中京の坂だより・7     

尼ヶ坂
西にむかう「尼ケ坂」、往時の面影はない
とのこと。 坂上から。右に「尼ケ坂公園」
 名古屋の中心地栄から東に向かう名鉄・瀬戸線で5分、3つ目の駅に「尼ケ坂」という駅がある。 丁度名古屋城の東方1km弱にあたる。かって広大な敷地を誇った福澤桃介と川上貞奴が 住んでいた邸から5百米ほど北である(この邸は現在「文化のみち 二葉館」として復元)。 この駅の近くには「尼ケ坂」ともうひとつ「坊ケ坂」と呼ばれる2つの坂道がある。
この辺りは名古屋台地と北側の平地の間に東西に走るちょっとした崖があり (高低差6〜7m)、この間にいくつかの坂道が見られ、「尼ケ坂」もその ひとつである。

「尼ケ坂」はこの地にあった蔵王の杜(もり)から北西に向かうなだらかな坂道であった。現在では蔵王の杜を切り開いて新しくできた道路の北に下っている坂道が「尼ケ坂」と思われているようである。
一方、「坊ケ坂」は蔵王の杜を北東に向かう坂道で、ここは今も昔の面影を残している。そして蔵王の杜は新道によって東の片山神社と西の「尼ケ坂公園」に二分されている。


「尼ケ坂」と思われている新道の風情のある坂道
左が東で片山神社、右が「尼ケ坂公園」、坂下から

ところで両坂の名前は悲しい恋の物語に由来している。
上に触れた蔵王の杜はこの地にある「片山蔵王権現」から出た名で、709年創建と言われる片山神社は今もかなりの森とともに鎮座している。
「昔この辺りに住んでいた美人の村娘(権現小町)が高位の青年武士と恋仲になり、男の子を身籠りました。しかし、身分の差から仲を割かれ、女は尼となり世を捨て子どもと暮らしていました。とはいえどうしても男のことが忘れられなかった女は、気が触れて或る雨の夜坂道にある杉の木に首をかけて命を断ちました(この辺りは杉の木の多いところで、今も大杉、杉村など地名にも残っています)。男の子は近隣の人に引き取られたのですが、母を慕い片山神社の蔵王の杜をさまよい餓死 してしまいます。こうしたことから尼が亡くなった坂道を「尼ケ坂」、男の子が亡くなった坂道を「坊ケ坂」と呼ぶようになりました。」
 今でもこの2つの坂では心霊現象が起きると言われています。

 「尼ケ坂公園」という公園の案内には「悲恋」としか書かれていないが、江戸なら芝居の題材にでもなったかも知れない。
神社と公園にはさまれた新しい坂道は大田区の「さくら坂」のような佇まいで、訪問したときは近くのお嬢様学校として有名な金城学院の生徒たちの通学路として生気があふれていた。また、その昔この地域は「辻斬り」が出没したようで、被害者の霊を慰めるため公園の西側には蔵王山地蔵院が「尼ケ坂」の坂下に設けられている。
 また、この辺りは史跡散策路としても案内されている。


「坊ケ坂」、坂上から。左は片山神社
「尼ケ坂」坂下にある地蔵院
後が「尼ケ坂公園」

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