坂のある町 ゆかりの人々

   永坂から飯倉へ       遠藤武夫

 麻布十番大通りを左手に見て、前方の新一の橋(環3)交差点上を仰ぐと、三方から集まる二層の鋼脚と鋼梁が谷上で交差し、空を塞いだ。頭上は高速都心環状一の橋JCT、新永坂の登りは、ここから始まる。

 次の信号で高架下を東側に渡り、古びた石垣に沿い僅か上ると、石垣がきれた鉄扉脇の石塀に嵌め込まれた小さな鋼板プレート。この豪邸の主(あるじ)は誰かと顔近づけて見ると、"参議院副議長公邸"の文字が読めた。
 この辺りで鰹だしの匂いが歩道に漂い、公邸の隣が永坂更科本社工場ビル。階下の倉庫に、出荷を待つ蕎麦つゆの缶詰。別棟の狭いヤードに原料が入った白いポリタンク、蕎麦粉がつまった紙袋が、ところ狭しと積まれていた。
 永坂といえば“永坂更科蕎麦”。この暖簾を下げた店舗が永坂下と十番商店街に各々一つ、他に"堀井更科"もあり、たがい自ら総本家、総本店と名乗り競って顧客を寄せているが、永坂本社工場こそ発祥の地、寛政元年、西暦でいえば1789年、フランス革命の起きた年に布屋太兵衛が創業した。

永坂更級本社    永坂更級発祥の地碑

 太兵衛の本業は太物商。国許(信濃更科)の領主保科家の参勤交代に供して江戸に来ていた。蕎麦打ちが巧みで、折にふれ商いぬきで屋敷勤めの家臣、その知己たちに馳走し、奉仕っていた。それがいつしか徳川の菩提寺増上寺に知れ、将軍墓参の折に蕎麦献上の依頼をされた。太兵衛はこれを名誉と受けとめ、心を込めて献上し、将軍はじめ、寺の坊さんたちにも食させ報謝した。
 増上寺の托鉢僧は全国を行脚し、その行く先々で太兵衛の蕎麦の旨さを伝えた。その伝えがお膝元である江戸まで達して、領主の肝煎りで永坂三田稲荷下で開業した。屋号は故郷更級の「更」。領主保科の「科」。それに地名の永坂を冠した。

 この時代に太田南畝がいた。幕臣ながら滑稽本を書き、蜀山人と号して狂歌など嗜んだ。その彼が更科の評判を聞き、食を試そうと友人何人かと誘いあわせて店に繰り込み、評判どおりの旨さに皆が満足したのだが、友人の食代を含めて彼が勘定を払う段に余りの値の高さに仰天し、暫し店裏の丘に鎮座する稲荷社ながめて嘆息し、やがて矢立てから筆をとり出し、さらさらと得意の一首。
 “更科の蕎麦は好けれど高稲荷(高イナリ)森(盛り)を眺めて二度と来ぬ来ぬ(コンコン)”
 余程懲りたのか二度と南畝は来店せず、店に残し置いた狂句が時を経て世に広まり、店は益々繁盛したという。

 オリンピック(1964)を間近に控えたこの年の春、新一の橋から飯倉片町を経て、麻布谷町に至る新道開削工事が完了して、商住混在した永坂町西端の町並みが大きく変貌した。道路開通まで以後3年を要したが、路の中央に高速車線を乗せ、その両端に一般道の上下線を据えた幅員50メートルの新道は、計画道路図面に引かれた2本の破線内の家屋を悉く倒し、由緒ある古刹があれば他へ移し、明暦の大火あとから存在した永坂を潰して町を変えた。時が流れて40余年。往時の町並みの記憶は既にないが、今は副議長公邸である旧河野邸の石垣と、その上に繁る古樹に古い永坂の面影が残る。

