「坂学会」 2014年巡検

那覇の坂探訪

報告: 本木 公

日時: 2014年1月31日(金)〜2月2日(日)
参加者: 8名
歩いた坂: 巡検日前日 1月31日(金) 3坂
  馬ころばし坂、金城坂、識名坂
巡検日第1日 2月1日(土)  12坂
  後見せ坂、嶺間括り跡、安谷川坂、大中坂、天山坂、
  甕の坂、島添坂、金城坂、知念坂、玉陵坂、真境名小路、
  寒水川大小路
巡検日第2日 2月2日(日)  3坂
  蚊坂、桜坂、てんぷら坂

 沖縄の坂名の特徴は、なんといっても坂を「ヒラ」あるいは「フィラ」と呼んでいることだ。今回、移動のために何度かタクシーに乗ったのだが、そのつど運転手に坂をヒラと呼ぶか尋ねた。答えは「はい」、つまり現在も坂を「ヒラ」「フィラ」と呼んでいる。このことは『古事記』『日本書紀』に「黄泉平坂」(よもつひらさか)と記された時代にまで話がさかのぼるようで、どうやら日本語の起源にかかわるようなのだ。もっとも最近できた坂の一つ、首里の「いろは坂」は「いろはざか」と呼ぶとのこと。標準語になれた世代に「さか」を「ヒラ」とよぶ坂名が伝承されていくか心配だ。(坂名は地名と同様、その地に暮らした人たちが日々の生活とともに育んできた文化です。ぜひ後世に伝えてほしいと思うのです。)
  坂の詳細は坂学会のホームページから「全国 坂のプロフィール・沖縄県」をご覧下さい。
  坂の地図はこちら

坂巡検前日(1月31日)晴れ  浦添+中城+嘉手納
  9:30ダイワロネットホテル沖縄県庁集合 終日レンタカーで移動

 いつものように今回も現地集合。多くの人は1月30日のフライトで那覇入りした。そこで皆で那覇郊外に足を延ばすことにした。午前は那覇の隣町、浦添市の「当山の石畳道」を訪ねた。目的は「当山の石畳道」にのこる「馬ドゥケーラシ(馬ころばし坂)」を歩くこと。道わきに案内板が建てられており概要を知ることができた。案内には「馬がころぶほどの急坂で「馬ドゥケーラシ」と呼ばれて いました。」とある。「馬ドゥケーラシ(馬ころばし坂)」は、当山の石畳道の一部で坂下を流れる牧港川に架かる当山橋へ下る坂であった。石畳が敷かれ古道の趣を感じた。
 坂から戻ったところで、昼食時間まで近くの「浦添ようどれ(琉球王国初期の王陵)」に行こうと相談している所で海人(うみんちゅ)のWさんに出会う。「浦添ようどれ」の一角にある展望台へ案内していただいた。浦添の町が眼下に広がり、その先に海が広がっている。ここが島であることを実感した。
↑ 馬ドゥケーラシ(馬ころばし坂)が当山橋の先へと上って行く。

 金城坂下へ移動、ランチの時間まで金城坂(かなぐしくびら)と識名坂(しちなんだびら)を散策。識名坂は首里城から金城坂を経て那覇の港へと通じた真珠道(まだまみち)の一部で、かつては松並木の続く石畳の坂であったという。
← 金城坂と首里殿内(うちなー料理の店、この店で昼食をとる)


← 識名坂、金城坂との間に金城橋が架かっている。
識名坂は、伝説「識名坂の遺念火」でも知られた坂だ。







午後は、北中城村で中村家住宅(国指定重要文化財)を見学、さらに世界遺産に指定された中城城跡を訪ねた。近くに満開の「冬のひまわり畑」があると聞いたのだが見逃してしまった。(残念〜)


屋上から米軍嘉手納飛行場を見下ろす「道の駅かでな」で休憩。読谷から那覇にかけて嘉手納弾薬庫、キャンプ瑞慶覧、普天間飛行場などの米軍基地がひしめいている。沖縄のおかれた現実を実感。この後、読谷まで行く予定だったが、時間切れで那覇へ戻ることになった。帰途、国道28号比謝橋へ下る「天川坂」(あまかーびら)跡を確認のため比謝橋まで行ったが駐停車できる場所がなく断念。那覇市内に戻り居酒屋「抱瓶(だちびん)」で懇親会。沖縄らしい食と泡盛を満喫した。

