切支丹(きりしたん)坂考

松本 崇男    

 切支丹坂と呼ばれる坂がある。正保3年(1646)小日向の地(現・東京都文京区小日向1丁目)につくられ、寛政四年(1792)に廃止されるまでこの地にあった切支丹屋敷に由来している。切支丹屋敷の脇の坂、あるいは切支丹屋敷へと通ずる坂であることから切支丹坂と呼ばれた坂である。切支丹坂の名前は、『江戸砂子』(享保17年・1732)や『御府内備考』(文政9年〜12年・1826〜1829)などにも記されており、まさしく江戸の坂といえる。
 切支丹坂の所在場所については異論がある。切支丹屋敷周辺のいくつかの坂あるいは場所が切支丹坂といわれ、あるいは否定されてきた。これらの坂は、現在は別の名で呼ばれている坂、廃道となり坂そのものが消滅したもの、明らかに間違いと思われる記録なども含まれている。複数の坂が切支丹坂といわれた理由は、江戸時代に著された書籍の記述や地図の表記があいまいで不確かなことにあった。もっとも、江戸の坂は同じ名前の坂がいくつもある。また、一つの坂が別の名前で呼ばれることもあったことから、切支丹坂も複数存在したと見ることもできる。こうなると切支丹屋敷の近くの坂、あるいは切支丹屋敷へ通ずる坂のいずれの坂が切支丹坂であってもいいようでもある。
 現在、切支丹坂と呼ばれている坂は、庚申坂を西に下り、東京メトロ丸ノ内線のガードをくぐった先、文京区小日向1丁目14と24の間をまっすぐ西へ上る坂である。この坂は切支丹屋敷の跡地を通る坂であることから切支丹坂の名にふさわしい坂だが、江戸時代にこの道は開かれていなかった。となると江戸の切支丹坂は他に存在したことになる。
 真山青果(1)は「切支丹坂の研究」で、過去に切支丹坂に擬せられた坂を七つに整理して論じている。真山青果の説はいまではすっかり忘れさられたようで話題にのぼることはほとんどないが、江戸の切支丹坂を知る上で欠くことのできない重要な研究である。真山説を再評価するとともに現在、切支丹坂と呼ばれている坂と江戸の文献に切支丹坂との記録が残るいくつかの坂の検証をしてみたい。

(1)真山青果(まやませいか) 明治11年(1878)〜昭和23年(1948)
劇作家・小説家。代表作に『元禄忠臣蔵』『将軍江戸を去る』等。地誌・古地図の研究でも知られる。「切支丹坂の研究」は『切支丹屋敷研究』の一部として発表されたもの。

切支丹坂と周辺の坂

 永井荷風は『日和下駄』で「私の生れた小石川には崖が沢山あった。第一に思い出すのは茗荷谷の小径から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さへ気味の悪い切支丹坂が斜めに開けそれと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い道が小日向台町の裏へと攀登っている。今はこの左右の崖も大方は趣のない積み方をした当世風の石垣となり、竹薮も樹木も伐払われて、全く以前の薄暗い物凄さを失ってしまった。」と述べている。今では周辺は住宅地となり、荷風が「茗荷谷の小径」とよんだ場所を地下鉄(この辺りで地下鉄は土地の高低差を象徴するように高架となって頭上を走っている)が、「左右の崖」すなわち小石川台地と小日向台地の間を通り抜けている。線路をはさんで東側が小石川台地で春日通りから茗荷谷へと斜面をなしている。線路の西側は小日向台地で、切支丹屋敷もここにあった。台地から谷へ、谷から台地へといくつかの道が通り、坂となっている。まさしく茗荷谷周辺は坂の町でもある。
 小石川台地側には釈迦坂、藤坂、庚申坂、新坂が連なり、小日向台地側には蛙坂、切支丹坂、浅利坂(消滅)、荒木坂などがある。切支丹坂として以下の6ヶ所の坂が文献に認められる。

① 現在の切支丹坂
② 新道(七軒屋敷新道)の坂(消滅)
③ 庚申坂
④ 新坂
⑤ 近江屋板江戸切絵図に掲載された切支丹坂
⑥ 尾張屋板江戸切絵図に掲載された切支丹坂

切支丹屋敷周辺の地図

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切支丹屋敷

 寛永20年(1643)、宣教師ジョゼフ・カウロ他4人のバテレン、6人のイルマン・同宿が筑前国大島(現在の福岡県宗像市)で捕えられ、長崎から江戸に送られてきた。いったん伝馬町の牢獄に収容されたが、正保3年(1646)に造営した小日向の御用屋敷に移された。敷地は宗門奉行であり大目付であった井上政重(2)の下屋敷を改めたものであった。御用屋敷は切支丹屋敷、切支丹牢屋敷、山屋敷ともよばれた。以後、キリシタンをここに拘禁することとなる。島原の乱(寛永14年・1637〜寛永15年・1638)が鎮圧されて8年後のことであった。

