坂学会/「江戸の坂道」を読み取ろう  
古地図の話
「江戸の坂道」を読み取ろう〜古地図が語りかけるもの

 

俵 元昭(ドキュメント作家)

 

〔注〕文中の図表は掲載準備中です


中世以前に地図はなく坂にも名はない

 今、収集した資料を整理してみると、1970年代に急激に、東京の坂道への関心が起こったことが分かる。当時、坂への標識の説明文を依頼されて書き、雑誌『旅』の座談会やNHK第二放送、雑誌『道路』での連載などをしたから、この現象の原因はそれなりに理解したつもりだが、「地名は学者のラビリンス(迷路)だ。まじめな研究には向かない」という英国の某学者の感想を知って、感じることがあったものだ。

 「坂道の研究は坂名の研究に尽きる」という言葉も横関英一氏(『古板江戸図集成』『江戸の坂東京の坂』正続の著者)から聞いた。それも坂の関心へのためらいになった。坂名は分類や時代順などを検討しても、地誌的考証以外はほとんど理解できない。だが、方法はありそうだ。私の関心とは多少違うが、人文地理に「東京における坂上の景観分化」(服部次郎『都市問題』1954・6月号)や「江戸における坂の分布」(尾留川正平『日本地誌7』67)もある。

 その後『江戸図の歴史』(飯田龍一と共著、1988築地書館)を書いてから、江戸の地図各個の性格を明らかにし(表1)利用上の意味も明確にできた。さらには『復元江戸情報地図』(吉原健一郎、中川惠司と共著、1996、朝日新聞社)で格段に利用精度を増すことができたから、愚直に坂道の出現を地図上に見れば、都市の情報として有用となる経過が判明するのではないかと考えたのが、大きな当たりとなったと思う。

 中世以前は『江戸図の歴史』ですべて擬古図と証明していたから、古文書古記録では『小田原衆所領役帳』以下『更科日記』『吾妻鏡』『江戸氏文書集』『新編武州古文書』他をチェックした。「竹芝のさか」と「柏木坂合戦」を発見したが、いずれも江戸の坂とするには不十分と思われた。また近世以後の資料にも、妻恋坂(千代田区湯島)、逢坂(新宿区市ヶ谷)、綱坂(港区三田)、聖坂(港区三田)、勢揃坂(渋谷区神宮前)、道玄坂(渋谷区道玄坂)、姫下坂(港区青山)など、古代中世の伝承を残す坂もあるが逐一検討をすると、その根拠はあやしい。中世以前、江戸と江戸回りに、坂名は絶無か、少なくともきわめて乏しいと推定できたから、近世の地図類に取りかかった。



どれが一番、古い坂の名か

坂の記載は、現存最古の江戸図とされる『別本慶長江戸図』(推定1602、「慶長七年江戸図」とも)からで、「登り坂四つヤ道」の文字がある(図1)。坂表記の初見だ。『増補大日本地名辞書』(吉田東伍、1970)が、現在の「中坂」(別名飯田坂・千代田区九段北1丁目12・13番間)とし、田安門から小日向練馬川越を経て当時は「上州道」に通じたものと言う。

 『続江戸の坂東京の坂』(横関英一、1975)は、これを中坂の南隣の現九段坂と考える。地図の変遷や両者の体験などを考慮すれば、やや中坂説有利と判定できそうだ。この「登り坂」を固有名詞だというが、ある坂を登りか下りか決め付けるのも疑問だし、固有名詞とするのも難があるだろう。「坂」は文句なく初出だが、坂「名」の初出とするのはその後の坂名出現状況からえても、やはり少々無理ではないか。

 次の「慶長江戸絵図」(1609)は曲輪内大手町丸ノ内付近の図だから当然坂はない。さらに寛永図(「武州豊島郡江戸庄図」1633)でもまだ坂名はないが、はじめて幕末まで踏襲される横線階段状の坂印が、現在の千代田区永田町1丁目8番(当時井伊掃部頭邸)先、現国会議事堂正面に描かれる(図2.都立中央図書館本など伝本によってはないものもある)。