坂巡検第1日(2月1日)晴れ  首里の坂を歩く
  9:30 ゆいレール儀保駅集合

 旧首里市には名前がついた坂だけで34坂が認められる。この中にはすでに消滅した坂や坂名を付与されていない坂もある。嶺間括り、真境名小路、寒水川大小路のように「括り(くびり)」や「小路(すーじ)」「大小路(うふすーじ)」の名でよばれる傾斜した場所も含んでいるが、形状は明らかに坂であり、名前の付与された地名であることから「名前がついた坂」に含めた。今回歩いた坂は、首里城を中心とした首里台地の坂12坂にすぎないが、首里城、玉陵といった世界遺産だけでなく御嶽(うたき)や樋川・カー(泉=命を支える水であることから神聖な場所として拝所にもなっている。)などの聖地も訪ね歩いた。

午前:儀保駅から守礼門まで(首里台地北側の坂)

 首里城北側の低地を屈曲して流れる儀保川(ジーブガー)に架かる小橋を渡るとすぐに後見せ坂(くしみしびら)の上りになる。100mほど上りが続く何の変哲もない坂だが「自室にこもり機を織る娘が、ある時妹の夫に自分の姿を盗み見されたことを知って家を走り去った。その姉娘の後姿を最後に見た場所」との話が伝わる坂だという。(『首里の地名』より)
← 後見せ坂を上るメンバーたち
 儀保大通りを横切って少し進んだところに指司笠樋川(サシカサヒージャー)がある。(左の写真)個人の敷地内だが井戸拝みに訪れる人のために門の施錠は解かれていた。琉球石灰岩の石垣で囲まれた井から今も水が流れ出ている。樹林におおわれた空間は静かで聖なる場所であることを感じさせる。
 嶺間括り(みーまくびり)跡の案内板が指司笠樋川と安谷川の間の小路に立っている。嶺間括りは、嶺間御殿(琉球の最高神女職である二代目聞得大君の屋敷)の横にあった小坂だったという。「くびり」について案内板には「地形のくびれた場所に付けられた地名だが、この場所はくびれた地形上ではなく小坂であるため、本来の意味が忘れられてつけられた地名の可能性がある」と書かれていた。坂は消滅して今はない。
 ↑ 安谷川坂
 ↑ 安谷川(井戸)
 ↑ 安谷川御嶽
 ↑ 龍潭と首里城


 安谷川坂(あだにがーびら)の坂下に安谷川(アダニガー)という名のカー(井戸)がある。坂の名はこのカーにちなむ坂名である。坂の途中に同名の安谷川御嶽(アダニガーウタキ)が祀られていた。坂を上ると中城御殿跡の先に首里城を池面に写した龍潭に出た。龍潭通りを西へ250mほど進むと北へ下る道幅の狭く短い坂が二つある。三尾の坂(さんみぬふぃら)と天山坂(てぃんさんびら)だ。注意しないと見逃しそうな小坂だ。
  ↑ 三尾の坂
   ↑ 天山坂
 三尾の坂は、坂の脇に王府時代、中国から金魚を持ちかえった城間家があった。首里方言で金魚のことをサンミといったところから三尾の坂と呼ばれるようになった。また、天山坂は、第一尚氏の墓陵であった天山陵への参詣路であったことに由来する坂名だという。(『首里の地名』より)
 ←大中坂
 大中坂(うふちゅんびら)は首里バブテスト教会東側を北へ上る坂である。首里大中町にあることからそう呼ばれるようになったという。坂下から見上げただけで甕の坂へ向かった。
 首里名物という山城(やまぐすく)まんじゅうの店内で作りたてのまんじゅうとお茶で休憩した。ほどよい甘さと月桃(ゲットウ)の葉の香りがしておいしくいただいた。160年受け継がれた伝統の味だという。
 ←山城まんじゅう。衣につぶあんを包み月桃の葉を敷いて蒸したもの。