(2)井上政重(いのうえまさしげ)  天正13年(1585)〜万治4年(1661)
家康の家臣・井上清秀の4男。寛永九年大目付、寛永15年島原の乱のとき上使として九州に赴く、寛永17年下総高岡藩一万石で大名となる。宗門奉行。幕府の切支丹禁教政策の中心人物であった。

都旧跡・切支丹屋敷跡碑
文京区小日向1−24

 切支丹屋敷は、多くのキリシタンが幽閉され苦難を強いられた場所であったが、ここに収容された人物として以下の二人の名をあげておきたい。

ジョゼフ・カウロ (1601〜1685)イタリア人でイエズス会の宣教師。寛永20年(1643)、筑前国大島で捕えられ、長崎から江戸へと送られて、切支丹屋敷最初の入牢者となった。拷問によって転宗、岡本三右衛門の名と妻を与えられ貞享2年、84歳で没するまで切支丹屋敷に監禁された。遠藤周作『沈黙』の主人公、司祭ロドリゴのモデルとなった人物でもある。

ジョバンニ・バチスタ・シドッチ(1668〜1715) イエズス会宣教師。パレルモ出身のイタリア人。宝永5年(1708)屋久島で捕えられた後、江戸に送られ切支丹屋敷に幽閉された。正徳5年(1715)47歳で牢死。当時シドッチの訊問をした新井白石は、シドッチから得た知識をもとに『西洋紀聞』『采覧異言』を著した。


 後に収容者が少なくなると敷地は徐々に縮小されていった。「はじめ当所の開けし比、その坪数はしるべからず。(注:真山青果は著書『切支丹屋敷研究』で切支丹屋敷の敷地を7700坪、25,400平米と計算している)元禄十四年十二月廿五日北の方若干の地を減ぜられて御家人の宅地となる。今の七軒屋敷是なり。この時東の方二間通り往還のためにせばまれり。宝永の初に至りて南の方を減ぜられて、是も宅地に賜はれり。今の浅利坂の辺なり。此後の坪数もたしかには聞ざれ・・・云々」と『小日向志』にあるように、元禄14年(1701)、切支丹屋敷の北側の敷地を割いて七軒の御家人の宅地とした。この時にひらかれた道が、新道あるいは七軒屋敷新道とよばれた道である。(② 新道(七軒屋敷新道)の坂で詳述。)享保10年(1725) (享保9年ともいわれる)大火で切支丹屋敷が焼失すると、再建されることなく寛政4年(1792)に廃止された。跡地は武家屋敷として分割され約150年続いた切支丹屋敷は消滅した。切支丹屋敷には官庫・牢獄・番所・吟味所などがあったと伝わる。(『小日向志』掲載の切支丹屋敷図参照)


切支丹坂の検証

① 切支丹坂(現在の切支丹坂)

↑ 坂上から見た現在の切支丹坂
↑ 尾張屋板『東都小石川絵図』部分 安政4年/1857 右上隅にキリシタンサカとある坂は庚申坂のこと。 キリシタンサカ(庚申坂)を下った道は長寿寺(赤枠 部分)の前で左右に分れる。左へ行く道はアサリサカ を通って北へ上る。右へ行く道は長寿寺と銃練場の間 を迂回して西に上る。この道は現・切支丹坂のように 見えるが、新道(七軒屋敷新道)である。

 現在、切支丹坂と呼ばれている坂は、文京区小日向1丁目14と24の間を東から西へ上がる坂で、東京メトロ丸ノ内線を間にはさんで庚申坂の急坂と向かい合っている。この坂が切支丹屋敷の跡地を通っていることから、江戸時代から存在した切支丹坂であるかのように思われている。しかし、江戸期を通じてこの道は地図に見当たらない。さらに明治初期に刊行された地図にも描かれていない。明治11年(1878)発行の『実測東京全図』(内務省地理局地誌課作成)や、明治19〜20年にかけて刊行された参謀本部陸軍部測量局作成による『五千分の一東京図』(下図参照)は、近代的測量技術による詳細な地図であるが、ここにも現在切支丹坂と呼ばれている坂はみあたらない。庚申坂(地図には切支丹坂と書かれている)を西に下った道はいったん南へ直角に曲りアサリ坂を通って坂上の南北に伸びる道に通じている。つまり、切支丹坂はこの頃、まだひらかれていなかった。現在、切支丹坂と呼ばれているこの坂は江戸の文献にあらわされた切支丹坂ではないことになる。

 