 ついで、「正保図」(1644〜48ごろ)は画期的に広範囲になったが、坂にはまったく関心を示さない。次の「武州古改江戸之図」(承応2年1653〉)で、溜池西の台上に一挙に坂印が6カ所も現れる。が、これもまだ坂名はない。

 坂名は、振袖火事直前と見られる明暦図(「新添江戸之図」1656)で初めて現れた。「なか坂」(図3。はじめ長坂のち永坂、現港区六本木5丁目・麻布永坂町間)だ。これがのち寛政初年(1789〜)以降、蕎麦の名店の代名詞になる坂だ(永坂の蕎麦はよけれど高稲荷森を眺めて二度とコンコン・蜀山人、蕎麦や出て永坂上がる寒さかな・子規、春麻布永坂布屋太兵衛かな・万太郎。今も東側に蕎麦とつゆの工場がある)。

 そして坂マークはこの図で、先の寛永図で見た場所と、さらに同地北東桜田濠側に加わる(写本によってはこの側にはない)が、以後そのどちら側も消えて坂名もつかない。だから幕初半世紀に地図記載の固有名詞の坂は、永坂ただ一カ所である。地図に載ることと実際に坂名が使われる状況とは直接には無関係にしても、地名の社会的機能を認めるには地図上の表記で見るほうが、むしろ適切といえるかもしれない。

 資料が地図だけでは不足か、と他の資料も調べた。『慶長見聞記』(1604)にまったくないが、明暦図以前に『色音論』(別名『吾妻めぐり』1643)の全記載地名約80中ただひとつだけ車坂(図4)があった。江戸坂名の初出はこの車坂で、地図の永坂に先立つこと13年、この坂は、その約250年後に上野駅の西側で、東西方向から南北に向きを変える。これを同じ坂というのは無理かもしれないがやはり車坂と呼んでいる。東叡山創建(1624)とともに車で登れる坂という意味で呼ばれたらしい。

 明暦大火後の「明暦大絵図」(1657?)は、寛永図系の末とも測量図の嚆矢とも見え、移行的性格の江戸図史上初の巨大図だが、行人坂(目黒区下目黒)がただ一ヵ所現れる。これは例外的に遥か郊外だ。おそらく目黒不動(縁起に天安2年〈858〉堂宇造営)参詣路に市街展開があって、ずっと後世だけれども「文政朱引図」(1818)で、江戸の町奉行支配境界墨線が目黒へ突出していることと無関係ではなく、その兆候がすでに近世初期にあることを思わせる。しかし近世全体を通じ、江戸(御府内)の地図の範囲としても特殊な例としなくてはならない。この図にはさらに坂印がほぼ70ヵ所、相当に大幅に記載数を更新した。ただこの図は公刊されていないから、地図制作者の認識としての坂道坂名だと考えるべきかもしれない。



江戸図の測量的完成で坂の名は・・・

 ついで江戸の基礎図「明暦実測図」が完成した。これには坂名がないが、これから刊行されたいわゆる「寛文五枚図」(1661~73)は「江戸図の祖」と呼ばれて江戸の基本図となる。この図には大きい歴史的意味があるが、図中の坂名は車坂(台東区上野公園)、長坂(港区六本木)、屏風坂(台東区上野公園)、南部坂(港区赤坂)、菊坂(文京区本郷)、聖坂(港区三田)、の6ヵ所で既出の坂を落とさず新規を加えている。これらが当時流通の全坂名と断言はできないにせよ、制作態度からして江戸初期坂名のかなりを表記する努力をしたと考えていいと思う。参勤交代制確立後、明暦の大火を経て市街を再編成した江戸に、寺請制度による新規参入寺院の増加もほぼ終息し、未曾有の市街安定期にはいる。無記名の坂印も一躍、157ヵ所になった。