 ↑ 甕の坂
 再び坂に戻り、甕の坂(かーみぬひら)を上る。昔、水甕を焼く窯場があったことに因む坂名だという。
坂上に近づくと坂脇の首里高校から竹刀を打ち合う音が聞こえてきた。道の突当たり正面に玉陵(たまうどぅん)が見えてきた。まもなく午前の部の終点、守礼門が近い。


守礼門をくぐり、円鑑池を抜けて円覚寺跡を見学した後、県立芸大前にある沖縄料理の「あしびうなぁ」で昼食。

← 守礼之門


午後:首里城から首里台地南側の坂を歩く

 首里城を中心に広がる首里台地南面の坂は、急傾斜の坂が多いのが特徴である。どの坂も驚くほど急な坂だ。坂の多くは道幅が狭く階段もあって自動車が通れないことからか昔の形状がよく保たれているように思われた。

 首里城を見学した後、台地南側の坂を歩きはじめる。島添坂(しましいびら)は、首里城を出発し真玉橋を経て垣花へ至る官道・真珠道(まだまみち)最初の坂だ。坂上北側一帯は崖にさえぎられ、南側は斜面だが緑に覆われて見通しがきかない。よく整備されていて心地よい空間だ。坂を 下って行くと道は直角に曲がり一気に視界が広がった。坂の曲り角で「沖縄ぜんざい」の看板をみつけた女性たちに押されて店に入った。名前は「ぜんざい」でも実は「かき氷」でした。



↑ 坂上から見た島添坂
← 島添坂の曲り角。写真右手に喫茶店。眺めがよい。

 ← 金城坂 → 
 坂の途中からの眺め 

 ↑ 金城の大アカギ

 島添坂を下り、赤マルソウ通りを横切ればそこが金城坂(かなぐしきびら)の坂上。勾配の急な箇所は階段になっている。敷きつめられた琉球石灰岩の敷石と周りの石垣がマッチして美しい坂だ。金城坂の途中の小道を東へ折れて金城の大アカギを見るために寄り道する。 20mほど行くと内金城嶽(うちかなぐすくたき)と呼ばれる拝所があり、アカギの大木が数本あった。推定樹齢200〜300年、樹高は20m程だという。沖縄にはいたるところに祈りの場所がある。
 ↑ 金城村屋と金城坂
 ↑ 無名の坂
 金城坂へ戻り金城村屋(かなぐしくむらやー)のかどを右へ折れて名前の無い坂を上る。石畳の坂を郵便配達のバイクが下って行った。急坂で、しかもでこぼこの石畳道では配達も楽ではなさそうだ。

無名の坂を上りきったあたりから南へ一直線に下る急坂が知念坂(ちにんびら)だ。狭い坂なので車は乗り入れできない。この急坂を上り下りするには歩くしかない。坂上から見下ろしただけで通り過ぎた。


← 坂上から見た知念坂
  ↑ 玉陵坂   ↓ 玉陵

 赤マルソウ通りに戻り「一中健児の塔入口」バス停先を寒川通りまで上る坂が玉陵坂(たまうどぅんびら)だ。坂を上った。坂上部は切通しになっている。坂の由来は玉陵の脇の道であることからそう呼ばれるようになったもの。
世界遺産の玉陵(たまうどぅん)を見学する。1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築いたもので第二尚氏王統の陵墓となったという。3基の墓室に歴代国王と家族が眠る。沖縄戦で大きな被害を受けたが修復工事を経て昔の姿を取り戻したとパンフレットにあった。

 ↑ 真境名小路
 玉陵を出て寒川通りを西へ向かうと300m程で真境名小路(まじきなすーじ)の坂上に着いた。
 ここで二組に分かれて一組は真境名小路の急坂を坂下の赤マルソウ通りまで下り、他の一組は坂上の寒川通りをさらに西へ向かった。坂上を東西に走る寒川通りと坂下を東西に走る赤マルソウ通りは都ホテルの近くで合流する。二組は二つの道の合流点で落ち合うことにした。真境名小路の坂は狭いが、坂上の一部に石畳が残っていた。
 真境名小路を下った一行は赤マルソウ通りの斜面の下にある湧泉、寒水川樋川(すんがーひーじゃー)へ立ち寄った。この樋川の名前が町名「寒川町」になったという。寒水川大小路(すんがーうふすーじ)も、寒川通りと赤マルソウ通りを結ぶ急坂だ。坂名は、「寒川町」がかつて「寒水川(すんがー)」と呼ばれたことに由来する。・・・つまり寒水川大小路もまた湧泉、寒水川の名を冠した坂と言うことになる。
← 寒水川大小路
 二組に分かれた一行は赤マルソウ通りと寒川通りの合流地点で再会。本日の坂めぐりはこれで予定終了。都ホテル前から、那覇市観光周遊バス「ゆいゆい号」で「おもろまち」へ移動。喫茶店を探している所で突然のにわか雨に追われて近くのホテルに避難した。雨が小やみになるまでホテルの喫茶店で休憩。18時から「回・おもろまち店」で慰労会。一日中よく歩きました。お疲れ様でした。「カリー(かんぱ〜い)」