← 明治16年頃の切支丹坂周辺
参謀本部陸軍部測量局作成『五千分の一東京図』。新道(七軒屋敷新道)は、この時期すでに廃道となり本図に描かれていない。


 現・切支丹坂が開かれた年代は特定できない。『東京十五区集・本郷及小石川区之部』(明治36年・1903刊)は、現在の切支丹坂(旧・小石川茗荷谷町1と9の間)とアサリ坂(旧・小石川茗荷谷町1と小石川第六天町の間)の両坂を描いていることから(ただし坂名は書かれていない)明治36年にはこの道が開かれていたことがわかる。ただし、『東京十五区集』でも庚申坂を切支丹坂と記していることは記憶にとどめるべきである。(③庚申坂=切支丹坂説に添付した地図『東京十五区集・本郷及小石川区之部』を参照されたい)
(注:真山青果は「切支丹坂の研究」で、明治24年発行の『東京地所図・小石川の部』や明治28年改正・再版の東京市区改正委員会図などにこの坂が認められることから、坂が開かれた年代を明治20年頃としている。)

 この坂を切支丹坂であるとする説を決定的にしたのは『新撰東京名所図会』(第45編 小石川区之部其三 明治39年・1906 刊)が、庚申坂は切支丹坂ではないと述べた上で「庚申坂の西、小溝に架したる橋を渡りて、両側薮の間を茗荷谷町男爵津軽邸前へ上る坂あり、無名坂の如く称すれど、是れ真の切支丹坂なり。坂の上に往時切支丹牢屋敷ありたり、故に此名に呼ぶなり」と述べていることにある。以来、多くの人が『新撰東京名所図会』を引用して、この坂を真の切支丹坂であるとしてきた。
 しかしながら江戸・明治初期の多くの文献が庚申坂を切支丹坂と呼んでいた事実を無視して、『新撰東京名所図会』が明治20年代にあらたに開かれた道の坂を切支丹坂と断じた点は理解しがたい。明治20年代にあらたに開かれた道が切支丹屋敷の跡地を通っていることから、『新撰東京名所図会』が、この道こそ切支丹坂の名にふさわしい坂であると考えたのであろうか。あるいは新道(七軒屋敷新道)が明治初年に廃道となった後、切支丹屋敷表門跡から庚申橋にかけてわずかに残っていた坂の北側にあらたな道(現・切支丹坂)がひらかれ、現在の切支丹坂に見られるような姿となった時、切支丹坂の呼称を復活させたのであろうか。いずれにしても想像にすぎない。
 『新撰東京名所図会』が切支丹坂は「無名坂の如く称すれど ・・・」と述べているのは、この頃、一般的にこの坂を切支丹坂と呼んでいなかったことをうかがわせる一文である。やはり謎は残る。しかしこれ以降は徐々にこの坂を切支丹坂と呼ぶようになっていったとみられる。 いずれにしても現在、切支丹坂と呼ばれているこの坂は明治になって新たにひらかれた道の坂であって、江戸の切支丹坂でありえないのは明白である。

② 新道(別名 七軒屋敷新道)の坂=切支丹坂説

『小日向志』掲載の切支丹屋敷図。
図は、実際の方位にあわせて上下を逆にしている。(図の上が北)



切支丹屋敷を半周する道が新道或は七軒屋敷新道といわれた道。右下隅に描かれた橋は獄門橋で後年、庚申橋と呼ばれた。橋を渡った先に切支丹屋敷表門が、左上に裏門が描かれている。



 新道(別名 七軒屋敷新道)は、切支丹屋敷の裏門の前から屋敷に沿って屈曲して表門前まで下る坂道であったが、明治の初め頃に廃道となり今は残っていない。現在の住所表示で言えば文京区小日向1丁目24にあたる。
 間宮士信(3)が著した『小日向志』(4)は、この道について「新道 七軒屋敷の往還より切支丹表門前跡の辺までをいふ。道幅三間(5.5m)あり。これも七軒屋敷と同じくひらかれたり」「切支丹坂。今は切支丹御用屋敷あと新道の坂をいふ。」と記している。(真山青果『切支丹屋敷研究』より)
 『御府内備考』は『改撰江戸志』を引用して、「切支丹坂は御用屋敷のわき新道の坂をいへり、わずかの坂なり、世に庚申坂をあやまりて切支丹坂と唱ふ」と記している。
 一方で『御府内備考』は、『改撰江戸志』を引用して「庚申坂は切支丹坂の東の方のけはしき坂なり、(以下略)」と書いている。「庚申坂は切支丹坂の東の方」ということは、即ち庚申坂の西に切支丹坂があるということだが、先に@切支丹坂(現在の切支丹坂)で述べたように、現在の切支丹坂は明治20年代にひらかれた道であって江戸時代にはなかった。『改撰江戸志』がいう切支丹坂は、新道(別名 七軒屋敷新道)の坂をさしていると考えられる。