 更科本社工場を後にした歩道は、高速脇から離れて右手の急坂を経て台地に乗る。そこは麻布台3丁目(飯倉片町)を界する永坂町の一隅。高速道の騒音も和らぎ、人の往来も稀な屋敷町の入り口。僅か東進すると“永坂のホワイトハウス”前に出る。この邸が竣工した平成2年、当時の配達関係者は、こう呼んだ。小ぶりながら瀟洒な3階建ての白亜館。この邸に松山善三、高峰秀子夫妻が住む。 かつて30数年ほど前、数人の使用人を抱えた教会建築の豪邸であったそうだが、今は小さく建て直されて老夫婦の“終の栖”と聞く。

 戦後の混乱と窮乏の中を必死に生き、この年代の半ばに勃発した動乱特需で息ふきかえしたが、これが終息すると再び喘いだ。多くの庶民が末だ貧しく、倹しく暮らしていたこの年代、何故か映画界は光り輝いていた。 スター女優の高峰秀子は、帰国予定の英国人から、即金500万円で永坂の古い洋館を買い取り、永年に亘る義母との深い確執と決別して、この永坂に移り住む。その2年後の昭和30年、一つ年下の演出助手、松山善三氏と結婚する。この年を含めた前後の数年間は、正に日本映画の黄金期。邦画5社の何れもが週2本立て封切シフトで量産を続け、作品の内容は二の次にしても、空前絶後の活況を呈した。そして高峰は30歳。作品を選びながらも演出の要望に応えて、その役柄を見事に演じて数多の女優(演技)賞を得た。
 そして古い洋館は豪邸に建て替えられ、使用人の数も増えたが高峰は奢らず、後年に生じた映画産業の凋落に面してクールに対処し、色褪せる事なく年を重ねた。

 一方の松山氏は、結婚後6年目に好機が訪れ、自ら書いた脚本『名もなく貧しく美しく』でデビュー。戦争末期から戦後にかけての困窮時代に、社会の片隅で倹ましく生きぬく聾唖者夫婦(小林桂樹、高峰秀子)を感動的に描き、主役二人の好演、特に高峰の迫真の演技に支えられて、この年「キネマ旬報」誌が選んだベストテン5位にランクされ、文部大臣賞を得た。しかし、以後の出番は少なく10数年の間に凡そ10本の作品を手がけたが、年を経て時流も変わり、基調がヒューマニズムでは世に迎合せず、力作ながら不遇を重ねた。だが『典子は、今』は、実在するサリドマイド障害の少女を出演させ、障害にめげず、明るく生きながら自立しようとする健気な姿を正面から捉えて描き、多くの観客に感動を与えて注目され、この作品が代表作ともいわれた。
 なお脚本家としての松山氏は助手時代から注目され、ブルーリボン脚本賞はじめ、数多の賞を得ている。その一連の仕事について評論家の論評に「奇を衒う事なく直截、正面からヒューマニズムを肯定する独自の手法で その地歩を固めた。」とある。
 長らく銀幕から遠のいていた55才の高峰に木下恵介から懇願の声がかかる。実話を元に木下が企画し脚色した作品に演じ手がいないという。作品の内容が暗く難役で、既に数人の女優がキャンセルし、困り果てた末の願いであった。その苦衷を察して、一旦は断わったものの出演を決める。作品は『衝動殺人、息子よ』 路上で互いの肩が触れ、その争いで刺され一人息子を亡くした町工場を営む老夫婦(若山富三郎、高峰秀子)が、加害者が未成年というそれだけの理由で、余りにも軽い司法の裁決に理不尽を感じ、息子の死を犬死にさせまいと、同じ事例の被害者たちの遺族を訪ね歩いて同意を得て、通り魔被害者救済法の成立に向けて国に働きかける。この作品は社会的反響を呼び、この年の国会で審議されて翌年5月1日“犯罪被害者等給付金支給法”が公布され、この映画の訴えは実を結んだ。これを最後に子役時代から50年の間、出演本数400本に達する高峰の銀幕生活は終わった。

