「坂学会」 2012年度巡検《第1日》

大坂の坂探訪(天王寺七坂を歩く)

報告: 本木 公

日時: 2012年11月10日(土) 13時JR天王寺駅集合
参加者: 13名
歩いた坂の数: 13坂(赤字は天王寺七坂)
一心寺坂(いっしんじ)、逢坂(おう)、
天神坂(てんじん)、清水坂(きよみず)、
愛染坂(あいぜん)、口縄坂(くちなわ)、
学園坂(がくえん)、源聖寺坂(げんしょうじ)、
真言坂(しんごん)、相合坂(あいおい)、
西坂(にし)、北坂(きた)、地蔵坂(じぞう)


第2日「奈良の坂」へ | top page へ

 大阪は水の都。川と堀と橋の町。そんなイメージの強い平坦な町に坂? でも、大阪(昔は大坂と表記したようです)なのだから坂がないわけないよネ。もっとも大坂ではなく小坂(おさか)が語源だとの説もあるようです。いずれにしても坂の名を冠した地名であることは確かなようで、百聞は一見にしかず。これは確かめるほかない。・・・というわけで今回は大阪の坂探訪です。コースはJR天王寺駅から天王寺七坂を中心に地下鉄谷町線谷町6丁目駅まで。谷町筋と松屋町筋の間を上ったり下ったりを繰り返しながら坂と寺を巡るウォーキングとなった。
 ところで天王寺七坂って? 
 中央区の大阪城付近から住吉区住吉大社辺りまで、長さ12q、幅2qの台地が続く。台地の範囲を天王寺付近までとする説もあるようだが、いずれにしても南北に長い台地が上町(うえまち)台地で縄文期には大阪湾と内海(河内湖)の間に突き出した岬のようだったという。「大阪」の地名も台地北端の傾斜した地勢から起ったと言われる。(・・・ってことは、上町台地は大阪の名前発祥の地というわけだ。)
 東西を谷町筋と松屋町筋に、南北を国道25号線と千日前通に囲まれた一画にある坂の内、南から北へ逢坂・天神坂・清水坂・愛染坂・口縄坂・源聖寺坂・真言坂の七つの坂が天王寺七坂。四天王寺に参詣するための七つの道筋の坂を指したようです。真言坂を除けばすべて東から西へと下る坂ばかりというのも天王寺七坂の特徴でしょう。

凡例
 赤線:坂探訪のルート
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 黄色のピンは坂の位置を示す
   クリックすると坂名を表示
 地図は上下左右にスクロールできる
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天王寺駅から逢坂へ

 JR天王寺駅をスタート、天王寺公園の中を進む。動物園、市立美術館、茶臼山古墳などがあり、市民の憩いの場でもあるようで多くの人で賑わっていた。通天閣が近くに見えると大坂の地を歩いているのだと思えるのだった。


← 一心寺坂を上る


 一心寺坂と刻んだ石碑が寺の斜面の植え込みの中にあった。坂は、一心寺と茶臼山古墳の間のS字にカーブした静かな道だ。一心寺長老高口恭行氏のコラムによれば、この道は元禄元年(1688)の地図にも描かれているとのこと。古い道なんですね。でも坂に名がついたのは最近のようです。
一心寺にお参りして行こうと、寄り道したところで写真の張り紙を見つけた。「天王寺七坂 ご利益いっぱい歴史も満載 スタンプラリー」一枚100円。早速購入して最寄りの社寺でスタンプを押しながらの坂めぐりとなった。
 まず一心寺で最初のスタンプをいただく。スタンプには「逢坂 本田忠朝一心寺内酒封じの墓」とあり可愛いイラストが描かれている。さらに「昔は急な坂道で荷車が坂を登りきれないので押屋(荷車を押す人夫)がいたそうな。」と書いてある。坂の情報もさりげなく触れているのがいいね。
 一心寺をでるとすぐに国道25号線に出た。国道25号線を四天王寺西門前から公園北口信号に向って西方向へゆるやかに下る坂が逢坂(おうさか)だ。
↑一心寺交差点前から見た逢坂。一心寺の後に通天閣が見える

