。堀ぎわの木立を透かして望む真田堀土手。土手上に並ぶサクラやクロマツは 以前のまま、だがその真上に白い高層公社(目測で18階?)が出現し、北門あたりにあった聖イグナチヲ教会と 尖塔が消え、橙黄色の瀟洒な中層ビルに変身。その屋根上に立つ十字架のポールを遠目で見て、それと気付いた。 更に大学南隣にあった木造の福田屋(料亭)と新日鉄紀尾井寮が大きなビルに変わっていた。


 外堀ぎわの緑地帯に子供の頃の思い出が重なる。あの頃(昭和16年〜18年)都電に憧れ、遊び仲間を誘っては、 お母さん方を恐がらせていた。何しろ7銭の片道切符で乗り継ぎながら東京の端まで旅ができた。
 知らない町への好奇心から、なるべく平易な路線(系統という)を楽しんでいた。その中にこの堀中を走る 電車も含まれ、都電唯一のトンネルがあった。
 3系統(品川駅〜飯田橋)を走る電車は赤坂見附を出て弁慶堀に沿い、大きく曲がりながら紀伊国坂下に出る。 ここから電車は崖なかに設えた専用軌道に入り、草深い軌道脇の片側の窓から堀下の水辺を見て、紀尾井町へ 向かう道路の下をトンネル(24m)でぬけ、真田堀の中程あたりで路面に出た。 今このトンネル跡は、迎賓館庭園下を貫く首都高速赤坂トンネルの出入り口に変わって、絶え間なくクルマが 往来している。だが今も喰違土手に上がれば専用軌道跡の遺構が見える。

 弁慶堀に向かう対岸の森の上にホテルニューオータニ(本館)が望める。 あのホテルは東京オリンピック開催に合わせて開業した当時、日本随一の客室数を誇った。 オリンピック終了後は、尚も延伸を続ける首都高速とともに、はとバス新東京名所コースの中に組み込まれて 多数の一日遊覧客をホテルに招び入れた。なかでも最上階のラウンジ、回転レストランは頗る好評を得、 食事をしながらの移り行く風景を楽しめた。(当時は、このホテルに勝る高さの建造物は東京タワーを除き 皆無であった。)
 その南隣に新館(タワー)が開業したのは昭和49年。白いトップハット(塔屋)にスマートな三方アーチ、 流れるような曲線が、ビルラッシュで起こるビル風の弊害と電波障害を緩和させると注目された。

 紀尾井町へ向かう信号の手前に、東門と言われる武家門がある。この門は先程の鮫ヶ橋門よりひと回り大きく、 棟瓦から下がる丸瓦の末端、軒の蓋留瓦と鬼瓦に菊の御紋が付く。紀伊徳川家中屋敷であった幕末まで、 この場所に門は無かった。明治6年、皇居が炎上し、この屋敷跡が仮皇居とされたが、 喰違見付から本皇居までの距離的な利便性から、ここを仮皇居正門と決め、他の場所にあった 武家門を移設させたと聞く。
 明治7年1月の夜遅く、仮皇居を辞し、この門を出て自邸に帰る岩倉具視を乗せた馬車が、 喰違見付の暗闇に潜んでいた数人の刺客に襲われ、岩倉は傷を負いながらも堀なかに飛び込み、 九死に一生を得た。
 紀伊国坂上から見た赤坂見附以南の外堀通りの風景は、この10年の間に大きく変わった。風景を変えたのは 山王パークタワーとプレデンシャルタワー。二つの建造物が超高層の草分けであった霞ヶ関ビルを外堀通りの 空間から抹消した。
 山王パークタワーは日枝神社の南隣、山王ホテルの跡地に建てられた。東京オリンピックの前年、 このホテルの裏に当たる竣工間近な東京ヒルトンホテル(当時)建設現場に通い、山王ホテルを正面に翻る 星条旗を朝晩眺めた。2・26事件の反乱軍が立てこもり、世に知られたこのホテルは、 敗戦で逸早く占領軍に接収され、何故か永い間接収され続けられていたが、昭和57年になって返還された。 (安保条約に基づく代替として港区南麻布安立電気本社跡地に「ニューサンノーホテル」が竣工)。
 山王パークタワーは外堀通り(赤坂見附〜溜池)再開発事業の一環として平成14年に竣工。 その高さとボリュームは現在、外堀通りに並み居るビル群を完全に凌駕している。
 プレデンシャルタワーも同年竣工した。このタワーの前身はホテルニュージャパン。 ホテル火災史上に残る死者33名、重軽傷者60数名に及ぶ大惨事を引き起こした。 事後検証で余りにも杜撰な防火構造と設備が発覚し営業不能に陥った。以後10年余、 無惨な姿を外堀通りに曝していたが再建の途が開けた平成11年、新生のビルに人々は関心を寄せた。 だが再建されたこのタワーを遠くで見て、何故か死者を弔う石塔を思い、シンプルではあるがスッキリしない。