『御府内沿革図書』延宝年中之形(1673〜1681)
切支丹屋敷の敷地は、北にはりだしている。
 『御府内沿革図書』元禄十四年(1701)之形
切支丹屋敷の北側を割いて七軒の御家人の屋敷とし、七軒屋敷へ向かう道ができた。

 七軒屋敷は切支丹屋敷の北側敷地の一部を割いて七軒の旗本の屋敷としたもので、新道(七軒屋敷新道)が開かれたことによって、庚申坂を西に下り庚申橋を渡った道は切支丹屋敷表門前から同屋敷裏門、七軒屋敷を通り抜けて蛙坂へ貫通する道となった。 
 江戸時代に道が開かれた年代は不明な場合や不確かなことがほとんどだが、新道は開かれた年月がはっきりしている。『小日向志』が「元禄十四年十二月廿五日北の方若干の地を減セられて御家人の宅地となる。今の七軒屋敷是なり」と記していることから、七軒屋敷と同年に開かれた新道もまた元禄14年(1701)に開かれたものと考えられる。『御府内沿革図書』小日向周辺・元禄十四年之形を見ると、切支丹屋敷の敷地の一部が減ぜられ、七軒屋敷と新道が描かれていることからも新道(七軒屋敷新道)の坂が元禄14年に開かれたことを裏付けている。
 この道は明治初年に廃道となったことから今ではすっかり忘れ去られた道(坂)となったが、新道(七軒屋敷新道)の坂は江戸のある時期切支丹坂と呼ばれた坂であった。

(3) 間宮士信(まみやことのぶ) 安永6年(1777)〜天保12年(1841) 御書院番、地理学者
寛政10年(1798)家督相続。父の名である庄五郎を名乗る。文化7年(1810)昌平坂学問所内に設置された地誌取調所に出仕、『新編武蔵風土記稿』の編纂に参加。頭取を経て文政2年(1819)総裁となる。七軒屋敷の住人であった。

(4) 小日向志(こひなたし)
間宮士信著。文化8年(1811)頃の著作といわれている。切支丹屋敷の研究資料として重要な著作。

③ 庚申坂=切支丹坂説


←左
坂上から見た
庚申坂







右→
坂下から見上
げた庚申坂

 庚申坂は文京区小日向4丁目と春日2丁目の間を西に下る坂で、東京メトロ丸ノ内線をはさんで切支丹坂と向かい合っている。坂の途中でくの字型に折れ曲がった石段の急な坂である。庚申坂の名前や由来が文献に認められるのは『新編江戸志』(寛政年間 1789〜1801)が初期の記録であろう。坂名の由来は「享保頃までは庚申の石碑(5)ありし故の名なり」によっている。坂のひらかれた年代は不明だが『御府内沿革図書』切支丹屋敷・延宝年中之形(1673〜1681)に「坂」とあることから、坂そのものは延宝年間(1673〜1681)にひらかれていたことは確かだ。また、正保絵図(正保元年・1644)に井上筑後下ヤシキと屋敷への道が描かれていることから切支丹屋敷が開かれた正保3年(1646)にすでに坂があった可能性もある。

(5)庚申の石碑(庚申塔(こうしんとう))
庚申塔は十干十二支の庚申の晩に集まり夜を明かす行事「庚申待ち」の記念碑。庚申信仰は、60日ごとにくる庚申(かのえさる)の日の夜に人体に宿るとされる三匹の虫(三尸・さんし)が寝入った身体を抜けだし天帝に宿主の罪業を報告するとされる。その為、庚申の晩は寝ないで過したもので、江戸時代大流行した。
庚申坂の庚申塔は失われて今は無い。

 

 

写真左:青山の庚申塔
写真右:別所坂の庚申塔

 下記の文は、切支丹坂と庚申坂を説明した江戸の文献である。少々わかりづらい文章となっているが、比較して読んでみたい。

イ) 『新編江戸志』(寛政年間 1789〜1801)は、切支丹坂について
「切支丹坂、新坂の西なり、一名庚申坂又今井坂、丹下坂とも、切支丹屋しきへゆく坂ゆゑに俗に切支丹坂といふ、丹下坂と云は昔本多丹下といふ人の屋しきありしといふ、本名庚申坂なり、坂の右の下り口に古木の榎二株有て、享保頃までは庚申の石碑ありし故の名なり、今は此碑なければ、庚申坂の名をしる人まれなり、然れども松平大学頭殿の家にては庚申坂と今もいふなり。」と記している。
 切支丹屋敷へ行く坂なので一般に切支丹坂と言った。もとの名は庚申坂だが今やその名を知る人は少ないとして『新編江戸志』は庚申坂=切支丹坂説をとなえている。