 南に古川を臨む港区最小の町、永坂、狸穴両町は、昭和51年に実施された周辺地区の町名変更(新住居表示)の際、狸穴町の一部(ソ連大使館など)が麻布台2丁目に編入された以外は 従来の町名が保たれた。
 これは両町二人の知名人が住民の町名存続運動に力を添えたからだと聞く。その二人は永坂町の松山善三氏、狸穴町の木内信胤氏。 松山氏はともかく、木内氏については全く不明。人名辞典で調べた。
 木内信胤氏は明治33年、東京で生まれた。祖父に岩崎弥太郎、のちに渋沢敬三が義弟となる。大正12年に東大を出て横浜正金銀行へ永年勤務。敗戦と同時に大蔵省へ入省。 終戦連絡部長、外為管理委員長など歴任して、GHQ支配下の省内で、戦後経済復興に尽力した。退任後は第3次吉田内閣はじめ、歴代3代首相の経済指南役を務めて、正鵠きわめた辛口の論調で世に知られた。
 町名変更にあたる行政(港区)は、この手強い名士と松山氏、更に同町内の石橋幹一郎(ブリヂストン会長)氏に加担されては分が悪く、静かな住民運動の末に「麻布」の冠称つきで町名は保たれた。なお木内氏のほんとうの偉さは、複数の学会の長でありながら豪邸に住まず、市井の一人として狸穴坂下の目立たぬ場所に居を据えていたが、平成5年に他界した。

 松山邸から東へ、ほんの一投足で植木坂に出る。「昔この坂から狸穴にかけて植木屋多く、菊人形に於て巣鴨染井に先んじて有名であった」と『江戸東京坂道事典(石川悌二)』に記載されるが、疑念もある。
 幕末までの巣鴨は江戸郊外の気軽な行楽地。わけても、とげ抜き地蔵の参詣と、中山道沿いの植木市は、町人の人気高く大層賑わった。また明治初年に売り出されたクローン種ソメイヨシノは、早咲きと、楚々と下向く花柄が人々に愛され、のちに花見どきの主流とされた。まだ墓地のない染井は日照にも恵まれ、種苗、植栽、生り(果実)木の一大生産地。大量の菊を使う人形や動物の造形は"巣鴨造り"と呼ばれ、菊人形の嚆矢になった。
 翻って幕末までの植木坂、狸穴あたりの両台地は高級武家地、その狭間の低地は御家人、小役人と住み分けられ、日照も限られ、手のかかる菊の栽培など可能なのかと素人ながら考える。当時の麻布飯倉絵図などに植木屋の記載もなく、この植木屋の有無についての信憑性は史実家に委ねるしかない。
 昭和6年に発行された『麻布鳥居坂警察署誌』地誌編「飯倉片町」の項に、次のような記述があり、原文を抜き書きした。
 「狸穴町と狸穴坂に併行して狸穴町に下る植木坂は昔鼠坂と呼ばれた。嘉永年間の頃は此辺に植木屋が多数居住し、菊人形を造ったものらしい」

 久しく訪れる事のなかった植木坂にかかる右側、鬱蒼と樹木が繁る柵内の奥に平屋建ての白亜館がある。柵に沿う入り口の鉄扉に『石橋財団、ブリヂストン美術館永坂分室』のプレートが上下に掛かる。かつて柵内は石橋正二郎邸であったが、オーナー死去して既に久しく、邸も整理されて様相を変え、いつこの事務所が建てられたのか知りたいと思い、庭内に入って分室玄関口に立ち、閉ざされたドアのブザーボタンを押した。絵画工芸品を観るのでなく、質す用件の曖昧さを考えている とドアが開き、中へ招かれた。応対に出た職員(学芸員)の物腰の良さに、多少気後れしたが、来意の主旨を伝えた。「この分室の職務に就いてまだ短く、充分な応えは出来ない」としながら、大まかな経緯は訊く聞くことができた。この事務所が建てられたのが平成7年、財団の入居もその頃という。元より財団は、ブリヂストン美術館の美術収蔵品を管理運営を目的とした法人、美術館が開設した4年後の昭和31年に設立し、美術館内に置かれた。財団が旧石橋邸に移転した機会に、館内の美術収蔵品の一部を永坂へ移送し、分室とした。ただ分室は本館と異なり、公開は差し控えて公報しない方針。余談だが、事務所完成時の外面塗装仕上げの際、先住の隣人松山邸に伺いをし、松山邸と同色にしたと聞く。訊き終わって礼をいうと、「切角ですから館内(展示)を観ませんか、案内いたします。料金はとりません。」といわれ恐縮して、早々と玄関口から退散した。

