坂のある街の記憶

   赤坂御用地をめぐる坂と町   遠藤武夫
 外堀ぎわの緑地帯に子供の頃の思い出が重なる。あの頃(昭和16年〜18年)都電に憧れ、遊び仲間を誘っては、 お母さん方を恐がらせていた。何しろ7銭の片道切符で乗り継ぎながら東京の端まで旅ができた。
 知らない町への好奇心から、なるべく平易な路線(系統という)を楽しんでいた。その中にこの堀中を走る 電車も含まれ、都電唯一のトンネルがあった。

 3系統(品川駅〜飯田橋)を走る電車は赤坂見附を出て弁慶堀に沿い、大きく曲がりながら紀伊国坂下に出る。 ここから電車は崖なかに設えた専用軌道に入り、草深い起動脇の片側の窓から堀下の水辺を見て、紀尾井町へ 向かう道路の下をトンネル(24m)でぬけ、真田堀の中程あたりで路面に出た。 今このトンネル跡は、迎賓館庭園下を貫く首都高速赤坂トンネルの出入り口に変わって、絶え間なくクルマが 往来している。だが今も喰違土手に上がれば専用軌道跡の遺構が見える。

 弁慶堀に向かう対岸の森の上にホテルニューオータニ(本館)が望める。 あのホテルは東京オリンピック開催に合わせて開業した当時、日本随一の客室数を誇った。 オリンピック終了後は、尚も延伸を続ける首都高速とともに、はとバス新東京名所コースの中に組み込まれて 多数の一日遊覧客をホテルに招び入れた。なかでも最上階のラウンジ、回転レストランは頗る好評を得、 食事をしながらの移り行く風景を楽しめた。(当時は、このホテルに勝る高さの建造物は東京タワーを除き 皆無であった。)
 その南隣に新館(タワー)が開業したのは昭和49年。白いトップハット(塔屋)にスマートな三方アーチ、 流れるような曲線が、ビルラッシュで起こるビル風の弊害と電波障害を緩和させると注目された。

 紀尾井町へ向かう信号の手前に、東門と言われる武家門がある。この門は先程の鮫ヶ橋門よりひと回り大きく、 棟瓦から下がる丸瓦の末端、軒の蓋留瓦と鬼瓦に菊の御紋が付く。紀伊徳川家中屋敷であった幕末まで、 この場所に門は無かった。明治6年、皇居が炎上し、この屋敷跡が仮皇居とされたが、 喰違見付から本皇居までの距離的な利便性から、ここを仮皇居正門と決め、他の場所にあった 武家門を移設させたと聞く。

 明治7年1月の夜遅く、仮皇居を辞し、この門を出て自邸に変える岩倉具視を乗せた馬車が、 喰違見付の暗闇に潜んでいた数人の刺客に襲われ、岩倉は傷を負いながらも堀なかに飛び込み、 九死に一生を得た。
 紀伊国坂上から見た赤坂見附以南の外堀通りの風景は、この10年の間に大きく変わった。風景を変えたのは 山王パークタワーとプレデンシャルタワー。二つの建造物が超高層の草分けであった霞ヶ関ビルを外堀通りの 空間から抹消した。
 山王パークタワーは日枝神社の南隣、山王ホテルの跡地に建てられた。東京オリンピックの前年、 このホテルの裏に当たる竣工間近な東京ヒルトンホテル(当時)建設現場に通い、山王ホテルを正面に翻る 星条旗を朝晩眺めた。2・26事件の反乱軍が立てこもり、世に知られたこのホテルは、 敗戦で逸早く占領軍に接収され、何故か永い間接収され続けられていたが、昭和57年になって返還された。 (安保条約に基づく代替として港区南麻布安立電気本社跡地に「ニューサンノーホテル」が竣工)。
 山王パークタワーは外堀通り(赤坂見附〜溜池)再開発事業の一環として平成14年に竣工。 その高さとボリュームは現在、外堀通りに並み居るビル群を完全に凌駕している。
 プレデンシャルタワーも同年竣工した。このタワーの前身はホテルニュージャパン。 ホテル火災史上に残る死者33名、重軽傷者60数名に及ぶ大惨事を引き起こした。 事後検証で余りにも杜撰な防火構造と設備が発覚し営業不能に陥った。以後10年余、 無惨な姿を外堀通りに曝していたが再建の途が開けた平成11年、新生のビルに人々は関心を寄せた。 だが再建されたこのタワーを遠くで見て、何故か死者を弔う石塔を思い、シンプルではあるがスッキリしない。

 紀伊国坂の標柱が立つ坂下の角地で、石堀は外堀通りを外して西南に屈曲する。折れて直ぐ堀が解かれて 石垣と土手、四つ目垣の振り出しに戻る。史跡なのか、単なる石桶か石垣と歩道の間に幅1.6m、深さ1.5mの空溝が 掘られて、人が落ちないように鉄柵を設けて歩道の幅を狭くしている。生け垣の中は10数棟に及ぶ宿舎が並び、 宮内庁か皇宮警察か不明だが、ベランダに干された洗濯物から判断すると家族寮らしい。

 閉じた門脇の通用口から買物袋を下げた婦人が中に入り、商店の集金係と思しき男女が臆することなく 出入りするから、警備の厳しい御用地内外でこのエリアだけは限られた解放区なのか。
 信号が置かれた丁字路から緩い坂を上がるとすぐ二又になる。直進する一方通行路は九郎九坂。 脇の松田平田設計ビルの下に標柱が立つ。由来を読むと赤坂一つ木村の名主の名前で、一方の石垣沿いは弾正坂。 これは人名ではなく、"弾正大弼"という役職名。辞書で引いたが見当たらない。 左手に豊川稲荷文化会館を見て、右の御用地表町正門前から青山通りに出る。坂はここで終わらず、 6車線の国道を突っ切り、虎屋本店脇から山脇学園前の丁字路で終わる。青山通りの完成が明治29年。 それまでの大山街道は薬研坂上からこの丁字路を東へ、丹後坂上からの道を合わせて牛鳴坂を下り、 赤坂見附門へと向かっていた。

 昭和20年代の中頃まで、10系統(渋谷駅〜須田町)の電車で小川町へ通学していた。 だからその頃の窓外の風景は多少記憶している。青山通りの道幅は現在の半分程度。 それでも広く感じたのは青山御所(当時)の空間と未だに残る焼け跡のバラックのせいで、 焼け残った建造物はコンクリートで造られた低層の役所だけ。虎屋は別にして赤坂警察署、 旧赤坂区役所(赤坂支所)、赤坂郵便局など。その頃の青山通りの風景は全て、くすんでいた。
 赤坂と青山は都心ながら広大な軍事施設が占有し、それが標的にされたわけでもなく、 御所内の秩父宮、三笠宮邸が罹災し、大宮御所(貞明皇后)などは全焼している。
 焼け残った虎屋は城郭造り3階建て。東隣の豊川稲荷が全焼して火で灸られたが無事だった。 虎屋と皇室との関わりは深く、御陽成天皇(室町後期)からのご用達。明治天皇の東京遷都に供するように 東京へ進出した。名は忘れたが、皇太子(明仁)殿下の学友で後に作家になった男のエッセーに虎屋の話がある。 昭和20年7月、学習院初等科児童は皇太子を含めて全て日光市へ集団疎開している。 その少し前まで選ばれた小数の学友たちは月に何回か御所に招ばれて、皇太子と時を過ごした。 そのとき出るおやつが虎屋の羊羹か、その他の和菓子。家庭用砂糖の配給が絶たれて久しく、 甘味に飢えた学友の誰もが、その日を楽しく、待ち遠しかった。

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