坂のプロフィール 地域・No. 東京・北区−5
報告者 M.Ogawa
報告日 2013年10月13日
登録日 2013年10月13日

 

坂名 稲付城址坂 (いなつきじょうしざか) 別名
所在地 地図g  北区赤羽西1丁目
目印  道潅山(イトーヨーカ堂の南側の山)にある静勝寺の表参道。
坂の特徴 坂の方向  西南西に向かって上り
長さ  25m
傾斜  急坂
形態  非常に急な石段
標識  標識なし
由来 他  山上の稲付城址に上る坂であるため この坂名がついている。
 坂上の静勝寺山門前に,北区が設置した「稲付城跡」の説明板がある。
東京都指定文化財(旧跡)
     稲付城跡
               北区赤羽西1-21-17
 稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり,太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
 昭和六十二年(1987),静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって,永禄年間(1558〜1569)末頃から天正十年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
 また,静勝寺に伝存する貞享四年(1687)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか,城の空堀の遺構が道として描かれており,稲付城の城塁配置を推察することができます。
 この附近には鎌倉時代から岩淵の宿が,室町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城は,その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に,江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
 道灌の死後,この城には孫の資高(すけたか)が居城し,後に後北条氏に仕えました。その子康資(やすすけ)は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。
 明暦元年(1655)に道灌の子孫大田資宗(すえむね)は静勝寺の堂舎を建立し,道灌とその父(すえきよ)の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は,太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。
     平成十三年三月
          東京都北区教育委員会
命名時期
参考文献  「今昔東京の坂」岡崎清記 日本交通公社刊 1981
写真 撮影日  2013年6月 撮影者  M.Ogawa

稲付城址坂
稲付城址坂
「稲付城跡」説明板
「稲付城跡」説明板
静勝寺
静勝寺

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