ブリヂストン美術館永坂分室

 ついでながら石橋正二郎氏の略歴と子息について少し触れる。
 石橋氏は明治22年、福岡県久留米市で生まれた。成人して家業の仕立て屋を継ぎ、のちに足袋専業に改めた。大正12年、足袋裏底にゴムを貼りつけ、堅牢な地下足袋を考案、陸軍に大量納入され、更に炭抗、港湾、土木その他、現場作業者の足元の安全性に寄与して巨利も得た。昭和期に入り、ゴム加工製造業に転じ、6年ブリヂストンタイヤ会社設立。自動車タイヤの国産化に着手した。戦時は軍用機タイヤの生産を推進。敗戦後の22年に逸はやく米国グッドイヤー社と技術提携、業界トップレベルのゴムメーカーに築き上げた。その他にプリンス自動車、ブリヂストン液化ガスなど、関連会社の経営にあたるが 、昭和38年、その任を長男幹一郎氏に託して実業の一線を退き、会長職、のちに相談役に就く。
 功成り、財を産してからの半生は、専ら造詣深い美術品収集と社会教育奉仕に力を注ぎ、戦災で廃校にされた港区立飯倉小学校の再建に協力し、個人所有地を校地用として寄付。故郷である久留米大医学部に研究施設棟を寄贈。きわめて話題とされた、昭和44年に竣工した東京国立近代美術館の建設費全額寄付。そして7年後の51年、87歳でその生涯を閉じた。
 一方、経営を継いだ幹一郎氏は、同族経営からの脱皮を策して広く経営人事など革新し、米国ファイヤーストン社を買収して北米進出を果たすなど、新分野を開拓したが、平成9年肺炎が素因で、77歳で他界した。

 「私の部屋はいい部屋です。難を云えば湿気に敏感な事です。一つの窓は樹木と、そして崖に近く、一つの窓は奥狸穴など の低地をへだてて飯倉の電車道を臨む展望です。」
 こんな書き出しの短編「橡の花」は、植木坂を下りかけた直ぐ左、堀口家(飯倉片町32番地)2階の一間を借りた東大生梶井基次郎の大正14年5月の感想。これまでいた目黒の下宿で、書きあぐねていた「泥濘」を、ここで漸く仕上げて同人誌に発表する。
 神経と肺を痛み、志半ばで夭折した作家が朝晩歩いた植木坂の隘路を下り、坂下T字路に出た。目の下は狸穴の窪地。その縁沿いに架けた自動車専用路が、緩いカーブで窪なかに並ぶ住宅裏の月極駐車場へ延びる。窪なかは静かな住宅地。三方の崖をビルが囲み、一本の生活道路がイタチ坂と狸穴坂の間を繋いでいる。

 植木坂下から、3町会を分けるT字路を北に折れるとイタチ坂下に出る。坂に標柱はなく、坂名の出自は文久2年の絵図からの仮称、小説『嵐』(後述)では植木坂としてある。短い急坂を上がれば外苑東通り、昭和40年代前半まで33系統(四谷3丁目〜浜松町1丁目)の都電が走っていた。坂下に狸穴に下りる急な石段があり、この石段を背にして「メゾン飯倉」がある。一見何の変哲もない4階建てのマンションだが、島崎藤村の旧居跡として知られている。この旧居跡に多少の補足を加えると往時は少し違っていた。
 坂下から片町側に付けられた石段を数段下りると、三方を大谷石崖が囲む狭い平地に同じ造りの二軒家があり、奥の2階建ての借家に藤村父子5人が暮らしていた。家の間数は5間ほどで、8畳2間の他は4畳半以下の小部屋。隣家との境の小さな庭に、サザンカ、バショウの木など植えられていたが、窪地のせいか日当り悪く、階下は穴蔵のような暗さであった。余談になるが厳谷大三が戦後書いたエッセーの中に、「飯倉狸穴あたりは戦災で一部を除いて焦土と化し、藤村の住んでいた窪地など、焼けた瓦礫の芥捨場にされ、後年整地されて地形が変わった」とある。
 ともあれ藤村は大正7年から昭和11年までの18年間をこの家で暮らし、『嵐』『飯倉だより』『夜明け前』など執筆刊行した。

