profile/源太坂
 
  坂のプロフィール 地域・No. 静岡・富士市−2
報告者 M.Ogawa
報告日 2014年06月02日
登録日 2014年06月02日

 

坂名 源太坂 (げんたざか) 別名
所在地 地図g  富士市今泉9丁目と今泉の間から国久保1丁目と伝法の間まで
目印  吉原高校の西側をを南北に通る坂道。
坂の特徴 坂の方向  南西→南→西南西と曲がりながら上る
長さ  390m
斜度  緩やか(高低差13m,平均斜度1.9度)
形態  “S”字状に曲がる
標識  坂の途中に 富士市が設置した立派な石碑と説明板がある。
(石碑)
  源太坂
養和元年十一月梶原源太景季ハ九郎判官義経ニ従ヒ旭将軍追討ノ砌名馬磨墨ニ跨テ其威風ヲ誇示スル折圖ラズモ池月ノ嘶聲ヲ聞テ不審ノ眼ニ東方ヲ瞰シタト曰フ古丘デ原田村ノ呼子坂ト東西好一對ノ史蹟デアル

(史跡説明板)
    史跡 源太坂 (げんたざか)
 元禄元年(1184),木曽義仲追討のため,源頼朝は弟の範頼・義経を大将とした六万の軍勢を鎌倉から京都に向わせました。
 この軍勢には,頼朝の重臣である梶原源太景季が加わっていました。源太景季は,日頃から頼朝の持っている「生食(いけづき)」という名馬をほしいと思っており,出発のときこわを願い出ましたが,許されず替わりに二番目の「磨墨(するすみ)」という名馬を拝領しました。ところが,頼朝はこの後に出発のあいさつにきた佐々木四郎高綱に「生食」を与えてしまったのです。そのことをこの地で知った源太景季は,頼朝の信頼が四郎高綱より薄いと感じ,ここで四郎高綱と刺し違えて死のうと待ち構えました。この気配を知った四郎高綱は機転をきかせ,「この生食は,拝領したものでなく,盗んできたのだ」と言ってその場をおさめたといわれます。
 以来,この地は名馬「生食」と「磨墨」の馬くらべをした地として現在に知られています。
         平成元年二月   富士市教育委員会
由来 他  木曽義仲を討つ源氏の大軍が京都に向かった時の話。頼朝は生食(いけづき=池月)と磨墨(するすみ)という2頭の名馬を持っていたが,梶原源太景季には磨墨を,佐々木四郎高綱には生食を与えた。それを悔しく思った景季は,この地今泉の小高い丘で高綱を待ち構え問い詰めたところ,高綱は「拝領したのではなく,盗んできた」と応えた。景季は「ならば私も盗めばよかった」と笑いながら引き揚げた。という言い伝えに因む坂名。
命名時期
参考文献  「富士の民話あれこれ」 富士市ホームページ
写真 撮影日  2014年6月 撮影者  M.Ogawa

坂上より見る
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坂途中から上を見る
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源太坂 石碑
源太坂 石碑
史跡 説明板
史跡 説明板

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