坂のある街の記憶

   新富士見坂 青木坂あたり   遠藤武夫
 新富士見坂の坂上の標柱に「江戸時代からあった富士見坂(青木坂)とは別に明治末か大正ごろ開かれた坂、富士がよく見えたための名であった。」とある。役所が何々ごろでは困るが、大正13年の沿革図に坂名が初めて載る。この坂からは見ていないが、南部坂隣の公園内に或る箇所に、今も冬場に富士が姿を現す。都内各地の富士見坂から、見えて当然と思われていた富士の眺めも、昭和40年代に入った途端、突然起きたビルラッシュで、次第に坂から姿を消す。そして昭和45年5月、都電広尾車庫跡に14階建て都営アパートが建ち、ここも坂名だけの新富士見坂となった。

 新富士見坂上の右角にエアリイ(マンション)が建つ前、この敷地に時計で名を成す服部邸があった。1kb離れた三光坂上(白金2丁目)に三光起業と社名を掲げた豪邸がある。そこが創業者、服部金太郎氏の住まいだったと聞くから、こちらは何代目なのか、一方、左角に外人宅がある。いつも門扉は開け放なされ、中を覗けた。広々とした芝生の奥にブランコとすべり台、ビニールプールなどが置かれて小児がいる家庭なのだと想像した。サンルームなのか総ガラスに引き戸。大型の犬小舎。ポーチ脇にはサルスベリが植えられ、夏にピンクの花を咲かせる。

 木造2階建て。外装は乳白色のペンキ塗装、オレンジ色の屋根瓦、おおきな角型煙突。不思議なのは未だ一度も家族の姿を見かけた事がない。10年前までは、ノースウエスト航空のクラブハウスで、会社が撤退した後、個人住宅に改築された。近頃はいつ見ても、門扉が閉じられ、気になり、裏口内に引き込み電柱を見て、空き家になったと確認した。
 引き込み電柱のすぐ脇に、20メートルに達する2本のヒマラヤ杉が立つ。 樹は区域(港、渋谷)に跨る天現寺橋歩道橋からもよく見え、坂の位置周辺を示す目安だった。ところが近頃、橋下の寺地と墓地の間に13階建てのマンションが建ち、橋上からの坂の眺めは絶たれた。ヒマラヤ杉を境に、隣がホーマットアンバサダー(マンション)。鉄平石を平積みした築地塀の中は手入れのよい低木の植栽。外人好みの大きな窓と白いカーテン。外装に見栄えが引き立つ黄褐色のタイル。3階建てながら崖上に立ち、この坂の新たな盟主として存在感を示している。

 坂上右角、エアリイから坂下に向かって、戸田邸、安居邸と続く。この両邸は古く、富士が見えた昔から居を構えて、移り変わる坂の風景を見続けている。坂は隣の麻布コート(レジデンシャルホテル)前で、勢い南へ屈曲する。この西角の片隅に「新富士見坂、昭和4年11富士見町会」と彫られた石柱があったが、邪魔なのかいつの間にかなくなった。邪魔といえば崖に沿う防護差柵も同じで、昔は柵から家々の屋根が見下ろせたが、今は柵際までビルが立ち並び、その大半が坂側に出入り口を設けて、邪魔だとばかりに撤去している。角を曲がってからのホーマットは崖前にルーフガーデンを造り、擁壁で抑えている。崖をくりぬいた屋内駐車場の少し先で西へ折れ坂下に出る。
 平成16年の春先まで、新富士見坂を上った向かい側に、土塀風に屋根瓦を載せた優美な白塀が南に向かって延びていた。T字路を東に折れた先の門脇に、小さな郵便受けが嵌め込まれて、これまた小さく松寿荘と記されていた。

 坂上角の外人宅を含めて、青木坂までの間に3戸の邸宅が並ぶが、その真ん中に、ロシア系イスラエル国籍、資産家と噂の老未亡人、住み込みのメイドさん(年齢不詳)一匹の老犬だけの世帯がある。そのメイドさんと朝の挨拶がきっかけで、近所話を聞かせて貰っていたが、やがて彼女は警戒心を持ちはじめ、それ以後は挨拶だけで止めているが、そんな話の中で、松寿荘は出光興産社長、出光佐三氏の別邸で、主に私的な迎賓館として使用された。青木坂の手前に数奇屋風な門構え「北川」と表札がかかる邸宅があり、住人は、かつては柳橋芸者、小柄ながら中々の美人で、出光氏が物故してからも久しく住んでいたが、今は引き払って郊外に家を建て、ひっそり暮らしているらしい。

 社長が替われば社の方針も変わる。やがて両邸ともに消える時がくる。先ずあの白塀が壊されて、塀外にある1本のクスノキの大樹を残して、邸内の樹木は一本も残さず根こそぎ倒された。そして今、松寿荘跡に6階建て、「パークマンション南麻布」が建ち、北川邸跡にも豪華さを予測させるマンションの躯体工事が進行している。

 青木坂(富士見坂)の標柱に、「江戸中期以後、北側に旗本青木氏屋敷があったために呼ばれた」そう記されている。沿革図(文久2年)は坂上に青木美濃守邸、坂下を境に南が戸沢上総守邸、北に青木孫太郎邸がある。遠い江戸期は差し置き、同図(昭和8年)に坂の南側一帯に徳川邸があったと載る。当主は尾張徳川家17代、徳川義親侯。略歴には狩猟家として知られ、戦前にマレー半島で虎狩りを行い勇名を馳せる。戦後、日本社会党創立に寄与。文化服装学院短大学長、日本狩猟会会長。昭和51年没。その殿様も昭和9年、飯田町から移転したフランス大使館に城(土地)を明け渡す。

 青木坂からの視野は狭く、眺めは正面、恵比寿ガーデンプレイスタワー(40階)だけに限られる。フランス大使館の石垣と高い塀、北川邸の大矢石垣とフェンス、その両側を覆う樹木が、幅3b余り、長さ100b余りの急坂を更に狭く感じさせる。かつてこの坂から富士が見えたとは誰もが想像し難い。

 晴れた冬の日、ガーデンプレイスに上り、西方を望むと、相模平野の果てに連なる丹沢山塊の上に、白雪をまとう悠久の富士が遠い東京の空を見つめている。かつて存在した富士の見えた頃の富士見坂を懐かしみながら。
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