↑四天王寺西門の石の大鳥居。浄土の東門だそうです
 ここからいよいよ「天王寺七坂」エリアに入る。逢坂は天王寺七坂の一番南に位置する坂でもある。ここでも少し寄り道して四天王寺へ参拝。南大門から入り西門へ抜けてふたたび逢坂へ戻る。
 逢坂の石標と坂の説明を書いた案内表示が立っていた。「[おう]坂 天王寺区松屋町筋終点、いわゆる合法ヶ辻から東へ上がって四天王寺西門に至る坂である。逢坂は、逢坂の関になぞらえてよんだものとも、他説では聖徳太子と物部守屋の二人が信じる方法を比べ合せたと言われた「合法四会」に近いことにより合坂と名づけられたなどの諸説がある。」(坂案内板より)

逢坂から学園坂へ

 逢坂をすぎ安居[やすい]神社(安居天神)でスタンプを押して天神坂へ向かう。

 「天神坂 安居天神へ通ずる坂道なので、このように呼はれている。この神社境内は大阪夏の陣に真田幸村が戦死したところで、本殿わきに真田幸村戦死跡之碑がある。また同境内すぐ下には七名泉のひとつ、安居の清水があり「かんしづめの井」(癇静め)とも呼ばれよく知られている。」(坂案内板より)

 安居天神は、江戸時代には安井天神とも書かれたようで「安井(安居)」という名の名水があったことに由来するという。坂脇に湧水がモニュメントとして復元してあった。

 清水[きよみず]坂の坂上から清水[きよみず]寺の境内に入った。清水寺は四天王寺の支院のひとつで有栖寺といったが寛永十七年(1640)京都の清水寺から聖徳太子作と伝えられる十一面観音を移して「新清水寺」と改名したという。境内には清水寺の「舞台」や「音羽の滝」を模した「清水寺の舞台」と「玉出の滝」がある。舞台から眼下に街が見渡せて高低差が実感できた。
 寺の納経所で清水坂の印を押して清水坂へ向かった。スタンプには「清水寺の横にある清水坂には昔料亭浮瀬(うかむせ)があり、芭蕉や蕪村も訪れた」と記されている。坂案内板に書かれた清水坂の説明も紹介しておこう。「清水坂 新清水清光院に登る坂道をいう。高台にある新清水寺境内からの眺望は格別で、さらに境内南側のがけから流れ出る玉出の滝は、大阪唯一の滝として知られている。また、この付近一帯は昔から名泉どころとして知られ、増井、逢坂、玉出、安居、土佐、金竜、亀井の清水は七名泉と呼ばれている。」 (坂案内板)
↑『摂津名所図会』に描かれた清水寺と清水坂

 清水坂下から大阪星光学院の西側を行くとすぐに愛染[あいぜん]坂の下に出た。学生たちが清水坂と愛染坂を駆け下り、また駆け上がって行く。坂を格好の鍛錬場所にしてランニングする若者の姿が印象的だった。我々は、年相応にゆっくりゆっくり愛染坂を登って行く。
 坂上で愛染堂に出た。「愛染さん」と親しまれている寺だが、正式名称は荒陵山勝鬘院。聖徳太子が開いた施薬院が始まりという古い寺。
「愛染坂 その名のとおり、坂の下り口にある愛染堂勝鬘 院から名付けられた。愛染さんの夏祭り(6月30日)は大阪夏祭りの先駆けとして知られ、境内の多宝塔は市内最古(文禄3年)の建造物で重要文化財と指定されている。大江神社には「夕陽岡」の碑があり、このあたりからの夕焼けは今も美しい。」(坂案内板より)
↑愛染堂多宝塔  ↑愛染堂の坂めぐりスタンプ台

↑織田作之助文学碑と口縄坂
↑坂下から見た口縄坂町
 愛染堂の隣が大江神社。聖徳太子が四天王寺を建立したときにその鎮守として祀られたという神社だが、境内の一画に狛犬ならぬ「狛トラ」が祀られていた。阪神タイガースの守り神のようだ。さすが大阪と妙に感心してしまった。がんばれタイガース!



