富士見坂考

松本 崇男 

日暮里の富士見坂(荒川区)と大塚の富士見坂(文京区)。
今も東京から富士山を見ることができる二つの富士見坂考。

 富士山を眺められる場所も東京ではすっかり少なくなってしまった。林立するビル群に視界をさえぎられ、高速道路や電線に空を裂かれて富士の見える風景は今や瀕死の景観となっている。それでも富士山を見つけたときは、思わず立ち止まってその美しい姿を眺めてしまう。夕焼け空に映える姿も美しいが、冬晴れの凛とした空気の中に立つその姿には心洗われものがある。一時は大気汚染のために富士の姿を見ることが稀になった。ようやく大気汚染が改善され少しは眺望が戻ってくるかと思われたとき、今度はビルがその眺めを奪い取ったのだ。空を奪ったそのビルの高みに上らないと富士山を眺められなくなった都会の景観にはなにか心に引っかかるものがあってしっくりこないのだが、これが現代の富士の眺めと割り切るしかあるまい。

注:東京から富士山が見えた日数は、公害問題がとりざたされた昭和40〜50年代には年間平均40日ほどであった。昭和62年は特に少なく20日しか観察できていない。しかし平成17年は74回、平成18年は79回、平成19年は84回で、富士山は格段によく見えるようになっている。11月から1月にかけてもっともよく見えるのはいうまでもない。
(日本気象協会及び東京都環境保全局の観測データーより)

 数ある東京の富士見坂からの富士の眺めはさらに悲劇的な状況だ。「富士見坂」、あるいは、昔「富士見坂」と呼ばれたことがある坂、すでに消滅した「富士見坂」まで数えれば区内に二十以上の「富士見坂」がある。どの坂も富士山が見えることから富士見坂と名づけられたものだが、今ではビルに隠れてほとんどの坂から富士山の姿を眺めることはできなくなってしまった。
 今もきれいに富士山を見ることができるのは日暮里の富士見坂である。といっても稜線の左半分はビルに隠れて見ることができない。それでも多くの人がこの坂からの富士山の眺望を楽しみに訪れてくる。特に富士山の山頂に太陽が沈むダイヤモンド富士がみられる11月中旬と1月末には富士見坂が人で埋まるほどだ。
 大塚の富士見坂からも以前はきれいな富士山の姿を見ることができたが、今ではビルにさえぎられて山頂も、左側の稜線もまったく見ることができない。富士山の右稜線の一部がわずかに見られるだけだ。山頂が見えない富士、それも稜線の一部しか見えない富士見坂は、もはや富士が見える坂とはいえないかも知れない。ビルが一つ建てばそれで完全に富士山は見えなくなる。
 日暮里の富士見坂でさえ富士山を望む視線上にビルが一つ二つ建てば大塚の富士見坂と同様の運命をたどることは目に見えている。危ういものだ。高いビルに住めばすばらしい眺望を得られるが、眺望をふさがれた者には、なすすべもない。都市の眺望・景観は結局ぎりぎりのところで成り立っているといわざるを得ない。

 「富士見坂」という同じ名前がついた日暮里の富士見坂と大塚の富士見坂、共に江戸時代から今に続く坂であり、西南西に下っているところからほぼ正面に富士山を望む坂だが、富士見坂と呼ばれるようになった時代も、坂の周辺環境にも大きな違いがある。

日暮里の富士見坂
日暮里の富士見坂から見た富士山
(左図中央部分の拡大)
日暮里の富士見坂・夕景

 日暮里の富士見坂 は、JR山手・京浜東北線の日暮里駅と西日暮里駅の中間、西日暮里三丁目周辺の寺町と住宅が混在する地域にある。乗用車が一台通れるだけの幅しかない。幹線道路から奥まっているせいか、この坂を通り抜ける車は少なくゆったりと散策できる坂となっている。