ロ)『御府内備考』(文政9年〜文政12年・1826〜1829)は、切支丹坂について『改撰江戸志』を引用して
「切支丹坂は御用屋敷のわき新道の坂をいへり、わずかの坂なり、世に庚申坂をあやまりて切支丹坂と唱ふ」と記している。
 『改撰江戸志』は新道の坂=切支丹坂説をとなえて、『新編江戸志』とくいちがいをみせている。しかし、「世に庚申坂をあやまりて切支丹坂と唱ふ」との表現は庚申坂が切支丹坂と呼ばれていたことをうかがわせる文章でもある。切支丹坂は新道の坂といいつつ、世間では庚申坂をまちがって切支丹坂と呼んでいると指摘している。

ハ)『御府内備考』は、庚申坂について『改撰江戸志』を引用して下記のように記している。
「庚申坂は切支丹坂の東の方のけはしき坂なり、江戸志云、今井坂又丹下坂ともいへり、切支丹屋敷へゆく坂なれば俗に切支丹坂といふ、云々・・(筆者注:云々・・以下、『新編江戸志』と同文)」
 上記『改撰江戸志』は、一部の表現の違いをのぞけば、『新編江戸志』と表現をいつにしており、庚申坂=切支丹坂説である。 すなわち、庚申坂は切支丹坂(この場合の切支丹坂は新道の坂のこと)の東側の坂であるが、庚申坂も切支丹屋敷へ行く坂なので世間では切支丹坂と言っていると書いている。

 上記イ、ロ、ハの説は、庚申坂=切支丹坂、あるいは新道(七軒屋敷新道)の坂=切支丹坂とそれぞれ別の見方をしているにもかかわらず、両坂ともに俗に切支丹坂と呼ばれていたことを認めている。庚申坂、新道(七軒屋敷新道)の坂がともに切支丹坂といわれていたと考えるべきであろう。
『新撰東京名所図会』は、「小日向第六天町の北、小石川同心町との境を東より西へ下る坂あり、切支丹坂といふ、今此坂を切支丹坂と云ふは誤れり、本名庚申坂、昔坂下に庚申の碑あり。又庚申坂の西、小溝に架したる橋を渡りて、両側薮の間を茗荷谷町男爵津軽邸前へ上る坂あり、無名坂の如く称すれど、是れ真の切支丹坂なり。坂の上に往時切支丹牢屋敷ありたり、故に此名に呼ぶなり」と述べて、本当の切支丹坂は「無名坂の如く称すれど(筆者注:現在切支丹坂と呼んでいる坂が)真の切支丹坂なり」と記して、庚申坂は切支丹坂ではないと述べている。しかしこれはむしろ『新撰東京名所図会』の表記が誤っていると言うべきである。

 庚申坂が切支丹坂と呼ばれていた証拠はいくつかの地図にもみることができる。 例えば@切支丹坂(現在の切支丹坂)の項で例示した尾張屋板『東都小石川絵図』(嘉永7年刊・安政4年/1857 改定図)や『五千分の一東京図』(明治19〜20年/刊)は、この坂を庚申坂ではなく切支丹坂と記している。近江屋板『上水北小日向小石川辺絵図』は庚申坂をキリシタンサカ、明治36年(1903)刊の『東京十五区集』(下図参照)も庚申坂を切支丹坂と記している。
 江戸から明治初期にかけてこの坂が庚申坂ではなく、切支丹坂と呼ばれていたことは地図を見ても明らかである。

『東京十五区集・本郷及小石川区之部』(明治36年・1903刊)

 次に、庚申坂が切支丹坂と呼ばれていた例を文学作品からさがしてみよう。

 『竹早町を横ぎって切支丹坂へかかる。なぜ切支丹坂と云うのか分らないが、この坂も名前に劣らぬ怪しい坂である。坂の上へ来た時、ふとせんだってここを通って「日本一急な坂、命の欲しい者は用心じゃ用心じゃ」と書いた張札が土手の横からはすに往来へ差し出て居るのを滑稽だと笑った事を思ひ出す。今夜は笑ふ所ではない。命の欲しい者は用心じゃと云ふ文句が聖書にでもある格言の様に胸に浮ぶ。坂道は暗い。滅多に下りると滑って尻餅を搗く。剣呑だと八合目あたりから下を見て覘をつける。暗くて何もよく見えぬ。左の土手から古榎が無遠慮に枝を突き出して日の目の通はぬ程に坂を蔽ふて居るから、昼でも此坂を下りる時は谷の底へ落ちると同様あまり善い心持ではない。榎は見えるかなと顔を上げて見ると、有ると思へばあり、無いと思へば無い程な黒いものに雨の注ぐ音が頻りにする。此暗闇な坂を下りて、細い谷道を伝って、茗荷谷を向へ上って七八丁行けば小日向台町の余が家へ帰られるのだが、向へ上る迄がちと気味悪い。』
 上記は、夏目漱石の小説『琴のそら音』の一部、切支丹坂を通って小日向台町の家へ帰る場面である。当時の切支丹坂の様子がよくわかるだけでなく、切支丹坂から小日向台町への道筋をたどると、漱石が切支丹坂と書いた坂は、庚申坂をさしていると考えられる。