 このあたり一帯を「夕陽丘町」という。大江神社の境内には「夕陽岡」の碑や松尾芭蕉の句碑があり「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」とあった。ここは今も夕陽の名所だという。
 夕陽丘の高台にそって口縄[くちなわ]坂へ向かう。口縄坂の坂上に織田作之助の文学碑が建ち『木の都』の一説が刻まれていた。
 「口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思った。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直って来たように思われた。風は木の梢にはげしく突っ掛けていた」(文学碑より)
 口縄坂の由来は種々あるようだ。口縄は蛇のことで、坂が蛇のように見えたという説が一般的のようだ。大阪城築城の時に縄を打ち始めた場所説、坂の登り降りが大変なので縄を手繰って往来したので寺口の縄坂と呼んだものが口縄坂となったという説もある。名前の謂れはともかく石畳と植栽が彩りを添えて美しい坂だ。

 学園坂は、古い坂が多い上町台地の坂の中では新しい坂だ。大阪夕陽丘学園の南に面した坂であることに由来する坂名だ。「昭和12年(1937)に都市計画道路として新設された道で当初は「夕陽丘新道」「夕陽坂」などと呼ばれていた」という。(「NPO法人まち・すまいづくり」HPより)
↑学園坂 歩道、自転車道、車道が明確に分けてある。

学園坂から真言坂へ


 学園坂を谷町筋まで上がり谷町筋を北に向かったが、源聖寺坂への曲り角を行き過ぎてしまい道を戻った。寺町の一画で巨大なインド寺院風の建物に遭遇。どうやらラブホテル? 聖と俗、生と死とは昔から隣りあわせなのだ。深遠ですな。

←源聖寺坂
「聖源寺坂 この坂は登り口に源聖寺があるので、その名をとっている。付近一帯は、寺町として長い歴史を持つ、齢延寺には、幕末に泊園書院を興して活躍した藤沢東?、同 南岳父子の墓があり、銀山寺に は近松門左衛門の「心中宵庚申」にでてくるお千代・半兵衛の比翼塚が建てられている。」(坂案内板より)

 源聖寺[げんしょうじ]坂は複雑な形をしている。今回は坂上から坂下へと下りたのだが、齢延寺(スタンプ捺印所)と銀山寺の間を緩やかに下りはじめた石畳の坂は、やがてカーブした石段の急斜面に変る。すると眺望が開け街並が眼前に広がった。石段坂は再び石畳の緩やかな傾斜に変った。
← 源聖寺坂の案内板。 天王寺七坂のそれぞれに写真のような案内が立っていた。 坂と周辺の歴史や文化の一端が分り、坂歩きにはうれしい情報だ。

   松屋町筋を北に行く。源聖寺坂、浄国寺、称念寺、大蓮寺と寺町が続く。下寺1丁目交差点の手前を右折。カーブした急坂を上ると「生玉[いくたま]さん」と親しまれている生国魂[いくくにたま]神社北門の前に出た。ここでも神社にお参りした。
←生国魂神社にはいくつもの境内社(末社)が祀られ、多くの句碑、記念碑が建っていた。写真はその案内表示。


真言坂から地蔵坂・地下鉄谷町六丁目駅まで

← 真言坂。現在の真言坂は緩やかなスロープの坂だが、江戸時代に描かれた『浪花百景・真言坂』や『摂津名所図会・生玉真言坂』をみると急な石段坂だったことがわかる。

 天王寺七坂の北端に位置する真言坂は、七坂で唯一南から北へ下る坂で生国魂神社北門から千日前通りまでまっすぐに下っている。坂名は、真言宗の寺六坊がこの地にあったことに因む名で江戸の文献にもその名が記されている。寺は明治の廃仏毀釈運動で撤去・移転されて坂の名前だけが残った。坂名は、かってこの地に真言宗の寺々があったことの証しでもある。
「真言坂 生国魂神社の神宮寺であった法案寺をはじめとする生玉十坊が、明治の廃仏毀釈まで神社周辺で栄えていた。うち、神社の北側には、医王院、観音院、桜本院、新蔵院、遍照院、曼荼羅院の六坊があった。すべて真言宗であったのでこの坂は真言坂とよばれた。」
(坂案内板より)

 千日前通りを横切ると行政区分が天王寺区から中央区に変る。次の目的地は浪速高津宮[こうずぐう]
 境内に相合[あいおい]坂(別名縁結びの坂)、西坂(別名縁切り坂)、北坂と名前のある坂が三つある。これらの坂は表参道とは別の道で、西側と北側から神社境内に入る石段の坂である。