坂巡検第2日(2月2日)雨時々曇り  那覇市内の坂を歩く
9:30 ダイワロネットホテル沖縄県庁集合 レンタカーとタクシーに分乗して移動
 ↑ 識名園     ↓ 蚊坂
 最終日は小雨になった。今日のフライトで帰るメンバーもいるので午後3時に解散予定。まず識名園へ向かった。識名園は18世紀末に造られた琉球王家の別邸。沖縄戦で壊滅的に破壊されたが1975年から約20年を費やして再建されたと云う。美しい庭の陰には戦争の惨禍があったのです。
 識名園から那覇空港近くにある(あった?)蚊坂(がじゃんびら)を訪れた。この珍しい坂名の由来は蚊(がじゃん)にまつわる伝説による。「昔、唐(明とする話もある)に行った人がぶんぶんと音を出す珍しい虫を土産に沖縄へ帰ってきた。この坂で休憩していたが虫を入れた箱からぶんぶんという音が聞こえない。死んだのかと思いそっと箱を開けたら全部逃げてしまった。(別の話は坂で転んで蚊が逃げたとしている)それから沖縄に蚊が広がった。」・・・ということだそうです。
↑ 蚊坂の坂標 ↓ サクラ咲く桜坂劇場
 ↑ 桜坂(桜坂通り)
 ↑ 牧志公設市場
 国道331号坂上の鏡水交差点から垣花交差点へ下る坂がある。坂はパイナップルハウス前で二つに分かれ、坂の途中で合流している。道が合流する位置東側に坂標がたっていた。坂標があったことでこの付近に蚊坂があったことが確認できたが、付近一帯は開発でかなり変わっており昔の坂の位置を確かめることはできなかった。

  蚊坂から牧志の桜坂劇場まで自動車で移動して桜坂を下った。桜坂劇場前には桜坂のシンボルである濃いピンク色の寒緋桜の若木が満開だった。戦後間もない1951年、山城善光氏が中心となって劇場「珊瑚座」を興し、劇場前の通りを「櫻坂」としたのが現・桜坂の始まりだという。さらに桜の木を100本ほど通りに植えたということだが、今はその桜の木も絶えた。坂上でビルの建設工事が始まっていた。猫が居り、生活感あふれる桜坂周辺も変化の気配がした。
 牧志公設市場に立寄った。野菜、果物、乾物、化粧品、衣料品、土産品と生活に関わる品があふれかえり、それを求める人でごった返している。迷子にならないように気を付けながら市場の二階に上がった。ここも人でいっぱい。公設市場内の食堂で昼食。

 ↑ てんぷら坂
 旅の最後にてんぷら坂を訪れた。壷屋焼物博物館の裏をゆるやかにカーブして東北東方向へ上る坂である。戦後、この坂の両側に十軒ほどのてんぷら屋があったことからついた坂名だという。
← 以前 坂上に「てんぷら坂」という名の店があったが
  別の店になっていた。(写真右は2012/10撮影)
 てんぷら坂を上り、家々を抜けて壷屋やちむん通りに出た。壷屋焼の店が並び、裏通りには陶芸教室や茶屋があり、ここでもネコが店番をしていた。まさに「招き猫」たち。ゆったりと時間が流れているようでのんびり散歩するのがふさわしい一画だ。市場にもどり解散。今日のフライトで帰る人、もう少し沖縄にとどまる人とまちまちだが、それぞれに楽しんだ沖縄の坂をめぐる旅でありました。


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