 切支丹坂と周辺の坂で引用した、永井荷風『日和下駄』に描かれた切支丹坂の場合はどうであろう。荷風は「第一に思い出すのは茗荷谷の小径から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さへ気味の悪い切支丹坂が斜めに開けそれと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い道が小日向台町の裏へと攀登っている。」と書いている。荷風は、茗荷谷の小径に立って左右の崖、坂を見上げている。片側に切支丹坂があるが、これだけでは切支丹坂が現・切支丹坂をさしているか、庚申坂をさしているかはっきりしない。しかし「それと向かい合って山道のような細い道が小日向台町の裏へと攀登っている。」まで読み進めば小日向台町の裏へと攀登っている坂の反対側の坂、すなわち切支丹坂は庚申坂のことであることがわかる。

 『琴のそら音』は明治38年(1905)、『日和下駄』は大正3年(1914)から大正4年(1915)にかけて発表されている。この頃すでに現・切支丹坂はひらかれており、『新撰東京名所図会』が庚申坂は切支丹坂ではないと主張しているものの、当時一般的には庚申坂を切支丹坂と呼んでいたようである。
 この坂は庚申坂であって切支丹坂ではないとの説もみうけられるが、庚申坂とも切支丹坂とも呼ばれていたと考えるべきである。

④ 新坂=切支丹坂説


←左
坂上から見た新坂。

坂の中ほど、写真右手の石垣と木立に覆われた場所が、 徳川最後の将軍・徳川慶喜が晩年住んだ邸宅跡。


 新坂は、文京区春日二丁目7と8の間を春日通りから金富小学校前の信号へと下る坂で今井坂とも呼ばれた。新坂の名を冠しているが、道がひらかれたのは正徳3年(1713)でれっきとした江戸の坂である。
 真山青果は「切支丹坂の研究」でこの坂を切支丹坂の可能性があると述べている。青山説の根拠は、次の二点にある。

イ) 正徳三年(1713)、若狭小浜藩酒井家の下屋敷が召上げられて屋敷の中央部を通る新坂がひらかれた。(『御府内沿革図書』元禄年中の図を見ると新坂のあたりに酒井靱負佐(さかいゆきえのすけ)との表記がある。)新坂がひらかれた当時は現在の道筋のように春日通りへ直接抜けておらず、春日通りの手前を北に折れて庚申坂上へ出ていた。(下図、『御府内沿革図書』新坂周辺図参照)真山青果は『新坂開通のために、牛込江戸川方面から切支丹屋敷辺に通ずる経路が開かれて、そのため官民ともに非常な便利を感ずることとなった。この道路は上水端より切支丹屋敷に通ずる盲管状の唯一の道路であったので、当時の人には、この坂を「切支丹屋敷へ行く坂」とも「切支丹屋敷への坂」とも称えられたことは、地名発生の最も自然なる過程であろうと思ふ。』として新坂=切支丹坂の根拠の一つにあげている。


↑ 『御府内沿革図書』新坂周辺図
正徳5年より享保元年迄之形(1715〜1716)
松平対馬守屋敷の右(東)に坂とあるのが新坂。 新坂は土屋薩摩守屋敷の角で折れて庚申坂上 (図では坂とある)へ出ていた。

ロ)『江戸砂子』は新坂について「新坂、又切したん坂と云。小日向上水のうえ」と書いていることを新坂=切支丹坂説のもう一つの根拠としている。
(筆者注:新坂下の金富小学校の前を東西に走る道は、水道通りあるいは巻石通りと呼ばれる道で、明治初期まで神田上水(もとの小日向上水)が流れていた。)

『御府内沿革図書』切支丹屋敷周辺図 →
宝永6年之形(1709)  .
称名寺の右(東)に坂とあるのが荒木坂。
坂上の荒木志摩守屋敷前で右折し、さらに
北へ向うと切支丹屋敷表門へ出た。  .



