小石川を歩く 遠藤武夫 |
都営大江戸線を春日駅で下りて地上に上ると文京シヴィックセンター北口に出た。文京と歓楽が隣合う町の中心に偉容を誇るこの区役所が竣工した平成6年は、バブルが弾けた不況のさなか、豪華すぎると批判も出た。 だが25階北面に張り出す視野330度に亘る展望ラウンジは好評で、眺望の目玉になる富士山の見える方角に新宿超高層ビル群が立ち塞がる間の悪さもあるが、北西から北東にかけては未だ障壁になるビル群もなく、好機に恵まれれば浅間、赤城、日光山群などが見える筈で、いつかそれを確かめたい。 千川通りを北に向かい、こんにゃく閻魔の一つ先の信号を西に折れて善光寺坂へ。色褪せた朱塗りの善光寺山門を経て沢蔵司稲荷の石垣沿いに続く右に曲がると、歩道と車道を跨ぐようにして立つ老樹が現れた。青木玉のエッセー『こぼれ種』冒頭の章「目の前の椋」のムクノキである。推定樹齢300年、根元が朽ちて自立できず、四方を鋼線で支えている。幹周りが玉さんの胸の高さで4b余りあるとか、戦災で目の前の幸田(露伴)邸が焼け落ち、その煽りで樹の北側が焦げた。戦後の道路拡幅で伐り倒される筈が沢蔵司の祟りを怖れる住民の反対で生き残った。 老樹を後に坂を上ると、坂上の手前に青木正和と標札がかかる家を目にして、もしやと思い、坂を上ってくる六〇代半ば、買い物帰りの女性を待ち、呼びとめて尋ねた。ところが「ここで玉さんをよくお見かけしますが、それが何か」と逆に問われ、甚だ心もとないのだが「坂歩きが好きで、坂の様子を知りたくて」と証し、今日歩く予定の坂を幾つか挙げた。地図を持たず、況して筆記用具さえ持たない手ぶらの私に、「この家が玉さんの住まいです」と答えて、春日通りに面した坂周辺に残る遺跡、物故した知名人の旧居跡などを教えられ、それを下敷きにして歩くことを約し、礼を述べて坂上で別れた。 伝通院から南へ牛天神下に至る安藤坂は、春日通りから一つ目の信号西側南下にかけて坂名になった安藤飛騨守の上屋敷があった。尾張屋版「東都小石川絵図(嘉永7年)」に描かれた屋敷門前の坂を西に向かうクランク状の道筋は現存して、次の西角、現在の川口アパートを分けた南下が、かの屋敷地であった。維新の後、これらの屋敷跡地の大半を三井家が取得し、東京に於ける三井の拠点になった。ちなみに、坂の上方東側に在る区立三中は元三井八郎次郎男爵邸で、三井総領家(北家)第7代当主。三井本社々長を務めた。昭和20年5月25日夜半の空襲で小石川全域が猛火に包まれ、三井家も全焼。戦後GHQの指令による財閥解体で土地は四散したが、今も安藤坂に三井の物権が僅かに残る。 三井邸の西隣、川口アパートは川口松太郎、三益愛子の終の棲家になった。このアパートの概要は野添ひとみが綴った闘病記『浩さん、頑張ったね』に記述され、それを列記すると「川口松太郎邸敷地六百坪、隣地に所有する一千坪を長男浩氏に委譲。建築費七億五千万円。八三世帯各戸冷暖房ダスターシュート付き、非常用自家発電装置、共用プール施設。テナントとしてレストラン、美容室、ランドリー、貸女中室、貸倉庫、駐車場など、東京オリンピック開会式(昭和39年10月10日)に合わせて竣工式を行う。『川口アパートメント』の命名は曽野綾子氏」当時の住宅事情を思うと高級ホテルに価いする賃料で庶民にとって高嶺の花であった。 川口アパートから少し歩いて金剛寺坂の三差路へ出た。坂名の金剛寺は曹洞宗の名刹。江戸前期から坂の西側を占めていたが空襲で被災。戦後計画された地下鉄敷設用地に組込まれ、再建立されることなく中野区へ移った。 坂を僅かに下りて跨線橋に出た。