 これに次ぐ地誌に『江戸名所記』(1662)がある。これはただ「坂」の文字が一ヵ所のみ、のちの富士見坂で赤坂見附の内側で元赤坂町があったところだ。赤坂は起源に諸説あるが、元来ここを赤坂と言ったのではないかという新な見解が生じる。

 いずれにせよ「寛文五枚図」以前、地誌類に記す坂名は車坂のみ。永坂と並ぶこれを江戸坂名の双璧としていいと思う。そして行人坂と未確認の赤坂とは、番付欄外の年寄約とも言うべき位置にある。

 以後、地図と地誌とは『江戸雀』(1677)8坂、「増補江戸大絵図」(1678)7坂、「江戸方角安見図」(「寛政五枚図」)の冊子版、1680)15坂と、交互にその坂名の記入増加を続けて、稿本地誌『紫の一本』(1683)で、初の坂名解説付き列挙の30坂を掲上する。最初の坂名集で、坂に限らず他項目も多く本格的地誌の記念塔的存在となった。以後、坂名研究はすべて1980年代まで300年間この形式を踏襲したと言っていい。



坂道の「夕立現象」をどう解釈するか

 以上のような経過を理解するには、これを表化する以上に適切な方法がない。ほぼ、17世紀末までの坂別史料記載をみた(表?)。そして、以上の興味深い事実を時間経過とともに定量的に理解するために累積してグラフ化した(表?)。初めチョロチョロ、中パッパの出現態様が判明する。こうして坂名は驟雨の降り始めのように散発的に出はじめ、ある時期に急激に増加して「夕立現象」ともいうべき有様が明瞭になった。

 資料を示す紙面の余裕はないが、このあたりまでくると江戸初期の町名の増加に対して、坂名はタイムラグをもって生ずるように見える。この時間的遅れは、中世の自給自足だった集落の生活が、大都市に組み込まれて売り込み搬入などで他地域への通行連絡が多くなり、江戸全体に新規参入人口(社会増)も増えて、道案内に坂が恰好のランドマーク(集落の間にある坂は語源的にも境とされる)として名称が付けられるようになる結果で、集落から展開した町屋に遅れて坂名が生ずるというわけである。

 ただ坂名が町名となる例がある。では坂名が町名に雁行するという仮説は成り立たないのか、富坂町、佐内坂町など坂の町名を『文政町方書上』でチェックすると、やはり坂名は本来町より遅く生じている特殊なケースと判明した。

 判明してみれば自明のことだが、坂名も、商品同様に需要があって生産されるという事実が分かる。考案命名者は不明で値段もないが有用不可欠な都市インフラなのだ。それは、面積で10パーセントそこそこと言われる町屋の公式町名の設定の不足、つまりは大都市の行政欠陥を住民サイドの便宜と創意によって補完しようとした江戸庶民のやむを得ない知恵であった、ということができよう。落語『黄金餅』の道順言い立てに坂が5ヵ所も出てくるが、(図5)、坂を指摘しないで江戸山の手の町を説明することは不可能だったのである。

 「寛文五枚図」の後、あたかも寺院増加の終息と共に地図は坂名記入の情熱を失った。「寛文五枚図」を変形した冊子型「江戸方角安見図」は、坂名を倍増以上の15坂とするが、以後「図鑑綱目」(1689)から、むしろ退行して10坂前後の記載に止めることになる。坂名の表記を地図はこの程度でよいという黙契があったかのようだ。地誌でなお『鹿子』(1690)41,『砂子』(1732)99,『惣鹿子』(1751)146,『万世江戸町鑑』(1752)131,『御府内備考』(1829)191坂名と増えて行くのに対し、地図は幕末切絵図まで変化が見られない。すでに「寛文五枚図」をもってその精度と詳密度を完成し、必須記載事項を網羅した、と自覚したのか。江戸大絵図の定番、2畳大前後の地図類では、この程度までが必要十分の詳細度とされたのではないか。

