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(これが外堀、ここを電車が走っていた)
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今回は名古屋城から東に向かって歩いてみる。
この地では北側の地が約10m低くなっており、坂が多く見られる地域である。
東大手を出ると外濠(空堀)を跨ぐ清水橋がある。この堀の中を十数年前までは
名鉄瀬戸線が走っていて、急曲線が見られた珍しいところである。
この濠に沿って南北に走る柳原街道を北に下る坂道があり、
これが「枳殻坂」(きこくざか)である。
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(枳殻坂、坂下から、右が外堀、左が明和高校)
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枳殻とはからたちのことで、今は銀杏の並木となっているが、かっては道路の西側に棘のある枳殻 (からたち)の木が植えられて、城壁の防御の役割を果たしていたところからこの名がついた。 坂下には御土居衆と呼ばれる同心が居住し、万一の時に城主を城外に逃がすための備えをしていたという。 また、坂の東側には明和高校(藩校の伝統を引く明倫中学と県立一女が統合された有数の進学校)があるが、 この地は犬山城主で家老の成瀬家の屋敷であった。その東側には歴史の古い七尾天神社 (7つの尾を持つ亀がお使い)があり、受験の祈願者で賑わっている。
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(清水坂、坂上から、右上が余芳亭
この日は生憎ゴミ収集日) |
国道の東側には白壁、主税(ちから)、撞木(しゅもく)などの「町並み保存地区」が拡がり、 武家屋敷や豊田佐助(豊田佐吉の弟で兄を支えた)などの大正モダンの住居などがある。 名古屋城下の風俗や藩士の日常生活を記した『鸚鵡籠中記』を残した御畳奉行・ 朝日文左衛門重章の住居もあった地域である。
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(長久寺の山門)
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また、女優第1号として知られる川上貞奴が福沢桃介と住んでいた「二葉御殿」(国登録文化財)もあり、
公開されている。さらに東にはお嬢様学校・金城学院中(校内に長久寺貝塚がある)があるが
この辺り良い坂道が多いが坂名前はないようである。その先には真言宗長久寺があって、
所謂清洲越で清洲からこの地に移り、その山門は清洲城の裏門であったという。
ここから北に進むと前回紹介した蔵王の杜、尼ケ坂・坊ケ坂になる。
最後に近くの坂道のいくつかを写真で紹介しておきたい。
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(主税町の坂道)
| (金城学院中のそばの坂道)
| (尼ケ坂のそばの坂道)
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