坂のある街の記憶

   南部坂、木下坂と周辺の風景   遠藤武夫
 木下坂から、地下鉄日比谷線「広尾駅」までの550mを歩く。

 盛岡町交番前から始まる緩い下りは、愛育病院の植込柵に沿う。柵内に並ぶサクラの古木は、春に見事な花を咲かせて歩行者を悦ばせる。都立中央図書館に向かう『有栖川公園通り』を横切り、公園『三軒屋門』前に出る。

 門内を覗くと、丘陵部に繋がる浅い窪に擬木の橋が架けられ、谷へ下りる石段が手前に見える。門から先で坂はやや西を向き、門から続く長い塀は平成5年に低く切られて、坂を往き来する歩行者が園内の眺望を楽しめるようにと、港区の配慮が為された。
 塀外から覗く橋の下には井戸が掘られ、湧出した水が滝になって谷へ落ち、そのまま鉄柵内に流れ込む。この鉄柵は昭和時代の夏のイベント『ホタルの夕べ』の名残りの柵で、ホタルの幼虫の餌場、カワニナ、タニシが生息していた。柵を出た水の流れは、沢に置かれた飛び石を擦り抜け、それから先は視野から消える。両岸に延びる遊歩道。それに架かる幾つかの擬木橋。谷を覆う樹木の中には、イロハモミジやカツラなど、紅葉黄葉樹も入り混じり、四季折々の彩りを塀外の歩道から見下ろせる。
 塀際の土塁が高さを増して塀の高さを遥かに超すと、園内の眺めは消されて土塁を眺めながらの下りになる。アズマネザサが茂る土塁の上には公園特有の混交林が暫く続く。その中程に1本のイイギリが立ち、晩秋にたわわな赤い実を歩道に垂れ下げる。

 その反対車線側に、末日聖徒イエスキリスト教会が立つ。坂沿いが高級マンションで占められた現今、白亜の会堂、壁面に嵌め込まれたステンドグラス、空に向けて屹立する尖塔が陽を浴びて銀光を放つ様は、この坂の景観を強く印象づけている。
 坂はこの先で南へ緩くカーブし、正面に広尾タワーズが見え始めると旧道を分ける。分岐点にケヤキが1本、その下に木下坂を示す木柱が立つ。この地点で公園側は土塁が失せて園内の池が見渡せる。池の端に「筋かい橋」が架かり、対岸中腹にある梅林は、早春、芽吹き前の裸木立の中でそこだけ白く浮かび上がって、その存在を知る事ができる。池に浮かぶ二つの小島は、島全体に樹木が繁茂し夜にはアヒル、野鳥の住み処になる。公園の眺めは此処で終わって坂下の広尾門に着く。

 門横で南部坂を横切り、十字路を越すと、道は西に折れる。直進する道は一方通行の進入路で、広尾稲荷神社から新富士見坂、青木坂を経て、フランス大使館の先で「明治通り」へ出る。
 西へ折れた本通りは凡そ100mで「外苑西通り」(広尾橋交差点)に出る。その間の歩道は広尾タワーズの鉄柵に沿い、柵内からはみ出す常緑樹が角地の銀行ビル(東京三菱)まで続く。角を曲がると、タワーズ西門、「広尾ガーデンプラザ」が並び、道を隔てた渋谷区側には、広尾5丁目のランドマーク、瀟洒なメタリックパネル、アイボリーカラーの9階建て「広尾プラザ」(明治屋広尾ストア)が下町風な商店街の入口を飾る。 広尾に明治屋がオープンした昭和52年4月の当日。殺到する買物客に、入場制限を繰り返す混雑ぶりは凄まじかったが、広尾商店街の店主達の表情に少しの狼狽もなく、平然としていた。何故なら、ナショナルスーパーの前例もあり、商品も、価格も、客筋も異質と知っていたからだ。むしろ明治屋で、商店街のイベントには協力して共存共栄を図っている。

