「坂学会」発足一周年記念企画 平成の幽霊坂を歩く
2006・8・18
2013・2・3 一部訂正 .
江戸の幽霊坂
井手のり子 .
都心に点在する「幽霊坂」。江戸の頃はこの名が示すとおり寺院・墓地、あるいは昼なお暗く鬱蒼と樹木が覆い茂っていた場所であったのでしょう。当時は坂はランドマークとしての機能を持っていましたから、この名を付ける他に、さして目立ったものがなかったわけで、それだけに江戸の市街がどのように広がっていたかが想像できるでしょう。
江戸時代に既に名づけられていた「幽霊坂」は千代田区では駿河台・富士見台、また新宿区では牛込台で、このあたりは武家屋敷が立ち並んではいたものの、人馬の往来も未だ少ない寂しい場所であったと推察されます。その他は鎌倉時代からある旧道や三田の寛永12年(1635)幕府によって開かれた寺町にありました。他は未だ武家屋敷や寺院の中に取り込まれており、交通路としての機能は持っていませんでした。
市街化が進み、辺りの景観が変わるにつれてそれぞれの「幽霊坂」は出世するようにその名前を変え定着していきます。宝龍寺の脇の坂なので宝龍寺坂、紅梅町の名から紅梅坂、湯立坂は「氷川の明神へ参るのに、ここで湯花(湯が沸騰したときにたつ泡。巫女や神官がこの泡を笹の葉につけて参詣人にかけ清めたり、神託を仰いだりする)を奉った坂」という謂れからきています。
庾嶺坂は将軍秀忠が中国の梅の名所、"大庾嶺"にちなんで命名したというもので、6つの別名を有しており、かなり古くからあった道であることが伺えます。(「幽霊坂」は庾嶺坂が転訛したものとの説もある。)
とりわけ
乃木坂の名前は乃木大将の殉死を悼み、大正9年に区議会の決議によって改名されたという特筆すべき背景を持っています。以上のように名前を変えずに今もって幽霊坂の名を有している坂は現在もその名のとおりの雰囲気を保っているからなのでしょう。
しかし、そこに住む人々にとってはイメージが悪いので変えてほしいということもあり、勇励坂、有礼坂(明治時代 文部大臣の森有礼の屋敷があったとのこと)などの別名を後から付けられたものの、浸透はしていないようです。変わった別名、ニコニコ坂というのは怖い坂なので、せめて顔だけでもにこにこして通り過ぎようということでしょうか。
いずれの坂も今は都心にあって、闇とは無縁の場所となっています。今回は代表的な3つの地区の幽霊坂を実際に夜に歩いて、灯りの無い、舗装もしていない道であったことを想像しながら平成の今の姿を検証してみることにしました。
幽霊坂 |
| 区 | 坂名 | 別名 | 所在地 | 江戸時代(切絵図)1850頃 |
1 | 北 | 幽霊坂 |
| 田端11-25と30の間を北東に上る 坂下与楽寺
| 明治 与楽寺内 |
2 | 新宿 | 宝龍寺坂
| 幽霊坂 | 市谷柳町と弁天町の間を東に上る
| |
3 | 新宿 | 庾嶺坂
| 幽霊坂 行人坂 庾嶺坂 若宮坂 祐玄坂 唯念坂
| 外堀通りの家の会館脇を北西に若宮八幡神社に上る | |
4 | 千代田 | 紅梅坂
| 幽霊坂 光感寺坂 | 神田駿河台4丁目、ニコライ堂の北を西に上る
| 名は大正時代 |
5 | 千代田 | 幽霊坂
| 甲賀坂 芥坂 塵坂 | 神田淡路町2−9と11の間を西に上る
| 名は大正時代 |
6 | 千代田 | 幽霊坂
| | 早稲田通りから富士見町1-11と12の間を西南に上る
| 明治20年以後に開かれた |
7 | 千代田 | 幽霊坂
| 勇励坂 | 早稲田通りから富士見1-8と2-11の間を西南に上る
| |
8 | 千代田 | 幽霊坂
| | 富士見2-13と14の間を東南に上る
| |
9 | 文京 | 湯立坂
| 幽霊坂 湯坂 暗闇坂 | 小石川5丁目と大塚3丁目の境 |
|
10 | 文京 | 幽霊坂
| | 目白台1丁目,新江戸川公園西側を北に上る | 細川家屋敷内
|
11 | 文京 | 幽霊坂
| 遊霊坂 | 目白台2丁目、日本女子大西側を東に上る
| |
12 | 港 | 乃木坂
| 幽霊坂 行合坂 なだれ坂 膝折坂 | 赤坂8丁目と9丁目の間 赤坂通り
| 名は大正時代 |
13 | 港 | 幽霊坂
| 有礼坂 | 三田4−11と12の間を南東に上る |
|
14 | 品川 | 幽霊坂
| ニコニコ坂 | 南品川5−10と11の間を西に上る
| 明治 畑地内 |
青字・・・江戸時代から開けていた坂道
「東京の坂リスト」 より
より大きな地図で 平成の幽霊坂 を表示
三つの地区の「幽霊坂」
神田・駿河台の幽霊坂