 このあたりは江戸時代「ひぐらしの里」といわれた場所で、江戸っ子たちの絶好の行楽地であった。春は花、夏は納涼、秋は月見、冬は雪見。四季折々の風物をめでながら寺参りや名所めぐりを楽しむ人々で賑わった。『江戸名所図会』(天保七年・1836 刊)は、「この辺寺院の庭中、奇石を畳んで仮山を設け、四時草木の花絶へず、常に遊観に供う。就中二月の半ばよりは酒亭茶店のしょうぎ所せく、貴賎袖をつどへて春の日の永きを覚へぬも、この里の名にしおへるものならん」とその挿絵とともに紹介している。本行寺は月見寺、浄光寺は雪見寺と呼ばれた。諏訪神社の眺望や夕涼み、道灌山の虫聴き、なかでも青雲寺、修性院、妙隆寺と三つの寺がなだらかな斜面を利用して、それぞれ趣向を凝らした庭をつくり大変な賑わいだったという。

『江戸名所図会』より日暮里惣図。
左図右下に妙隆寺、左図右上の小高い場所が諏訪神社。 右図の右上には浄光寺が描かれている。庭園内を縫うように妙隆寺から 上方に上がる坂が妙隆寺坂と思われる。

 坂の名は、花見寺の一つ妙隆寺にちなんで妙隆寺坂、あるいは花見坂とよばれた。『荒川史談』掲載の平塚春造氏の諏訪台山人懐古録によると、この坂は、もともとは妙隆寺の庭の中を山の上へ通じていたものだが、諏方神社の方へ行くのに便利なため、いつしか村人の通路となったものだということだ。明治になって廃仏毀釈運動が起ると多くの寺は経営が難しくなる。妙隆寺も、学校経営や境内の岡を切り崩し土を売ってしのいだが、やがて境内を通っていた坂も土採取のために通行不能となり、明治18年に妙隆寺坂は20メートルほど東によった現在の富士見坂の場所に付け替えられた。今も富士見坂の脇に建つマンションは、坂よりかなり低い場所に建っているがこれは土採取の名残である。この坂が富士見坂と呼ばれるようになったのは昭和5年頃のことで、坂上から富士山がよく見えるところからから富士見坂と呼ばれるようになったという。日暮里の富士見坂は昭和の命名なのだ。

 大塚の富士見坂 は、大塚3丁目交差点から文京区大塚2丁目と5丁目の間、不忍通りを護国寺門前へと下る坂である。一日中自動車がひっきりなしに往来する幹線道路上の坂でもある。

大塚の富士見坂
大塚の富士見坂から
富士山の方向を見る
大塚の富士見坂から見た富士山
(左図中央上部の拡大)

 『御府内備考』(文政十二年・1829 刊)は、「坂 長四拾間程、巾四間程、右は里俗富士見坂と相唱申候、唱の儀富士見へ候間右様相唱申候哉と存候」と述べ、さらに『改選江戸志』を引用して「富士見坂は大塚町より護国寺門前青柳町通りをいへり、この所より富士の眺望よければとてかく名付しなるべし」と書いている。江戸時代からこの坂から富士山がよく見えることから富士見坂と呼ばれていたことがわかる。今とちがって、視界をさえぎるものの少ない江戸の町からは、富士山が美しく眺められたことであろう。


尾張屋板『雑司ヶ谷音羽絵図』(安政4年・1857)護国寺周辺部分。
右端中央に富士見坂とある。

 この頃の富士見坂は 長四拾間程(約72メートル)、巾四間程(約7メートル)というから、現在の坂と比べると長さも幅も三分の一ほどであった。
 坂下の護国寺は元和元年(1681)、五代将軍徳川綱吉が生母桂昌院の祈願寺として、もと高田御薬園の地に建立したもの。江戸の姿の多くは失われたものの、本堂、仁王門、大師堂、薬師堂などに今も江戸の姿をしのぶことができる。 富士見坂の別名「不動坂」については疑問な点が多い。『新撰東京名所図会』(明治40年・1907刊)は富士見坂が不動坂と呼ばれたことに否定的で、「不動坂。音羽町一丁目より大塚へ上る所、此所に坂ありて不動坂と呼びきと。続江戸砂子に云、不動坂、音羽一丁目より大塚へ上る坂也、石仏の不動あり。後年、此道杜絶したる歟、方今一丁目より大塚に上る坂無し、嘉永新鐫の雑司ヶ谷音羽絵図にも此坂路あらず、更に護国寺に沿ふて東青柳町を経、大塚波切不動堂前に上る坂あれど、富士見坂と載せて、既に其坂名を有せり、且つ砂子に石仏の不動といへば、波切不動とも思はれず、全く後年、坂路を失ひしなるべし、江戸志並に府内備考所載の不動坂は、目白坂の謂なり。」と記している。 『新撰東京名所図会』は、『続江戸砂子』(享保20年・1735)が云う不動坂が富士見坂の別名でないとして以下の理由をあげている。(繰り返しになるがあえて整理してみた)

