中京の坂だより・8    枳殻坂(きこくざか) 清水坂

(これが外堀、ここを電車が走っていた)
(これが外堀、ここを電車が走っていた)

 今回は名古屋城から東に向かって歩いてみる。
 この地では北側の地が約10m低くなっており、坂が多く見られる地域である。 東大手を出ると外濠(空堀)を跨ぐ清水橋がある。この堀の中を十数年前までは 名鉄瀬戸線が走っていて、急曲線が見られた珍しいところである。 この濠に沿って南北に走る柳原街道を北に下る坂道があり、 これが「枳殻坂」(きこくざか)である。

(枳殻坂、坂下から、右が外堀、左が明和高校)
(枳殻坂、坂下から、右が外堀、左が明和高校)

 枳殻とはからたちのことで、今は銀杏の並木となっているが、かっては道路の西側に棘のある枳殻 (からたち)の木が植えられて、城壁の防御の役割を果たしていたところからこの名がついた。 坂下には御土居衆と呼ばれる同心が居住し、万一の時に城主を城外に逃がすための備えをしていたという。 また、坂の東側には明和高校(藩校の伝統を引く明倫中学と県立一女が統合された有数の進学校)があるが、 この地は犬山城主で家老の成瀬家の屋敷であった。その東側には歴史の古い七尾天神社 (7つの尾を持つ亀がお使い)があり、受験の祈願者で賑わっている。

(清水坂、坂上から、右上が余芳亭、この日は生憎ゴミ収集日)
(清水坂、坂上から、右上が余芳亭
この日は生憎ゴミ収集日)

 さらに東に向かうと清水口があり、現在は小牧に向かう国道41号線や高速道路が通っているが、 その西側に平行して上街道と言われた旧道があり、ここにある北へ下る坂道が「清水坂」である。 新国道と異なり、屈折して続いている。東側には名古屋城の茶室であった「余芳亭」が移設されているが、 公開はされていない。

 国道の東側には白壁、主税(ちから)、撞木(しゅもく)などの「町並み保存地区」が拡がり、 武家屋敷や豊田佐助(豊田佐吉の弟で兄を支えた)などの大正モダンの住居などがある。 名古屋城下の風俗や藩士の日常生活を記した『鸚鵡籠中記』を残した御畳奉行・ 朝日文左衛門重章の住居もあった地域である。

(長久寺の山門)
(長久寺の山門)

 また、女優第1号として知られる川上貞奴が福沢桃介と住んでいた「二葉御殿」(国登録文化財)もあり、 公開されている。さらに東にはお嬢様学校・金城学院中(校内に長久寺貝塚がある)があるが この辺り良い坂道が多いが坂名前はないようである。その先には真言宗長久寺があって、 所謂清洲越で清洲からこの地に移り、その山門は清洲城の裏門であったという。
 ここから北に進むと前回紹介した蔵王の杜、尼ケ坂・坊ケ坂になる。


 最後に近くの坂道のいくつかを写真で紹介しておきたい。

(主税町の坂道) (金城学院中のそばの坂道) (尼ケ坂のそばの坂道)
(主税町の坂道)
(金城学院中のそばの坂道)
(尼ケ坂のそばの坂道)


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