橋上から東を望むと先ほどの川口アパート南面が見え、その足許先に抗口が開き、暗闇から出た複線軌条が、切り通しの中を西に向かって延びている。旧地番から察して、あの抗口あたりに永井荷風の生家があったのだろうか。 金剛寺坂を降りて巻石通りを西に向かい、金富小学校の前に出た。校門脇に立つ旧町名案内板にここを境に西側が昭和41年3月まで第六天町であったと記されていた。この旧町名を知ったのが10年以上も昔、山の会「井の頭」の先輩M氏から聞いた。昭和3年生まれのM氏は戦後は大塚に移転したが、生まれ育ちは第六天町。子供の頃、遊び仲間と歩いた茗荷谷、小日向、音羽などの地勢に詳しく、旧い町並みをよく憶えていた。その彼と飲んだとき、こんな話を聞いている。 「還暦を過ぎてから出席するようになった年に一回、神楽坂で行う同窓会(旧制市立一中)の帰り途は、ふるさとの道筋を辿る。矢来町の坂を下りて石切橋を渡り、第六天に出て急坂を上る。春日通りから、だらだら坂を下りると植物園前の千川跡。これに沿って西に向かおうと大塚三業地。これを抜けると大塚駅南口に出る。駅前の自宅までの歩程は4`強。ここまで来ると酔いも醒める。」M氏はその後退会した。 第六天町にあった二つの坂(今井坂、庚申坂)は町名改正で二つの地区に分かれた。春日2丁目に属した今井坂(新坂)は金富小と旧大蔵省第六天宿舎の間を上って春日通りに出る。この第六天宿舎は老朽化のため閉鎖され、何れ解体される筈だが、この土地は旧徳川邸で、徳川最後の将軍慶喜終焉の地、孫にあたる喜久子姫が生まれ育った地、高松宮家へお興し入れの日まで過ごした土地でもある。往時は50人ほどの使用人を抱えた屋敷と3千坪の土地は戦後の華族制度廃止で莫大な財産税を課せられ、屋敷と土地とを物納して大蔵省の管理下に置かれた。更に昭和26年、地下鉄敷設ルートとして土地の上部を分断。「昔を偲ぶ縁(よすが)は邸内に残る一本の大公孫樹のみになった。」と、『ぶんきょうの坂道』に記述された。 庚申坂に向かう道は、小日向交番から旧徳川邸の石垣に沿う。崖上に茂る樹木に往時に思いを馳せて歩くと、いきなり工場風の建造物が左側に現れた。丸の内線小石川検車区車輌工場である。狭い道路からは窺えないが、建屋上に人工地盤を造り、本線から分岐された幾多の軌条と点検を待つ留置車輌が並ぶ車輌基地。M氏の記憶では、この辺りから小日向、小石川の両台地が接近を始めて谷をつくる。子供の頃、炭俵を広げて尻を乗せ、赤土の崖滑りをして遊んだのがこの辺りで、戦前まで谷を隔てた徳川家と姻戚関係を持つ会津松平邸があったらしい。基地造成は小日向側を開削して、台地を大きく後退させた。 暫く歩くと轟音が響き、切り通しを抜け出た電車がガードを跨ぎ基地側に寄る。道がガードを潜ると町名が変わり、小日向4丁目の十字路に出た。ここで切支丹坂と庚申坂が南北に分かれる。再びM氏の話しなのだが、子供の頃の切支丹坂は、幽霊坂の別名もある樹木が生い茂って昼なお暗く、坂近くの窪地は草が茫々。大人たちが吹き込んだ切支丹がらみの怪談話を真にうけ、さすがの腕白少年たちも立ち入りを敬遠した。今は戸建てや社宅が並ぶ静かな住宅地で昔の面影は何もない。 一方の庚申坂は石段坂で、茗台中と都立医療福祉研修センターの間を「くの字」に折れる急坂。春日通りに出た真向かいが吹上坂である。 春日通りを西進して藤坂に出た。坂名になった伝明寺のフジは、急坂を下りて左側、境内の片隅にある。徳川三代将軍家光が鷹狩りの帰りに寺に立ち寄り、庭いっぱいに咲くフジの花を見て、「これぞ、藤の寺」と感嘆したそうだが、今は申し訳け程度の藤棚で、坂向こうの播磨坂のサクラに株をとられた。 