 飯倉片町に住む以前の藤村は、心に重い十字架を背負い、転々と住居を代え生きていた。34歳から5年の間に3人の女児を亡くし、更に4女を産んだ直後の異常出血で妻冬子を失い、途方にくれた藤村は、遺された4児のうち、年端もいかない三男の蓊助。生まれて間もない柳子を里子に預け、故郷から姪(次兄の次女)を呼び寄せ、2児の世話を頼んで執筆活動を続けていたが、いつしか姪と不義に陥る。姪は身篭り、窮地に追い込まれた藤村は、予て話のあった外遊に心が動く。出発に際して次兄に姪との男女関係を隠し、幼な子2人の世話を頼み、半ば逃避のフランスへ旅立ち、その途次の洋上で次兄に告白文を送る。時を経て落着き先のパリの下宿に次兄の返書が届き、「兄弟の秘密として一切口外無用」と書かれていた。
 一方の姪も両親に打ち明ける事なく、伝手を頼って郊外で男児を産み、赤子はある夫婦に貰われた。

 藤村がパリで暮らし始めて一年後、第一次世界大戦が勃発した。戦火を避けて地方都市へ疎開したが、出国前に取り交わした新聞社への送文の都合で半年後パリへ戻る。当初の予想に反して長びく戦争で首都パリは疲弊し、何よりも逼迫する自らの生活に困窮して、一旦は国を捨てる気でいた藤村も、日毎に増す望郷の念から、帰国へと心が傾く。

 3年間に亘る外遊を了へ帰朝した藤村は、次兄に留守を頼んでいた二本榎(港区)の仮寓へ戻り、久しく成長した吾が子ら、すっかり生気を失った姪と再会する。自責の念に駆られて再生させたいと願ううちに、二人の関係は再燃する。だが同じ轍を踏むまいと自戒し、その告白を姪の同意を得て『新生』で公にする。
 「身内の恥をさらすまでして売文で金銭を得るつもりか。」と次兄に義絶を宣告され、「藤村は自殺するつもりなのか」と友人の田山花袋を懸念させ、「老獪なる偽善者」と芥川龍之介が糾弾する。これを機会に藤村は永く里子に預けていた蓊助と柳子を家に戻して、父子5人の飯倉での暮らしが始まる。

 先程の丁字路から南へ向かうと、車留めのポールが立ち、崖と窪に挟まれた鼠坂に出る。 飯倉で生活を始めた頃の藤村は、子育てと執筆生活の心労で、時には病に倒れ、その病み上がりのふらつく足で鼠坂を下り、森元町の銭湯へ通い、床屋へ寄った。
 鼠坂について藤村は、こう述べる。「大雨が降れば崖の水が、坂に敷かれた小砂利を押し流すが、春先の道に椿の花が落ちている様に風情がなくもない。」 春に鶯、闇夜に梟が啼く樹木の多い崖上。窪を隔てた向こうに東京天文台が望め、熊野神社の夏の祭礼には、太鼓や囃子、掛け声も賑やかな神輿や山車(だし)が狸穴坂を練り歩く。その光景が手にとるように望まれた過ぎし昔の坂上。
 今は窪なかから立ち上るマンションが狸穴坂を隠し、坂上の崖に大谷石が積まれて、中腹が砕かれ、戸建の石橋社宅が一列に並ぶ。
そして南の古川上を走る首都高速の向こうに、戦災を免れ、昔ながらの町並みを留めていた旧三田小山町の一劃も、時の流れで再開発に踏み切り、町を変える超高層ビルの頭が 既に空に向かって伸び始めている。