 真山青果の言うように新坂は、小日向上水から春日通りへと上る途中で北へ折れて庚申坂上に抜ける道であった。しかし新坂がひらかれた正徳3年(1713)には神田上水から切支丹屋敷へ向う道は、『御府内沿革図書』切支丹屋敷周辺図・宝永6年之形(1709)にみるように新坂の西に荒木坂があり、真山がいう「(新坂が)上水端より切支丹屋敷に通ずる唯一の道路であった」とは言えない。上水端から切支丹屋敷へ向う場合、すでに荒木坂を通るルートが存在しており、新坂から庚申坂を経由して行くルートは、荒木坂経由より遠回りであるばかりでなく新坂を上り、庚申坂の急坂を下らなければならない。「切支丹屋敷へ行く坂」「切支丹屋敷への坂」として使用した「唯一の道路であった」とは考えにくい。また、江戸の坂は、坂の名のもとになる屋敷・寺社の近くになければならない。新坂は、切支丹屋敷へ通ずる坂にしては切支丹屋敷と離れており、江戸の坂の名付け方にそぐわないように思われる。
 『江戸砂子』が「新坂、又切したん坂と云。小日向上水のうえ」と述べていることが新坂=切支丹坂説の根拠としているが、『江戸砂子』の三年後に再版された『続江戸砂子』は、「新坂、又今井坂と云。」と書きかえているところから、新坂=切支丹坂説は根拠が弱いようだ。

 新坂=切支丹坂説と離れるが、真山青果は『新坂といえば徳川公爵邸前の部分だけを限って云っているが、同新道の開通より幕末までに称された新坂とは、その部分のみに限らず、庚申坂上まで迂曲して行く道の全部を含んでいた。(中略)即ち水道端より庚申坂上に至る全部が新坂と呼ばれていたのである。これによりて『江戸志』または『江戸砂子』に「庚申坂は新坂の西にあり」とあるのが初めて解釈せられる』と書いている。
 現在の地図で見る限り庚申坂は新坂の北に位置しており、『江戸志』や『江戸砂子』が云う「庚申坂は新坂の西にあり」との表現は以前から不可思議で読み解けない文章であったが、真山青果の解釈で庚申坂と新坂の位置関係が納得できるものとなった。

⑤ 近江屋板江戸切絵図に記された坂=切支丹坂説


↑ 近江屋板『小日向・小石川・牛込辺絵図』の部分
嘉永二年(1849)

写真は、春日2丁目8と小日向1丁目1の間 →
上の地図のキリシタンサカと書かれたあたりの現在。

 近江屋板『小日向・小石川・牛込辺絵図』嘉永二年(1849)の地図には、荒木坂とシンサカの間の道にキリシタンサカと記している。このあたりは小石川台地と小日向台地の間の谷を通る平坦な道で坂ではない。この道を切支丹坂とする文献は他にみあたらないところから、まちがって記したものであろう。

⑥ 尾張屋板江戸切絵図に記された坂=切支丹坂説


↑ 尾張屋板『礫川牛込小日向絵図』
 嘉永五年新刻万延元年(1860)改正図部分
↓ 現・小日向1丁目5と6の間の道。
写真は上の地図で御持組屋敷の間にかけられた橋のあるあたり。
道はわずかに上り坂となっているが、無名の坂である。道は途中で左右に分かれ右へ進むと薬缶坂へでる。

 尾張屋板『礫川牛込小日向絵図』万延元年(1860)改正図 をみると、服部坂の東、御持組屋敷の間を北に上る場所に切支丹坂と記している。明治4年改正の吉田屋『東京大絵図』も、この場所をキリシタンサカと記入している。真山青果は『切支丹屋敷研究』で「作図者の錯記らしくも思われるが、この場合は必ずしもそうとばかりも断言しがたきてんがある」と述べ、この付近の古老には、この坂を切支丹坂と呼ぶ人があるので一考を要すると記している。しかし上記地図以外にこの道を切支丹坂とする文献はないところから地図の誤記と考えられる。