@ 音羽一丁目から大塚へ上る坂はない。後年この道はなくなったかもしれない。
A 切絵図『雑司ヶ谷音羽絵図』にも、この坂道は見当たらない。同図に、護国寺に沿って東青柳町を経て大塚波切不動堂前に上る坂があるが、この坂は富士見坂と記載されているから不動坂ではない。
B 『続江戸砂子』は、石仏の不動と述べているので坂上の波切不動のことではない。
(江戸時代、富士見坂の坂上に波切不動堂があり不動尊が祀られていた。)
C 江戸志や御府内備考に、不動坂が載っているが、江戸志や御府内備考のいう不動坂は目白坂のことであって富士見坂ではない。

 『新撰東京名所図会』のいう理由は、必ずしも納得できるものではない。
@、Aについていえば、音羽一丁目から大塚へ上る坂というのは、富士見坂のことであろう。切絵図に富士見坂と書かれているから不動坂ではないというのは理由にならない。一つの坂がいくつかの別の名前でよばれることはよくあることで、富士見坂と呼ばれているから不動坂でないとはいえない。
 Bの石仏の不動が不動坂にあったことを証明する資料も、否定する資料もない。
 Cの不動坂は、目白坂(文京区関口二丁目2と3の間の坂)の別名のことで、坂上の新長谷寺の本尊、目白不動尊に由来する名前である。目白坂すなわち不動坂は、旧音羽九丁目から目白不動へ上がる坂であったので富士見坂の別名が不動坂だとすると同じ名前の坂が近くにあり、確かに間違えやすいとの印象はある。とはいえ、『続江戸砂子』は「不動坂。音羽町一丁目より大塚へ上る所、此所に坂ありて不動坂と呼びきと。」と音羽町から大塚へ上がる坂と明確に述べている。また『続江戸砂子』は別項で「目白坂、音羽町九丁目より上る坂、前集(江戸砂子)に不動坂と記す」とあることから大塚と目白の不動坂を明確に区別して記しており、二つの不動坂をとり違えたとは考えにくい。
いずれにしても富士見坂の別名「不動坂」と記した資料は、『続江戸砂子』の他にみあたらない以上、富士見坂は不動坂と呼ばれたことがあったようだとごくひかえめに述べておくことにする。
 富士見坂が、波切不動堂が坂上にあることから不動坂と呼ばれるとか、或いは坂下の護国寺にちなんで護国寺坂と呼ばれてもよさそうだが、そう呼ばれたことはないようだ。この坂はずっと「富士見坂」と呼ばれてきた坂なのだと思う。

『江戸名所図会』(天保七年・1836 刊)より波切不動堂図

 上図、中央に描かれた鳥居のある建物が波切不動堂。尾張屋板『雑司ヶ谷音羽絵図』で富士見坂の右に赤く塗られた部分が波切不動堂で浪切不動通玄院と書かれている。
上図、不動堂の手前を馬や駕籠が往来する道が現在の春日通りである。左図下の民家と右図下の高札場の間の道を背に子供を負った女や傘を持った人物が、不動堂前の道にさしかかっている。この道が富士見坂。ふりむけば坂下には護国寺があり、その先に富士山が見えたことであろう。


【参考文献】
  『御府内備考』大日本地誌大系 雄山閣
  復刻『江戸砂子』小池章太郎編 東京堂出版刊
  新訂『江戸名所図会』ちくま学芸文庫
  『新撰東京名所図会』(復刻『東京名所図会』睦書房)
  尾張屋板江戸切絵図
  荒川史談 No.133  S54.2.1 『諏訪台山人懐古録(三) 平塚春造』
  『ぶんきょうの坂道』文京区教育委員会・文京ふるさと歴史館編
  石川梯二『江戸東京坂道事典』新人物往来社
  岡崎清記『今昔東京の坂』日本交通公社

(2008年10月 松本 崇男)

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