 港区側の一方の角地に小さな6階建ての「ナガツ電器ビル」がある。その1、2階を借り、パンの製造販売を行う「神戸屋キッチン」は、その高額な賃貸料で地域の話題になったが、隣が地下鉄「広尾駅」の出入口という地の利もあって繁盛している。向こう側(渋谷区)の角地にも分店があって、販売と軽食を兼ねている。隣に小規模な何の変哲もない4階建ての「地下鉄ビル」があるが、以前テレビ放映された事のあるビルだ。1階に改札口、駅事務室、乗客用トイレ、地下ホームに通じる階段という普通のレイアウトだが、紹介された映像は、此処の駅務員に義務づけられた"賄い当番"の風景だった。制服姿で商店街に出向き、食材の調達、調理、和気あいあいの食事など、地下鉄では、地下構造物に都市ガスを埋設する事を禁じているから、厨房と食堂は階上にある筈で、駅務員は隣駅である恵比寿駅と兼務なのか、自動改札口に切り替える前は同じ顔を両駅の改札口で見ている。

 3、4階は仮眠室であるらしく、この駅の六本木駅寄りの構外に初電、終電の車両留置線があり、その為の乗務員の待機所として仮眠室を設けている。 この駅のホームに通じる階段が長くキツいのは、暗渠化された笄川の川底に沿いホームが延びているからで、更に相対する出入口が川島材木店からの借地のため、その地所内で階段をまとめた理由もある。尚、賄い当番はその後、廃止されたものと思う。

 坂下の十字路に戻り、再び対向歩道を駅まで歩く。狭い歩道に商品を並べる花屋。歩行の妨げになるが、花の放つ芳香が鼻をくすぐる。総ガラス張りのテナントビル。ショーウィンドウに顔を近づけ陳列棚の商品は何かと確かめると、どうもお茶らしい。ブティック、カフェテラス、ギャラリーレストラン、ファストフード店・・・。 此処に存在した仕舞屋も店舗に改築して、増え続ける外国人や他所から訪れて来る人達を誘い込む。“広尾はハイセンスな街”のイメージを売り込む不動産屋と、マスコミの後押しが利いたのか、何の店も日中は賑わう。だがそのド真ん中に40年近くもゴツい自動車タイヤを店頭に並べて頑張る店もある。
 40年前と言えば未だ地下鉄は開通せず、現在角地に在る神戸屋キッチンは、木造2階建て「松下電器広尾寮」で、隣の「みずほ銀行広尾支店」は材木店営業所と木材加工工場、行員通用口は川島木材店の材木置場だった。並びの「ひらまつ」は“優雅な食通”を自認する向きが来店する有名レストラン。元は上田クリーニング店とその工場だった。クリーニング店はそのまま裏へ移動して健在である。

 現在は裏通りになってしまった「有栖川ウェスト」の辻から、南へ向かう約50mばかりの狭い道の両側に、10余りの店が並ぶ。殆ど生活の見えない邸宅地の端に、踏ん張るような形でいる。その全てが昭和初期からの家並みに建つ南麻布5丁目唯一の商店街で、かつて存在した駄菓子屋、ブリキ屋、木工所などは無くなり、不動産屋、美容室、日本料理屋などに替った。

 土間か板張り床だった以前に較べ、それぞれの店が今風のインテリアに変え、「変われば変わるもんだな。」と感心もした。
 道を挟んで東側に並ぶ店は、すべて鉄筋コンクリートに立て替えられたが、元はと言えば西側に並ぶ店と同じ木造2階建て、瓦葺屋根、表に面した2階の壁は、リシン仕上げの商住兼用家屋だった。
 北角の店は、銀座に本店がある「天ぷら、大竹」で、予約制の看板を掲げているから恐れ入る。隣にあった町会事務所(南麻布5丁目)が何処かへ移転し、替りに郵便局が収まった。聞けば、元は北条坂上の邸宅地の近くにあったのだが、あの辺りの再開発に遭遇して街中へ下りて来た、と言う。2軒先の「むかでや染物店」は記憶に残る店で、昭和20年代前半、此処の“出戻りさん”には大変お世話になった。存命ならば、とうに80歳は超えている筈だ。南出口に自動車タイヤの「柴田ゴム店」がある。
 西側に並ぶ店は、不動産屋で始まり、不動産屋で終わる。本当は南出口に古くからの豆腐屋があったが、昨年店をたたんでしまい、そのあと店を大改装して、カレーを含むスープショップ「SOUP STOCK TOKYO」に生れ変わり、それが何故か予想外に当たって、かなりのお客を引き寄せている。

