坂のプロフィール 地域・No. 東京・港区−43
報告者 M.Ogawa
報告日 2010年3月11日
登録日 2010年9月24日
訂正修正 2021年3月15日by Koh Motoki

 

坂名 紀伊国坂 (きのくにざか) 別名  紀国坂(きのくにざか)
所在地 地図g  港区元赤坂2丁目
目印  外堀通りの“紀之国坂”交差点から 赤坂見附の方向に向う坂。坂の東側は高速道路と弁慶濠,西側は 赤坂御用地。
坂の特徴 坂の方向  南西に下る
長さ  340m
傾斜  緩やか(高低差5m,平均斜度0.8度)
形態  左に曲がりながら上る
標識  坂下の交差点に港区が設置した標識がある。
紀伊国坂  きのくにざか KINOKUNI-ZAKA
坂の西側に 江戸時代を通じて紀州(和歌山県)徳川家の広大な屋敷があったことから呼ばれた。
赤坂の起源とする説がある。
平成八年十月 港区 October 1966
由来 他  坂の西側に紀州徳川家の屋敷があったことから呼ばれた。(標識より)
命名時期  江戸時代
参考文献
修正履歴 2021.3.15 別名の項 茜坂を削除 削除理由:江戸時代の文献に「茜坂」の記述を確認できない。(紀伊国坂がかつて茜坂と呼ばれとの記事が多く見られるが、最近の調査では、紀伊国坂が茜坂と呼ばれたとの記述は見られない。なお、赤坂の地名由来は、紀伊国坂だけではありません。)以下、文献を掲げておく。 「赤根山 赤坂。今の紀の国の御中屋敷をいふといへり。ここを赤根山といふ故、紀の国坂といふは赤坂なるべしといふ人あり」(『紫の一本』天和三年・1683) 「紀伊国坂、赤坂風呂屋町の横丁より、赤根山へ登る坂を云ふ。今紀の国の御屋敷と成るゆゑ、紀之国坂と云ふなり。赤根山へ登る坂ゆゑ、この坂を赤坂といひたるゆゑ、今この近所を赤坂と云ふなり。(以下略)」(『紫の一本』天和三年・1683) 「紀伊国坂 右御館の東方、御堀に添て赤坂へ下る所の坂也。是赤根山の坂なれば、昔は是を赤坂と云しとぞ」(『江府名勝誌』享保十八年・1733) 「赤根山 紀州御中やしきの所をいふ。今云紀伊国坂はむかし赤坂といひしと也。赤根山の坂なれば赤坂といふといへり。あかね山はもと茜山と書。むさしの国は茜多く出たる所なり。紫の色よく名高きも茜よきゆへなり。されば茜を多く作りたる所ありてあかねの転語せし地名多し」(『続江戸砂子温故名跡誌』享保二十年・1735) 「坂 長凡四拾間程 巾凡七間程 右者町内北之方より喰違之方え登候往来ニ而往古者赤坂と申候由年代相知不申紀州様御屋鋪邊赤根山と唱候由右之山え登口ニ而赤坂と唱来紀州様御屋鋪出来之比より紀伊国坂と名付候由年代不分明ニ御座候世俗ニ申傳候而己ニ而書留等無御座候普請其外紀州様御持ニ御座候」(『御府内備考』文政九年〜十二年・1826〜29) 「赤根山 紀州候御中屋敷の地をいふとぞ。昔はこの地に多く茜を産す。ゆゑに茜山とよびけるとなり。いま紀伊国坂と呼ぶ地、昔は赤坂と称へしとなり。赤根山の坂なればかく赤坂とは号けたりといふ」(『江戸名所図会』天保七年・1836)
写真 撮影日  2001年12月 撮影者   M.Ogawa

紀伊国坂 紀伊国坂
紀伊国坂 標識
紀伊国坂

 

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