(8) 思い出の坂二題(紀尾伊坂と浅見坂)

中村 雅夫

  東京オリンピックの年、紀尾伊町のホテル・オータニの建設に携わっていて、オリンピック開幕直前に竣工する。坂の下辺の清水谷公園は当時、盛んだった学生運動の全学連の集合場所で、時々学生と機動隊が合対侍して、こぜりあいなどを何回か目撃した。現在は静かな落ち着いた地域だが、その夏は学生運動抑圧とオリンピック景気の高揚がミックスして、恐ろしく暑い、騒然たる紀尾伊坂の想い出が残っている。

  話は直接関係ないが、清水谷公園の向かいに、新派の水谷八重子の屋敷があって、1階の屋根の上を犬が走り回っていたのを想い出した。水谷八重子はまもなくここを引き払って、安藤坂近くへ引っ越す。ホテル・オータニが出来たのが気に入らなかったのかも知れない。夏の暑かった坂の想い出である。

  それより前の頃だが、時期は今さだかに想いだせない。僕の住まいは戦後ずっと大塚にあり、酒も大塚で飲む回数が多かった。当時大塚の三業(花街)は盛んで、芸者が300人居た、等という話があった。
  大塚の三業は昔から豊島区を横断して流れていた、谷端川に添って大正時代に作られ、その暗渠になった道路に沿って発展した。
  昭和30年代ごろ、駅辺の安い居酒屋でしたたか呑むと、ちょっと遠回りだが、三業通りを回って帰宅した。三業通りを行って、三業見番のところを左に曲がると、何十mか奥が、浅見坂である。この坂の中程に腰を降ろして、酔いを楽しんでいると、やがて三味の音が聞こえてくる。夫婦らしい新内の流しである。近寄らないでみていると、二階から芸者の顔が覗いて、「ご苦労さん」とおひねりがポンと投げられる。男性の高音が一段と張り上げられて、夏の酔いを涼しくしてくれる。一、二軒付き合ってこちらはご機嫌で帰る。

  浅見坂からちょっと行った所に巣鴨小学校があって、仕事で朝8時ころ三業通りを通ると小学生とすれちがう。その中に可愛い姉・弟がいた。その弟の方が後の玉三郎だと聞いたが確認はしていない。
  現在は浅見坂には大塚から巣鴨に上がる自動車がぶんぶん通って、とても酔い覚ましに座るわけにはいかないが、このごろ芸者らしい人を見掛けない。こちらも夏の宵をこの辺でふらつく年齢から遠くなった。残念。

  僕も若い頃の東京の坂には、そこで働いて暮らした、こんな小さな想い出が、あっちこっちにも残っている。

浅見坂 今もその風情を残し、飲み屋やホテルが隣接している
(写真 井手 のり子)

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