坂のプロフィール 地域・No. 東京・渋谷区−19
報告者 M.Ogawa
報告日 2010年3月11日
登録日 2010年3月11日

 

坂名 道玄坂 (どうげんざか) 別名 道源坂(どうげんざか)
道元坂(どうげんざか)
所在地 地図g  道玄坂2丁目から,道玄坂1丁目円山町の間まで
目印  JR渋谷駅から南西に向かう坂。坂上は“道玄坂上”交差点で玉川通りに合流する。
坂の特徴 坂の方向  坂下は西南西に,坂上は南西に上る
長さ  570m
傾斜  緩やかな坂(高低差13m,平均斜度1.3度)
形態  緩く左に湾曲しながら上る長い坂
標識  坂の途中に渋谷区が設置した標識がある。
道玄坂
 江戸時代の道玄坂は,大山街道の一部として多くの人が往来していました。
 当時の道玄坂は,現在の道玄坂から世田谷街道に拝って松見坂までを広く呼んだものでした。江戸中期頃より道玄坂とは専らこの坂を指すようになったのです。
            渋谷区教育委員会

*【坂上の玉川通りとの交差点に「道玄坂道供養碑」があり,次の説明板がある】

 渋谷道玄坂  
 渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(1525年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造り住んだ。
 それでこの坂を道玄坂というといわれている。江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物を江戸へ運ぶ大切な道だった。
 やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷付近もひらけだした。
 近くに住んだ芥川竜之介・柳田国男がここを通って通学したが,坂下に新詩社ができたり林芙美子が夜店を出した思い出もある。これからも道玄坂は今までと同じくむしろ若者の町として希望と夢を宿して永く栄えてゆくことだろう。
                樋口清之
由来 他  和田義盛が建歴3年に滅亡し,その一族の残党に大和田道元というのが,このあたりの洞窟に隠れ住んで山賊となっていた。別説では道元という僧がいて,このあたりに道元寺があったという。中世のころの伝承であるからいずれかとも確かめられない。(道家「東京坂事情」より)
命名時期  江戸時代
参考文献  道家剛「東京坂事情」
写真 撮影日  2001年5月 撮影者  M.Ogawa

道玄坂 道玄坂道供養碑
道玄坂 標識
道玄坂道供養碑

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