坂のプロフィール 地域・No. 長崎・長崎市−37
報告者 M.Ogawa
報告日 2014年01月05日
登録日 2014年01月05日

 

坂名 大音寺坂 (だいおんじざか) 別名 喧嘩坂(けんかざか)
天満坂(てんまざか)
所在地 地図g  長崎市興善町
目印  長崎地方検察庁と長崎地方法務局の間
坂の特徴 坂の方向  西北西に上る
長さ  30m  道幅=4m
傾斜  急坂(平均斜度20度)
形態  直線の短い階段
標識  坂の途中に「史跡 天満坂 長崎喧嘩騒動発端の地」という説明板が設置されている。
   史跡 天満坂 長崎喧嘩僧堂発端の地
時   元禄十三年(1700)十二月十九日
原因  佐嘉鍋島藩深堀領の武士深堀三右衛門,柴原
    武右衛門は所要をおえて五島町の深堀屋敷へ
    帰途についた。おりしも町年寄高木彦右衛門
    の初孫の宮参りを諏訪神社ですまして天満坂
    を下ってこの坂で両武士と出合った。この日
    は大雪で路地悪るく三右衛門が石段で躓き倒
    れ,はね土が高木の仲間惣内にかかった。
経過  両名は無調法を謝し其の場はおさまったが,
    夕暮方高木方二十数名の一隊が深堀屋敷に押
    掛け土足で乱暴を働き,其の上両名の刀の大
    小を奪い去った。
討入  三右衛門と武右衛門は武士としてひどい恥辱
    を受けた以上切死の外なく差替の大小を取寄
    せに在所に仲間を走らせた。
    深堀においてはこの難を見捨てるは男の道な
    らずと死仕度して出立す。
    翌二十日早朝西浜町高木屋敷へ討入彦右衛門
    以下六名を討果たした。
    深堀三右衛門は同屋敷で,柴原武右衛門は大
    橋(今の鉄橋)上で夫々割腹す。
幕府裁断 元禄十四年三月二十一日
    鍋島官左衛門家来 死罪十人 五島遠島九人
    長崎役人高木彦右衛門下人 死罪八人
    同人伜彦八郎 長崎四里四方追放
    武士道というは死ぬ事と見付けたりの葉隠の
    教条を何のためらいもなく決行したが,世にい
    う深堀義士伝のあらましである。
        昭和四十九年四月十九日建立 
        長崎北ライオンズクラブ
由来 他  法務局のところに“ミゼリコルディア教会”があったが、キリシタン弾圧で跡地が大音寺になった。大音寺は寛永15年に現在の鍛冶屋町に移転し,坂の上天満宮が建った。 この天満宮も原爆で焼失して法務局となり,坂の下に「坂の上天満宮」が再建された。また 長崎版忠臣蔵「深堀喧嘩騒動」の発端となった坂でもある 。 (「長崎坂づくし]より)
命名時期
参考文献  web page 「長崎坂づくし
写真 撮影日  2011年10月 撮影者  M.Ogawa


坂上から見る 坂下から見る
坂上から見る
坂下から見る
坂途中にある「天満坂 長崎喧嘩騒動発端の地」説明板
坂の途中にある
「天満坂 長崎喧嘩騒動発端の地」説明板

「長崎県の坂」リスト | 全国の坂リスト