 鼠坂下から狸穴坂に抜ける短い小路は、江戸(宝暦)期からの道筋をそのまま辿る。 詰めの手前で渡辺家裏の板塀に突き当るが、往時そのまま右折左折し、藤村家脇から狸穴坂へ出る。この渡辺、藤村両家とも、風情ある瓦葺き下見板張りの和風民家。今どき稀有な存在なのか、近頃よく両家の被写体を風景写真でお目にかかる。

 永らく両家の真向かいから始まる石垣の上に、得体知れぬ廂状の厚いコンクリートが、道路際まで張り出していた。昨秋(平成20年)この坂を訪れると、飛散防止の仮囲いが掛けられ、 台地に据えた重機がアームを伸ばして、このコンクリートを破砕していた。
 坂の中程まで上ると、ロシア大使館の境の擁壁に建築確認の看板が取付けられ、台地の下半部全域が再開発されると知った。坂の東側半部を占めるロシア大使館と、ほぼ同面積を有する下半部の台地は、東京アメリカンクラブが所有する会員制社交クラブの土地なのだが、戦後の一時期、GHQに接収されていた。その理由は、戦前の昭和6年から敗戦時の昭和20年まで、ここに満鉄総裁公館(満鉄クラブ)があったからで、国策会社満鉄関係の施設は、戦後逸早く国内外を問わず査問をうけたと聞く。例えば返換されて商船三井ビルが建つあの虎ノ門の土地も、元は、満鉄東京支社(満鉄ビル)が所有し、戦後は米国大使館別館として使用されていた。
 戦後6年、単独講和批准の際に、抱き合わせに結んだ安保協定で狸穴の土地は返還される事なく米国軍人の休養施設として買収された。後年この土地は関東法人に払い下げられ、それと同時に新しいビルが建てられたが、これも年月を経て老朽化し、既に港区高輪へ仮移転し、再開発終了後に再び狸穴の地へ戻る。

 「狸穴町は古の飯倉村に属して、雌狸(まみ)の穴があったので狸穴と言う。延宝の頃一箇村となって独立し、明治5年三春藩秋田氏邸及び土地を合併した。電車通りに面して霞ケ関より昭和5年に新築移転したソビエト大使館がある。赤い国とは反対な真白な建物で、貯金局とは相対し、此辺り近代的風景がマロニエの街路樹に戦いでいる。」
 狸穴町の変遷について、先述の『鳥居坂警察署誌』地誌篇「飯倉狸穴町」の項を原文のまま上記に示した。

 藤村家の角から狸穴坂に出て、片道歩道の坂に入ると、窪に退く渡辺家2階の屋根越しに、 低く蟠る永坂台地の屋敷林。その真上後ろに聳える六本木ヒルズ森タワーが、窪地を囲むビルの隙間に、僅かながら望まれる。
 坂の中程には、この狸穴唯一の高層、狸穴マンションがある。崖下から立ち上がる下層階は店舗、中層階から上は、ホテル居室に晩年の木下恵介が一人住まいしていた。平成10年の大晦日、86歳で生涯を終えたが、抒情性豊かで社会性ある名画を、数多く残した映画界の巨匠の、その死に際を知る人は意外と少ない。

 この狸穴マンションと、隣の麻布東急アパートメントの境の歩道脇に ロシア大使館側面警備の立番所が置かれ、常に当番の警官が坂を上下する通行人、向かいの高石塀を黙視している。その高石塀に目を向けると、仰ぐ高さの白亜の館邸が、塀際の向こう真上に直立している。
 世代の相違もあるが、戦時を経た世代の多くはロシアに好感をもたない。
 学生運動が最も盛んだった昭和40年代後半。国電恵比寿駅前でソ連賛美のアジ演説していた学生に交じりビラ配りしていた女子学生に、年輩の男が敗戦直後の満州に於けるソ連の行為をなじった。その女子学生は応じた。「労働者の味方であるソ連軍が、そんな非道である筈がない。」
 あれから20余年。あの女子学生は多分平凡な主婦に収まり、見た目に一枚岩を誇っていたソ連邦は 呆気なく崩壊して新生ロシアに代わった。だが、体制が代わった今も、返還する気もない北方領土を好餌に気を持たせて、日本人を化かし続ける。そんな国の狸穴の大使館だが、 その中庭の真ん中に、信楽焼の狸穴を鎮座させるユーモアも心得る。