 地図形式の中興的革新、明和以降(1764〜)90年間の超ロングセラー折本『新編江戸安見図』では33坂名までだったが、幕末に発明された江戸図史上最大の革新で究極の切絵図では坂名も記載を一新した。近吾堂板で230坂名(影印索引による)、尾張屋板でも114〜146坂名(影印索引によって異なる)を掲載する。

 人間の感覚情緒を忠実に反映した、いわば脳内型の地図と言っていい切絵図で、坂表現も爆発的に殖える のはなぜか。坂名は地誌類の記述をみても増えていたことが分かるが、紙面の余裕を得て掲載が可能になったものに違いない。切絵図はわずかに25年間の刊行で その10倍の期間の他の全江戸図点数を上回る点数が刊行された。その活況が記載事項の詳密化を可能にした、ということもできるだろう。偶然ながらブレイクスルー的な創意工夫がいかに需要を喚起し、新規消費を増大させるか絶好の見本である。

 なお、その後の資料による推計では、近世江戸の坂名は135〜257という計数もあるが、(『官版地名字引東京之部』『江戸地名字集覧』『江戸町づくし稿』など)おそらく、坂名を一々チェックしたと思われる304ヵ所(横関英一『江戸の坂東京の坂1969』というのがほぼ当たっているだろう。



江戸図ののちも坂名は増えたが、今後は・・・

 明治維新後も坂道の名は増え続ける。江戸図の範囲で推計では実質名のある坂数は600以上(重複坂名約1100か)、つまり近世のほぼ倍まで数えられるかと思う。坂への関心の徴候としては太平洋戦争前には文芸上のコミット(夏目漱石の『三四郎』団子坂、森鴎外の『雁』無縁坂、永井荷風の『日和下駄』「坂」その他)が著しく、これには都市の近代化、すなわち舗装、交通機関、近隣社会の変質、眺望喪失などが影響しているようだ。そして戦後は、ブロック町名採用の住居表示を契機として、多くの公私の地誌的調査研究書が刊行された。これはリタイア長期化回帰の風潮とともに生涯居住期間の変動、地域知識の感染教育機会の減少なども関連していることだろう。

 こうした見方を今後に当て嵌めるとすれば坂名はどうなるだろうか。必要あって生じたものは無用になれば消滅する。それは今後の都市のインフラの在り方しだいと思われる。現代の地図は、公共機関が図を提供したこともあって、かなり坂名を掲載するようになった。しかし路傍の標識の実利性はしだいに薄れるように思われる。眺望舗装止、住期間短縮とともに交通機関利用の変化に主導権はかかってくるようだ。もしこのまま推移すれば、江戸坂名の実効は発祥4~500年にして消滅し、あとは史記記念物として残るだけになりかねない。

 古地図といえばこのような時間軸上の記載事項の研究には手をつけられたことがなく、これもまだ仮説の域にあるが、これまでは記載再述、印象批評に止まることが多かった。『東京都港区近代沿革図集』(1970)で江戸図復元のノウハウを初めて開発し、古地図をツールとして使う道を開いて以来の研究は画期的な結果を生んだと思う。これは戦後の河出書房、吉川弘文館、平凡社の各日本史の事典の江戸図の項目を比較すればただちに理解できるが、公的機関の事業を含め、旧時代の古物骨董趣味さながらの資料秘匿や的外れの批評、剽窃無断模倣の類が横行して、玩物喪志の傾向から脱しきれていない。趣味は趣味としても、今後の新たな社会科学的検討の道を開かなければならないし、その点、古地図には広大な分野が残されている。ただ将来への大きな期待が国絵図や寛永図の研究(川村博忠氏諸著作、近松鴻二氏の「武州豊嶋郡江戸庄図の基礎研究」)に見られることはとくに付記しておかねばならないが、むしろほとんどは、今後の課題となっていると言っていいだろう。



(たわら・もとあき 東京地縁社会史・港区文化財保護審議会委員)

 


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