 不動産屋隣の美容室と並ぶ「中島理容室」は、北条坂下に住んでいた60数年前、親が決めた馴染みの店で、髪が伸びると此処へ来て坊主頭にさせられた。1軒措いた酒店「池田屋」も古く、此処の店主は目がきつく、精悍そうな体躯だが、年老いて痩せ、表情も柔和になった。店の軒下にある酒類の自動販売機に、夕暮れ時に決まって人が集まり、店角から路地に入って旨そうに飲み始める。この路地は広尾駅に通じる近道の割に人の往来も少ない格好の場所で、南部坂、木下坂周辺で絶えず行われている再開発事業地で働く職人達が、一日の労働を終えた後のささやかな楽しみとして、“集散交々”永く受け継がれている。
 この隣の「やきとり、ますや」の実体は、ブタの内臓の串焼だが、此処も開店時間になると何処からともなく集まる常連客で占められる。この隣の日本料理屋にテレビ局の取材があった。後日放映されたその画面を見て、“効果は如何に?”と店を覗き見したが、さほどの変化も無いと結果が出た。

 「有栖川ウェスト」の辻から西に入り、北に向かう道は江戸の頃から在った道で、武家地と畑地の境目をくねくねと曲がりながら笄川に出て北条坂、小橋を渡って堀田坂へと向かっていた。
 現在もほぼ同じ道を辿り、天理教南東分教会の裏から「ジョナサン」の脇を抜け、順心学園女子中、高校前の表通り(外苑西通り)に出る。

 辻からそのまま西に向かうと、1分足らずで広尾駅に出られる路地がある。昭和50年前半まで、初めて此処に入る人は迷路に立ち向かうスリル感を味わった。軒の低い家が両側に並び、雨の日は傘も差せない狭い角を曲がって、混在する小工場の脇を抜けて表通りに出られた。

 50年代後半、地上げの高波が表通りを襲った。ガーデンプラザに隣接するキューバ大使館が賃貸料の高騰に音を上げ、他区へ移転し、沿道に在った低層の工場、倉庫、会社寮などが次々と姿を消し、ビルに立て替えられた。
 表通りの街並みが変わると、遅れ馳せながら裏側の住宅密集地に余波が押し寄せ、広尾駅裏の路地も例外なくその波をかぶった。
 先ず表通りに面した「池田工場」が立退き、裏隣の「森川製作所」も消え、その空地に“東洋建設再開発事業地”の大看板が立った。そして次の標的が路地の家主に絞られ、櫛の歯が欠けたような空地が広がり始めた頃、バブルが弾けた。迷路が消えて陽が射しみ、誰もが気兼ねなく歩けるようになった道脇のあの大看板は何時とは無しに外されていた。

 日曜日の午後、買物客で賑わうナショナルスーパー前から南部坂に向かう。スーパー駐車場入口には入場待ちのクルマが何台か並び、数人の係員が混み合う場内と、場外の歩行者に気配りしながら、クルマの入出場を誘導している。
 駐車場を過ぎると坂上が見え、緩く上り始める。坂は、上と下とでS字状を描く緩いカーブで、この坂を称し「まるで心臓破りの坂」と語る記述を、いつかエッセイで読んだ気がする。
 南部坂幼稚園からは本格的な上りで、ドイツ大使館正門、それから先は排気ガスで薄汚れた大谷石塀に沿って、坂上の公邸正門まで一気に上る。しかし見た目より急坂でない証拠に、坂全体が通常のアスファルト舗装で、滑り止めがされていない。
 向かい側は公園のコンクリート塀が坂上まで延び、これも70年を経た傷みで化粧直しや補修の跡が痛々しい。園内の傾斜地に林立するケヤキは勢いが盛んで、長く伸ばした枝葉が塀外に張り出し、車道を覆う。
 坂は休日の午後とあって、様々な国籍の人達がカジュアルウェアで行き交い、街中もこの人達で賑わう。しかし平日は少し違って、坂の途中にゲートが開かれ、工事車両が頻繁に動く。
 昨年(平成15年)秋半ばから始まった大使館本屋解体工事が年末に終り、年明けから基礎、そして躯体工事。やがて仕上げ工事に移って、来春には新たなドイツ大使館が出現して坂の景観を少し変える。
 だがそれも僅かな期間で人々はその風景に馴染み、古い風景の記憶は風化し、やがて忘れ去る。

終わり
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