播磨坂は戦後まもない昭和22年、区画整理で生まれた坂。中央分離帯に沿い植えた苗木や若木が成長して美しい花を咲かせ、花見どきは人で埋まる。 坂には関係ないが、この坂が環状3号線である事に驚く。環3の起点は飯倉交差点(国道1号)か芝公園(日比谷通り)それぞれが六本木交差点、六本木トンネルを抜けて青山1丁目で合流、江戸川公園(文京区関口)まで通じている。 この先計画道路は神田川にかかる古川橋を渡り、服部坂を上って台町小の東脇を掠め、蛙坂で藤坂と対峙する。真下は車輌基地であり。どうクリアするかは次世代の課題で、これが繋がったとき、町はどう変わっているだろうか。 播磨坂のベンチで一息いれ、茗荷谷駅を横目に茗渓会館まで来て、この道を歩いた数年前をふと思い浮かべた。確かに夕方に近い午後で、周辺に幾つかある学校の下校時間と重なり、駅へ急ぐ大勢の生徒たちと擦れ合うようにして跡見の校門まで来て、ここの生徒たちの誰もが校舎に向かい、一礼して去るのを見て、素朴はマナーの美しさを感じた。 その頃、茗渓会館の向かいに古びた二つの不燃建造物があった。大正15年に創立した窪町小学校、そして昭和5年にオープンした旧同潤会大塚女子アパートである。 3階建ての窪町小を初めて見たとき、外装に表記されが校名を示す横書きの5文字が右から始まるのを見て老舗の看板文字を思い起こし、いつ頃創立したのか興味を持った。 この一帯も空襲で焼け野原になり、跡見学園などは焼失したが、不燃建造物は殆ど焼け残った。敗戦の翌年、戦後教育のモデル校として昭和天皇が窪町小を訪れている。 大塚女子アパートは5階建て、この建物を初めて見たとき、既に外装タイルに剥落防止の薄いネットが張られ、まさか話しに聞く有名なアパートとは知らずに通り過ぎた。親兄弟と言えども頑なに入室を禁じ、最後の住人が立ち退くその日まで男子禁制を貫いた誇り高きキャリアウーマンの城は、建築学的にも貴重な文化財として、保存に賛同する有識者も多数いたが、大家(おおや)である石原都知事が「単なるノスタルジー」と決め付け、解体に踏み切った。今みる窪町小は《ぴかぴかの新校舎》で、一方の女子アパートは更地になり、仮囲いの中で競売される日を待つ。 茗渓会館の前で信号を渡り、少し戻って湯立坂に出た。坂の西側丘陵は元東京教育大の跡地で、昭和43年、大学がつくば市へ移転した跡地を文京区が国から借地(全てではない)整備し、「教育の森公園」と名付け、併設したスポーツセンター。そして丘陵北斜面のの中ほどから下方にかけて江戸三名園のひとつと言われた占春園があり、江戸期からの老樹が数本池の畔に残され、在りし日を偲んでいる。昔はどうか知らないが、この丘陵に上ると昔読んだ徳永直の小説『太陽のない街』の冒頭の情景を思い起す。その書き出しを大まかに記すと、「摂政宮殿下は足を止めた。特別に設えた御座所より校庭に満ちて並ぶ東京高師生徒一同への挨拶を終えて、機嫌よく、記念の植樹をされるため、校長の先導で裏手にあたる丘にさしかかった時である。随伴のシルクハットの事務官佩刀の武官たちもこれに従い足を止めた。手前の丘を駆け下り、向こうの丘まで駆け上がるように続く 緑一色の風景に殿下は心打たれたのだ。校長は察して、この風景(白山御殿跡を含め)の全てが大名屋敷以来から保たれていると申し上げた。『向こうの山と此方の山の間に谷がある筈だが、見たいものじゃ。』殿下の下問に校長は狼狽した。その緑に隠された谷こそ太陽もかくれんぼする東京随一のスラム街、千川どぶが流れるトンネル長屋そのものであった。」 湯立坂を少し降りかけた右側、歩道脇に敷かれた石畳の先に板目も鮮やかな閉じた大門がある。