(3) 東京オリンピックが坂歩きのスタート

中村 雅夫

 1964年(昭和39年)東京オリンピックの前頃、麹町のホテル・ニューオータニの建設工事にたずさわっていた。現場の前は「紀尾井坂」。その紀尾井坂の周りの景観がどんどん変わってゆくのを見て『変わってゆく東京の風景を写真に残しておきたいな』と思った。そしてポツポツ変わりゆく東京・坂の風景を撮り始めた。

 その頃、酒を飲む本拠地は新橋だった。その新橋駅前の横町に、お客が飲食したものを自分で計算して、払って帰るという安くてのんびりした居酒屋があった。

 そこに他の客から「殿」と呼ばれていた前田さんという私より20年ほど年輩の常連客がいて仲良くなった。私は前田さんに『東京の坂の写真を撮っておきたい』と話をすると、前田さんは同意してくれて私を「坂の先生」と呼ぶようになり、それからは坂の話を酒の肴にするようになった。のちに金沢で聞いた話だが、前田さんは加賀百万石の系列の方とのことだった。前田さんとよく会っていた少し後頃、朝日新聞の「さかみち」という小さな囲み記事が二年ほど連載され、この記事を参考に、前田さんの薦めを支えに私の坂歩きはだんだん本格的になってゆく。近くの文京区の坂から歩き始めた。

 1971年(昭和46年)優れた坂の案内書「東京の坂道」(石川悌二著、新人物往来社)が発行された。中の文章から、朝日新聞の「さかみち」の記事は石川さんだったんだな、と判った。この本をもとに東京の坂を全部廻ってみようと思った。系統的に歩き始めた坂の写真のネガの1号の日付は1973年(昭和48年)になっている。

 歩き始めた最初の頃は、標識の付いた坂は殆ど無かった。その坂の辺の商店などで聞いて特定した坂も大分あった。私が廻りだした頃から、文京区や港区など坂の多い区では坂の表示をしはじめた印象が残っている。当時出かけるとき、カメラバックの底にタオルと靴下とパンツを入れて出発した。夕方 4時頃、坂の上から煙突を探して、風呂屋で汗を流し、近所の居酒屋でビールなど頂いて一日のスケジュールを終えるのが最高であった。だから何十年も飽きずに「一人での坂巡り」が続いたのかもしれない。だが今、銭湯が減って、日曜に開けている呑み屋が殆ど無くなって、坂歩きも楽しみが随分減った感じがする。

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