「富士見坂」は東京では一番名前の多い坂である。しかし都心で江戸時代から富士山を見ることができる「富士見坂」となるとこの「日暮里富士見坂」が唯一になってしまった。(他にまだあるのだがここには及ばない)。
この「日暮里」は名前の通り、「ひぐらしの里」と言われ、夕景の美しいところとして
江戸の頃より文人墨客が愛した場所であった。この「富士見坂」のあたりには「花見寺」「月見寺」「雪見寺」などの別名をもつ寺もあり、なんとも風光明媚な場であったかを偲ばせる。
坂上の道灌山は「虫聴き」の場としても有名だった。先日TVで風鈴や虫の音は雑音にしか聴こえないと外国人が発言していたが、月や雪を愛で、さやけき音に耳を傾けるという日本人特有の風雅な文化を改めて感じたが、この地はそういうものを嗜む発信基地でもあったのだ。
富士見坂上の諏訪神社境内に立つと色づいた銀杏の大木が優しく見守ってくれ、懐かしい故郷の神社にタイムスリップしたような気持ちになる。近くのエリート校、K成高に通ったという知人はここでサボって、よく崖下の電車を眺めていたと言う。彼はこの空間にさぞや癒され救われたのであろう、JRのいろいろな車輌が間断なく行き交う。
富士見坂を下りれば六阿弥陀道。左に行けば、「夕焼けだんだん」という階段坂がある。アンケートによって名付けられたという。みんなが夕景の街を誇っている。
階段下は谷中銀座商店街。軒を連ねての庶民のお店は飴専門店や惣菜店、TV取材のあった店がずらり。
行列に並んで熱々のメンチカツをはふぅはふ〜。
立ち食いもここでは許される毎日が縁日の光景。
夕暮れ時の地元の商店街、茜色の空にだんだんと賑わいが消えて、一日の終わりを迎える。
「ALWAYS三丁目の夕日」の世界がここにはある。
この街には夕陽の向こうに富士山が見えることは不可欠なのだ。唯一残った「富士見坂」と言われて久しいこの「日暮里富士見坂」であるが、東京の都心部にあった「富士見坂」30近くが今や全滅状態(富士山が見えない)ということを考えると奇跡的に残っていると言える坂なのだ。
江戸の頃にはどこからでも高台(坂上)からは富士山が見える時代であった。時代とともに江戸の町が市街化するにつれ、建物が立て込んで、視界が遮られ次々と名ばかりの「富士見坂」となってしまったのだ。都心部では特に高層の建物が建つ時代になると加速してしまった。その中で名実とも「富士見坂」として残っているのが「日暮里富士見坂」なのだ。しかし、写真でお分かりのように、残念なことに「片翼の富士山」を望むものとなっている。そして更にまたこの眺望を脅かす事態が発生しているという。
「日暮里富士見坂」はこの坂を愛してやまない人々によって、奇跡的に残されているのだ。熱い住民の運動に支えられ、いくつかの危機を乗り越えて 眺望を守ってきたのだ。それは「富士見坂」を売り物にして街を活性化させようとか、目玉にして人を呼び寄せようというものではなく、下の写真が物語っている。
写真の中の彼女のように日々の暮らしの中での富士山はその人の人生とともにあるのだ。先日も、新聞の投書で「日暮里の富士見坂から見る富士山は格別でした。つらいときや挫折しそうなとき富士山を見ているだけで『そんなことでくよくよするなよ』と励ましてくれた。久しぶりに訪れると(略)・・・・見えにくくなっていた。 『もう元気つけられなくなったな』
と訴えているようでした。」(東京新聞)とあった。
今や高層ビルも多く、富士山が見える場所はいくらでもあるよと言うかもしれない。でもそれは彼女の日常の地べたから時間、空間を移してわざわざ眺める富士山では違う話だ。
何より江戸の頃からずっと、こうして坂を行き交う人々の人生に関わってきた「富士見坂」なのだ。"片翼の富士山"をこれ以上傷つけることは偲びなく許せない。是非とも景観上の配慮を関係機関にお願いしたい。
都心の山の手線駅近くなのに、夕景が美しく童謡「夕焼け小焼け」お似合いの場所がここにある。田舎に帰りたいな〜・・・と思ったらぶらりと降り立ってみるといい。
ゥン十年か先、この写真の人物に私自身の姿を重ねることができたらいいなぁ〜と思っている。それまで、「ダイヤモンド富士」のように、最期に煌きを放つことのできる人生が送れたら本望だ。それまで"えっ坂、ほっ坂"と歩き廻って元気でいなきゃ・・・。
2006.11 (盃 のり子)