門札には「大谷」と記され、門上に冠る銅葦屋根を太い磨き丸太が支え、門脇に置かれた巨石だけでも並のお屋敷でない事が想像できた。門際の通用口が少し開いていたので好奇心から、戸口に張られた《猛犬に注意》のプレートを無視して、恐る恐るではあるが入り口から庭先に出て屋敷の外観を眺めた。 そして偶然、いつか写真で見た重文指定の銅(あかがね)御殿に違いないと緑青(ろくしょう)色の屋根を見て気付いた。 この御殿の施主は日本屈指の山林地主で、歳月と費用を惜しまず《優美で堅固》を意図し、これを設計に表現し、大正元年に落成した。年を経て建て主が物故し、引き継いだのが新潟油田を興し、後に日本の石油王と言われた人物。3代目が元大谷重工社長で現大谷美術館々主。時代の波の中で事業の浮沈もあったが、関東大震災に耐え、戦災を免れ、100年近くを経て今なお健在かつ風格を保つ木造建築を見て、何か得をした気持ちで庭を去った。 大谷邸を出て間もなく、塀沿いに「湯立坂の緑と国の文化財を守ろう」「野村不動産は設計の見直しを」と大書きした看板。同じ主旨のポスターが目立ち、暫くしてシートで目隠しされた工事現場が現れた。中を覗くと多少の残土があるだけの空地で、最近まで暫定的に有料駐車場だったらしい。この10数b奥は崖地で、傾斜地に崩落防止用シートが被さり、崖っ端に残る数戸の古い家屋に「マンション建設反対」の横幕が張られている。どうやらあの家々を壊し崖を均してマンションを建てるらしい。 坂の両側を覆う樹木。緩いS字を描く見応えのある風景の何年か経て再びこの坂を訪れたとき、以前目にした風景などは忘れて、新しいマンションもこの坂の雰囲気に溶け込んでいる。 湯立坂下で千川通りを横切り、網干坂に出た。いつも素通りする簸川神社に今日は立ち寄ろうと境内に入った。丘上の社殿に上がる石段の右脇に、2bもある立派な千川改修記念碑が建ち、昭和9年に千川の流域、豊島、小石川全域に亘る暗渠化が完了。これを世間に示す碑であった。それまで大雨の度毎に洪水が見舞う千川どぶも、永井荷風の『日和下駄』が世に出る前まで、川底の小石が見える程の清流で、小石川の地名はここから生まれた。 千川は谷端川と云い、豊島区要町2丁目、粟島神社境内にある弁天池が水源。 多摩川の流れを羽村で堰き止め、江戸へ導水する途中、武蔵野境橋あたりで分水した千川用水とは異なる。それは置いて、愛宕神社の男坂ほどではないが簸川神社の石段もきつい。上り切って振り返ると小石川台地が一望できる。 播磨たんぼと旧武家屋敷、連なる甍があった頃。更に遡れば、この神社の創建が第五代孝昭天皇の頃と記されて、もしこれで事実なら西暦が生まれて間もない頃で、その頃、江戸湾の入り江がこの辺りまで食い込み、漁師が干し網していた話は頷ける。 社殿脇から氷川坂を下り植物園の塀沿いに歩く。徳永直の小説にはないが、千川通りと千川暗渠の間100b足らずの横丁と路地に紙工、印刷、製本の小工場、下請け工場が密集する。紙とインクと糊、これを生業とする人たちが主役の町だ。だがこの町お盟主は「太陽のない街」以前も以後もずっと、共同印刷であることに変わりはない。 800bもある塀沿いの単調な道に、やや疲れを感じながら歩くと、塀内の遠く葉を落として直立するメタセコイア林が視界に入る。洋傘を半分窄めたような樹形でそれとなく判る。あの樹に近づけば御殿坂は近い。御殿坂は狭い急坂だが、咲き始めたサザンカの花を塀越しに眺めながら坂上に出て広くなった蓮華寺坂の緩やかな下り、白山通りの十字路を渡って旧白山通りに入れば、都営三田線白山駅まで僅かな歩程で着く。 2006年 天皇誕生日に歩く |