 狸穴坂から外苑東通りへ出た。通りを隔てた正面に麻布郵便局の玄関口。鮮やかな外面タイルのウコン色が目を惹く。これが昔の逓信省貯金局。昭和5年に竣工した。4階建ながら奥行の深い空間。後方に我善坊谷を控えて量感を保ち、戦前は勿論、日本郵政飯倉ビルと名を改めた今も、旧麻布飯倉通りのランドマークとして何ら遜色ない。麻布郵便局は、この東端に置かれて、この部署は戦後暫く、ソ連のある機関に接取されていた。

麻布郵便局

 幕末から明治維新に関わるまでの麻布飯倉界隈は、町人が住む片町を別として、その大方は武家地であった。明治4年に廃藩置県が施かれ藩主たちが立ち去った後、その何人かが新政府から爵位を授かり、そのまま屋敷に居残り主従ともども寄り合いながら暮らしていた。

 この通りに市電が走る大正期に入ると、その大方の屋敷は淘汰され 官有地か商用地に推移 したが、あの関東大震災が見舞う前後まで、電車通りのあちこちに黒く塗られた屋敷門、出格子の並ぶ武者窓造りの屋敷など、僅かばかりが残されていた。

 そして藤村はインバネス、白足袋姿で電車通りを六本木まで歩き、馴染みの店で買い物を済ませた。少し年をずらせば大学生の梶井基次郎も、同宿の伊藤整と連れ立ち同じ経路で六本木か十番あたりのカフェに立ち寄り珈琲を味わい、アイスクリームを舐め、たまには酒を酌み交わしながら文学を語り合った。 その頃飯倉の街路樹は七葉樹。初夏に白い燭台のような花穂を枝先に直立させ、この花を藤村はマロニエ(トチノキ。マロニエは異種)と称して、過ぎしパリ生活を懐古し、基次郎は、「橡の花」を書き上げた。
 そのマロニエも昭和30年代後半に始まる地下鉄(日比谷線)敷設工事で殆どが枯死し、今はロシア大使館前の歩道に、僅か数本が生き残っている。

 狸穴坂上を東に折れ、ロシア大使館の石塀沿いに歩くと、辟易するほど館外警備の警官と目が合う。常時閉められた正門を横目に顔を車道に向けると、丁度このあたりが榎坂上。向かいに並ぶ建物越しに霊友会釈迦殿の黒光りする壮大な寄棟屋根が目を捉える。
 坂は途中でくの字に曲がり、凡そ160メートルで飯倉交差点に出る。榎坂の由来は諸説あり、判然としないが、昔この土地の伝えに、坂の途中に大榎があった事に落ち着く。 藤村の『嵐』に榎坂の短い記述がある。愛宕下の下宿旅館(風柳館)から、飯倉片町へ向かう引越しの家財道具を大八車に積み込み、業者が引く荷車の前になり、後ろになりながら榎坂を上る情景。大正7年の榎坂は既に市電が走っていた。

 国道と出会う飯倉交差点手前南角に、外観楕円のノアビルが建つ。下層部は赤レンガ、中高層部は黒く塗られたコンクリート。外壁面は窓が極端に少なく、遠目はまるで墓標のようだ。
 このビルが竣工した昭和49年は第1次石油ショックの翌年。まだ周辺(霊友会釈迦殿は 建設中)に目立つビルは少なく、いやが応でも人目を惹いた。あれから30余年を経て交差点周辺は様相を変え、ノアビル自体もくすんでしまい、人の手の届かぬ上端のタイル目地あたりに植物が芽を出し、鬼才といわれたこの建築家の作品も、今となっては精彩を欠く。