あとがき

 江戸・東京の坂名は、一つの坂に一つの名前とは限らない。庚申坂の例でいえば、切支丹坂、今井坂、丹下坂の別名がある。他方、異なる場所の坂が同じ名前で呼ばれることも多い。富士見坂、新坂、稲荷坂などは東京都区内にそれぞれ10ヶ所以上ある。しかし切支丹坂は、切支丹屋敷のごく近くに同名の坂が複数存在したという点で異色の坂名といえる。
 ここまで検証してきた坂のなかで、新道(別名 七軒屋敷新道)の坂、庚申坂、現・切支丹坂が切支丹坂と呼ばれた坂であったことはすでに述べたとおりである。しかしひとつ疑問が残った。「山の手の坂、下町の橋」と言われるように江戸・東京では坂や橋は場所を特定し、往来の目標にされてきた。そうしてみると同時代に同名の坂がごく近い場所に存在することは都合が悪い。切支丹坂と呼ばれた三ヶ所の坂は、そう呼ばれた時代がそれぞれの坂で異なっていたようにも思える。
 現・切支丹坂は、明治20年代に新たにひらかれた道で、この坂が切支丹坂と呼ばれるようになったのは、『新撰東京名所図会』が現・切支丹坂を真の切支丹坂だと唱えた明治39年以降のことであった。それまで切支丹坂と呼ばれた坂が庚申坂であったこともすでに述べたとおりである。
 問題は、庚申坂と新道(別名 七軒屋敷新道)の坂の関係である。両坂のいずれが切支丹坂であったかについて江戸時代すでに混乱をきたしていた。(『新編江戸志』(寛政年間 1729〜1801)は庚申坂を切支丹坂とし、『御府内備考』(文政9年〜12年・1826〜1829)は『改撰江戸志』を引用して新道の坂を切支丹坂としている)。混乱は、切支丹坂は一つであるとの思い込みからおきたとも考えられ、両坂が切支丹坂であったという発想はなかったようだ。(庚申坂は切支丹坂ではないと否定した『新撰東京名所図会』も同様である。)
 庚申坂と新坂の両坂が切支丹坂と呼ばれた年代について考えてみたい。庚申坂は現在も利用されている坂だが、坂のひらかれた年代は明確ではない。しかし『御府内沿革図書』切支丹屋敷・延宝年中之形(1673〜1681)に「坂」と記されており、遅くとも延宝年間に(庚申)坂があったことが確認できる。一方、新道の坂は、元禄14年(1701)にひらかれ明治初年に廃道となったことがわかっている。すなわち庚申坂は新道の坂より古くにひらかれた坂であったといえる。(ただし以下のことは文献で証明できないことなのであくまでも推測にすぎない。)年代は不明だが、まず庚申坂が切支丹坂とよばれるようになり、元禄14年(1701)に新道がひらかれると、切支丹屋敷に沿った坂であることからいつのまにか新道が切支丹坂と呼ばれようになっていった。(思えば、現・切支丹坂もいつの間にか庚申坂にかわって切支丹坂と呼ばれるようになり現在に至っている。)やがて、切支丹屋敷が火事で焼失し、再建されないまま寛政4年(1792)に屋敷が廃止され、跡地が武家屋敷に変って切支丹屋敷の記憶が薄れていくと、新道の坂にかわって再び庚申坂が切支丹坂と呼ばれるようになったと考えることはできないだろうか。切支丹坂は時代によっていくつかの坂でその名を受け継いで言ったようにも思えるのだが、このことは推測にすぎない。

 真山青果が「切支丹坂の研究」でとりあげた坂のうち「切支丹屋敷表門と庚申橋の間」は、本稿でとりあげなかった。詳細は、真山青果著『切支丹屋敷研究』をお読みいただきたい。

【参考文献】
真山青果『切支丹屋敷研究』真山青果全集 講談社 1976
窪田明治『切支丹屋敷物語』雄山閣出版1970
川村恒喜『史蹟切支丹屋敷研究』郷土研究社 昭和5年(1930)刊
文京区史
間宮士信『小日向志』東京市史稿市街篇第六
十方庵敬順『遊歴雑記』江戸叢書 
『江戸砂子』享保17年(1732)  
『続江戸砂子』享保20年(1735)
『再校江戸砂子』明和9年(1772)
藤原之廉『江府名勝誌』享保18年(1733)
近藤義休撰・瀬名貞雄補訂『新編江戸志』寛政年間(1789〜1801)
『改撰江戸志』成立年代不詳(『御府内備考』に引用)
『御府内備考』文政9年〜文政12年(1826〜1829)(『大日本地誌大系』雄山閣)
『新撰東京名所図会』第45編 小石川区之部其三 明治39年(1906)
『御府内沿革図書』(『江戸城下変遷絵図集』原書房)
近江屋板『小日向・小石川・牛込辺絵図』嘉永2年(1849)
尾張屋板『東都小石川絵図』嘉永7年刊・安政4年/1857 改定図
尾張屋板『礫川牛込小日向絵図』万延元年(1860)改正図
吉田屋『東京大絵図』明治4年改正図
参謀本部陸軍部測量局作成『五千分の一東京図』
『東京十五区集・本郷及小石川区之部』明治36年(1903)
『デジタルミリオン東京』東京地図出版
横関英一『江戸の坂 東京の坂』中公文庫
石川梯二『江戸東京坂道事典』新人物往来社
岡崎清記『今昔東京の坂』日本交通公社
永井荷風『日和下駄』岩波文庫
夏目漱石『琴のそら音』
遠藤周作『沈黙』新潮文庫

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