 紀伊国坂の標柱が立つ坂下の角地で、石堀は外堀通りを外して西南に屈曲する。折れて直ぐ堀が解かれて 石垣と土手、四つ目垣の振り出しに戻る。史跡なのか、単なる石桶か石垣と歩道の間に幅1.6m、深さ1.5mの空溝が 掘られて、人が落ちないように鉄柵を設けて歩道の幅を狭くしている。生け垣の中は10数棟に及ぶ宿舎が並び、 宮内庁か皇宮警察か不明だが、ベランダに干された洗濯物から判断すると家族寮らしい。
 閉じた門脇の通用口から買物袋を下げた婦人が中に入り、商店の集金係と思しき男女が臆することなく 出入りするから、警備の厳しい御用地内外でこのエリアだけは限られた解放区なのか。
 信号が置かれた丁字路から緩い坂を上がるとすぐ二又になる。直進する一方通行路は九郎九坂。 脇の松田平田設計ビルの下に標柱が立つ。由来を読むと“赤坂一ツ木村”の名主の名前で、一方の石垣沿いは弾正坂。 これは人名ではなく、"弾正大弼"という役職名。辞書で引いたが見当たらない。 左手に豊川稲荷文化会館を見て、右の御用地表町正門前から青山通りに出る。坂はここで終わらず、 6車線の国道を突っ切り、虎屋本店脇から山脇学園前の丁字路で終わる。青山通りの完成が明治29年。 それまでの大山街道は薬研坂上からこの丁字路を東へ、丹後坂上からの道を合わせて牛鳴坂を下り、 赤坂見附門へと向かっていた。

 昭和20年代の中頃まで、10系統(渋谷駅〜須田町)の電車で小川町へ通学していた。 だからその頃の窓外の風景は多少記憶している。青山通りの道幅は現在の半分程度。 それでも広く感じたのは青山御所(当時)の空間と未だに残る焼け跡のバラックのせいで、 焼け残った建造物はコンクリートで造られた低層の役所だけ。虎屋は別にして赤坂警察署、 旧赤坂区役所(赤坂支所)、赤坂郵便局など。その頃の青山通りの風景は全て、くすんでいた。
 赤坂と青山は都心ながら広大な軍事施設が占有し、それが標的にされたわけでもなく、 御所内の秩父宮、三笠宮邸が罹災し、大宮御所(貞明皇后)などは全焼している。
 焼け残った虎屋は城郭造り3階建て。東隣の豊川稲荷が全焼して火で灸られたが無事だった。 虎屋と皇室との関わりは深く、御陽成天皇(室町後期)からのご用達。明治天皇の東京遷都に供するように 東京へ進出した。名は忘れたが、皇太子(明仁)殿下の学友で後に作家になった男のエッセーに虎屋の話がある。 昭和20年7月、学習院初等科児童は皇太子を含めて全て日光市へ集団疎開している。 その少し前まで選ばれた小数の学友たちは月に何回か御所に招ばれて、皇太子と時を過ごした。 そのとき出るおやつが虎屋の羊羹か、その他の和菓子。家庭用砂糖の配給が絶たれて久しく、 甘味に飢えた学友の誰もが、その日を楽しく、待ち遠しかった。

〈 Photo by N.Ide 〉
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