 このノアビルから後戻りして、ロシア大使館の塀角を南に向かうと、台地が尽きるあたりの右の崖上に僅かばかりの植込みがあり、その一隅に旧日本経緯度原点のモニユメントがある。磨かれた花崗石の低い台上の中央に数センチの丸い金属標が嵌められ、その中に彫られた交差の中心が、日本に於ける経度、棒度、方位角の原点とされた。
 明治25年、ここに東京天文台が設置され、同時期この原点も置かれたが、平成13年に測量法が改正され、以後は宇宙測量技術を主とした世界測地系が採用され、原点は、つくば市国土地理院内に移された。
 なお東京天文台が置かれた麻布は、大正期に入ると急激な都市化が進み、もはや明る過ぎて 夜間の天体観測に支障を来し始めて、大正3年から10年をかけて、拠点を三鷹村(現三鷹市 大沢)へ移しかえた。

日本経緯度原点

 飯倉大地の南端に 東京天文台が置かれたその頃、この崖上から真っ青な品川の海が見えた。 春先のある日、白いエプロン姿の幼な子が崖上に佇み、崖下で遊ぶ子らを羨む目で見ていた。 この子は崖の背後に屋敷を構える高級官吏の“お坊ちゃん”。母親は臨月を迎えて気忙しく、 坊ちゃんの世話は乳母、女中、車夫などに委ねていた。
 広いばかりの薄暗い座敷で、日なが 玩具遊びも飽きてしまい、大人たちの目を盗んで屋敷 をぬけ出し、この崖上まで遊びに来た。
 崖下では子どもらが 崖をよじ登ろうと雑木を掴み、しがみつきながら崖上を目指すが、力不足で到達できない。そのひとりが崖上の子に向かって呼びかけた。「坊ちゃん、一緒に遊ぼうよ。」
 坊ちゃんは翌日、町へ下りる。日頃いわれている「卑しい町の子と遊んではいけません。」 の戒めを破って。
 崖下の町(森本町)では、常設の芝居小屋もある賑やかな町。町の子を仕切るガキ大将も 坊ちゃんを心よく迎え、町の子に交じって メンコや独楽まわしの楽しさも覚えた。
 その仲間うちの姉に鶴ちゃんという器量よしの子がいて、坊ちゃんは 縁台遊びで膝上にのせられ、頬ずりをうける。坊ちゃんも鶴ちゃんを姉のように慕う。
 初夏の熊野神社の祭礼は、下の町では最大のイベント。坊ちゃんが住む屋敷町では 祭礼など無関心で冷淡だが、下の町では町全体が盛りあがる。
 夏が来て、坊ちゃんは町の子と離れ、恒例の家族ぐるみの南の海へ避暑に連れられ、ひと夏をそこで過ごす。
 秋口になり、海から帰った坊ちゃんは、待ちかねたように坂を下り、遊び仲間と再会したが、 あの貧しい魚屋の鶴ちゃんが、芸者見習い奉公で 遠くの花街に行くことを知らされる。
 そしてまもなく、これが屋敷に知られてしまい、町の子との交流が絶たれて元の屋敷の子に 戻る。

 以上は、水上滝太郎の創作「山の手の子」のあらすじだが、作者の想いも表している。
 水上滝太郎(阿部章三)は、阿部泰蔵の四男として明治20年に生まれた。父泰蔵は、官界の 要職に就いていたが、のちに下野して明治生命相互会社を創設した。
 ひ弱だが、元来学業に秀でた滝太郎は、父の勧めで慶応理財科に進むが、永井(荷風)教授に心酔し、父に内緒で文科の講義をうけていた。父泰蔵は徹底した実利主義者で、社会に忌わしいものは 非生産的な楽士、画家、文士の類といって憚らなかった。
 滝太郎は後年、父が創設した会社の講堂で講演中、壇上で倒れてそのまま逝ったが、死因は脳溢血、55歳の若さであった。
 滝太郎の生家は熊野横町に下りる南角、現在の「ザ・麻布台タワー」がそれである。

―終わり―

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