↑ 相合坂の上り口




← 相合坂頂上
 「あいおい坂」は、相生坂と書くことが多い。「相生」は「一つの根から二本の幹が相接して生え出ること。二つのものがともどもに生れ育つこと」(『広辞苑』)の意で、相生坂には二つの形状がある。@二つの坂が合わさり一つの坂になっている形の坂。A二つの坂が並んでいる形の坂。高津宮の坂は「相合坂」と書くが、形状は@の形だ。出会う(合う)の意をより強く意識して字を選んだように思える。
 高津宮の坂案内板には以下のように書かれていた。
「相合坂(縁むすびの坂) 明治後期、氏子の土地奉納により今のような坂ができた。横から見ると二等辺三角形で男女が両方から同時に登り、頂点でピタリと出会うと相性が良いといわれている。」


← 写真上部の石段が
  西坂(縁切り坂)
下側の石段が相合坂









↓ 西坂(縁切り坂)

 相合坂の一方の上り口と接して西坂がある。縁切 坂とも呼ばれる坂だ。「縁結び坂」と「縁切り坂」が接しているので願いをもって坂を利用する人は注意が必要だ。
「西坂(縁切り坂)  明治初期まで坂の形状が三下り半になっていて俗に縁切り坂とよばれていた。今は諸々の悪縁を絶つ坂としてひそかに知られている。(昔は離縁状を三下り半の形式で書いていた)」(坂案内板より)
 江戸末期に出版された『摂陽奇観』に「高津西ノ坂世俗去り状坂といふ三下り半に曲がりたる由也」と載っていることから江戸時代からこのように呼ばれていたようだ。今は写真のように「くの字」に折れ曲がっている。
高津宮では、「西坂(縁切り坂)で悪縁を絶ち合相坂(縁結びの坂)で良縁を結ぶ」と宣伝していた。縁切り坂と相合坂が隣り合う・・・。これも人生ですね。





←北坂 北坂について述べた資料が見つからなかった。宮への北側入口の意からそう呼んだ坂名か?

↑ 地蔵坂
 谷町8丁目交差点から西に下る坂がある。坂上は急坂だがすぐに緩やかな傾斜に変わり高津公園北側へと下っている。私たちは逆に坂を上って行った。坂上の専修院門前に碑の両面に「浄土宗一向山専修院」・「旧蹟 地蔵坂」と刻んだ石造の立派な碑が建っている。坂名は専修院の頬焼地蔵尊に由来する。
 伝説は「むかし、相模国の助太夫という男の家に下女がいた。女はお地蔵様を深く信仰し毎日昼食を田畑で働く人に運ぶ途中初穂を地蔵尊にお供えしていた。これを知った助太夫に女は折檻され頬に火箸を押し付けられ気を失った。気が付くと火傷を負ったはずの傷は消え、お地蔵様の頬が焼けただれていた。以後お地蔵様を身代り頬焼け地蔵菩薩と呼んで多くの人達が参詣した。」(『摂津名所図会』)と伝えている。地蔵像は木造であったため戦災で焼け今は新しい地蔵尊が祀られている。

 地蔵坂を後にして近松門左衛門の墓を訪ねた。この先大阪城付近まで「上町台地」の坂はま だまだ続くけれど、今回の「大坂の坂」探訪はこれでおしまい。途中見逃した名所・旧跡も多い。   今回訪問できなかった坂とともに再訪を期したい。歩いたかぎりでは、坂道はよく整備され美し い坂が多かった。車の入り込めない坂は生活する人には不便かもしれないが安全に坂歩きを楽しめる。その不便さが昔の姿を残していることも多いのだ。それぞれの坂に解説のための標識(坂案内板)が立てられて坂歩きの助けとなったこともふれておきたい。


【参考文献】
坂案内表示板
『大阪市の旧街道と坂道』大阪市土木協会・大阪都市協会S60年刊
『史跡名所探訪 大阪を歩く』林豊著 東方出版2007年刊
NPO法人まち・すまいづくり ホームページ
『摂津名所図会』寛政八年〜十年(1796〜98)
『摂陽奇観』天保四年(1833)

「大阪府歩け歩け協会」から地図・参考資料をいただき参考にさせていただきました。
お礼申し上げます。


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