幽霊坂と紅梅坂(ニコライ堂北側)はもともとひとつに繋がっていた坂道であった。大正13年(1924)の区画整理で本郷通りができたため分断され、このあたりを紅梅町と称していたので紅梅坂と名付けられた。別名としての幽霊坂は分断前の名前がそうであったからである。
切絵図(1850頃)では坂上に定火消役屋敷があって、当時は坂上に火の見櫓がそびえていたという。維新後は官収されて空き地になっていた所に、後にニコライ堂が建てられた。
幽霊坂は「新撰東京名所図会」によると『往時樹木陰鬱にして昼尚ほ凄寂たりしを以って俗に幽霊坂を唱へたりしを・・・』とある。別名の 芥坂 塵坂は崖上から芥を棄てていたからであろう。
現在は病院 学校などが立ち並ぶ文教地域である。神田駿河台4の元・日立ビルのあった石垣で囲まれた場所は以前は三菱財閥岩崎家の屋敷があったところで 軍艦山とも称されていたとか。坂下は電飾の不夜城「アキバ」のITビル群が光を放っている。「幽霊坂」とはなんとも対照的な光景である。
僅かに石垣上の深い大樹の陰影が往時を偲ばせている。風格のあるニコライ堂が異国情緒を漂わせていて、今や「幽霊」よりも「ゴースト」が似合いそうな一画である。
|
|
【江戸東京重ね地図・中川恵司編】
|
三田の幽霊坂
この辺りは寛永12年(1635)に江戸城の拡張により八丁堀にあった寺院群20余りが一挙に移されたという いわゆる寺町で、今もその多くが現存している地域である。墓地の横を通る坂なのでこの名が付いたのも当然であろう。
忍願寺と南台寺の間の魚籃坂に抜ける道は 片側の崖下に墓地があり、墓石が整然と並んでいるのが見下ろせ、夜はひとりで通るには足が竦むが、その向こうはビル群が重なるように立ち並び 六本木ヒルズもその間からその姿を灯りの塔のように見せている。ライトアップされた東京タワーも巨大な蝋燭のようで、この寺町全体を見守っているようだ。
しかし、ここは「幽霊坂」と標柱も立てられていてその背後に続く坂上は街灯も寂しげで、ひょっとして・・・・と思わせ、今もって名前にふさわしい一画と言えよう。それでもここに住む人々には普通の生活通りとなっていて、夜でも臆することなく行き来している坂である。
|
|
【江戸東京重ね地図・中川恵司編】
|
富士見台の幽霊坂
富士見台の幽霊坂については、文献によっていろいろの記述がなされている。今回は一番多く記載のある「今昔 東京の坂」(岡崎清記・日本交通公社)を元にその3ヶ所を検証してみた。
この辺りは寺町ではなく武家地であった。富士見町の名が示すとおり高台となっているため、ほぼ平行してある三本の道がみな幽霊坂と称されている。広い武家屋敷の淋しい鬱蒼とした道であることからそう名付けたのであろう。切絵図や明治時代の地図を見てみると、時代によってかなり変遷が見られる。
絵図で分かるように江戸時代に称されたであろう坂は おそらく富士見町1丁目8と9の間の一ヶ所のみで、あとは屋敷内に取り込まれていたものであり、明治以後に道が開けて幽霊坂と呼ぶに至ったようだ。また宅地化が進むにつれ、近隣の住民から「幽霊坂」ではイメージが悪いということで「勇励坂」とするようになった坂(1丁目12と2丁目13の間)もある。
尚現在「幽霊坂」と呼ぶにふさわしい崖下の道(1丁目11と12)は私道となっているので、この名の消滅もそう遠くないことになろう。坂上は宿舎、寮、会館といった大きな施設が建ち、角川書店の瀟洒な建物が眼を引く。三本の幽霊坂の坂下の通りは早稲田通りで、今や赤提灯のともる店や飲食店が飯田橋駅まで建ち並んで庶民の町の様相を呈している。およそ幽霊とは全く縁のなさそうな世界となっている。
江戸の坂名はおよそ1683年に「紫の一本」にて30坂が明記され、その後幕府の正式地誌「御府内備考」(1829)に191坂、1856年の「近吾堂版江戸切絵図」では230坂名が挙げられて、その後幕末までに300余り名付けられています。およそ180年余りの間にそれだけ市街化が急速になされていったことを示すものでしょう。
時代につれて「幽霊坂」も辺りの景観の変化に伴ってその名を替え今に至っています。実際 現在標柱のある坂は少なくなっていますが、それはイメージが悪いという近隣住民の要望で(有礼坂・勇励坂)など他の字に替えてしまった所や、標柱を立てないで欲しいとの声によって無いところもあります。
このようなことで、これからこの坂名も知られる機会を逸していく限り消滅の一途を辿っていくことでしょう。
平成の今、巨大な不夜城と化した電飾のTOKYOからタイムスリップして 往時に思いを馳せてください。