羽田を発って今日函館空港に到着する会員を待って、午後1時30分JR函館駅で待ち合わせ。案内人は函館育ちのAさん。
全員そろったところで“棒二森屋前”から乗合バスで高龍寺前まで移動。バスを降りるとそこは魚見坂の坂上だ。長く急な坂を歩かなくても坂上まで軽々と移動。さすが土地っ子の案内だね。
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ティーショップ夕日(旧函館検疫所)
夕日が美しい場所だって。
誰と夕日を見にくるかで盛り上がる。
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外国人墓地(写真はロシア人墓地)
墓地から海が見える。
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いよいよ函館の坂巡検のはじまり。どの坂も函館山の山塊から海に向かって下っている。坂の上からは海が開けて見え、このことが函館の坂を特徴付けている。多くの坂は急坂だが、どの坂も道幅は広い。このことはあとで知ったことだが、函館の街がたびたび火事の被害に悩まされたことと関係しているようだ。
坂標
おもな坂19ヶ所に建てられた坂標には、
坂の名前と坂名の由来が書かれている。
坂歩きの強い味方だ。
坂1 地獄坂(じごくざか)
入手した函館の地図にこの坂は記載されていなかった。坂標もみあたらない。地元の人だけが利用している坂のようだ。
船見町の外国人墓地(シャルトル聖パウロ修道女会墓地)の前から山背泊浜(やませどまりはま)へ下る急坂で、人が通れるだけの道幅しかない。坂下まで下ったTさんは、港でカモメに餌を投げる漁師に出会ったという。
【坂名の由来】
上るのも下るのも難儀な坂なので地獄坂と呼ばれた。
坂2 テンコの坂(てんこのさか)
寺町通をはさんで高龍寺の反対側にある成田山真言寺の西脇を北方向へ下る段坂。
坂標はない。
【坂名の由来】
坂の途中に山背稲荷神社が祀られているが江戸末期には天光稲荷と言った。天光を“テンコ”と呼んだところからテンコの坂
と言った。
坂3 魚見坂(うおみざか)
寺町通を坂上の高龍寺前から市電「函館どつく前駅」へ下る長い坂。「函館ドック前駅」ではなく、なぜか「どつく」と書くようです。
【坂名の由来】
坂の上から湾岸に押し寄せてくる魚群の発見に便利なところだったのでこの名が付いた。
別名の「台町の坂」は、坂の上の方が昭和40年まで台町という町名だったところからそう呼ばれた。(坂標より)
坂4 船見坂(ふなみざか)
坂の途中に「大正湯」という名の銭湯を見つけた。ピンクの外装が印象的な建物。
【坂名の由来】
港に出入りする船舶がよく見えることから、明治6年(1873年)坂上を船見町と名付けたことに由来。称名寺の下の坂なので「称名寺坂」とも呼ばれた。 (坂標より)
坂5 千歳坂(ちとせざか)
西中学の脇をのぼり続けると坂は東本願寺函館別院で行止まる。東本願寺前を元町公園前までひたすら坂上を横に移動する。
遠くに海を眺めながらのウォーキングで疲れ知らず。快調に歩く。
【坂名の由来】
明治12年(1879)の大火の後にできた 坂。昔、坂の東側に神社がありここに松の木があったので、千歳の松に因んでこの名が付いた。「松蔭坂」とも呼んだ。それ以前は、東側に短い坂があって「神楽坂」と呼んでいた。これは神社の神楽殿に由来したものであった。 (坂標より)
坂6 幸坂(さいわいざか)
幸坂通り(幸坂)にでたところで希望者数人で旧ロシア領事館まで上る。坂はさらに山上大神宮まで続いている。(まさしく山の上にある神社)だが、きつく長い坂なので坂上まで行くのを断念。
【坂名の由来】
明治8年、坂下の海岸が埋め立てられ、幸町(現弁天町)が
できたことに因む坂名。昔、坂の中ほどに神社があり神明社といったので「神明坂」と呼ばれた。神明社は明治7年(1874)山上(やまのうえ)大神宮と現在名に改め、のち坂の最上部に移転した。(坂標より)
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幸坂の坂上に建つ旧ロシア領事館。
このあたりはかなりの急坂
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姿見坂と見返り坂(常盤坂の別名)は、このあたりにあった江戸時代の遊郭に由来する坂名。遊郭は享和3年(1802)から明治4年(1871)大火で焼失するまでこの地にあり函館新郭あるいは地名から山ノ上遊郭と呼ばれた。改心坂という名の坂もあったが今はない。
坂7 姿見坂(すがたみざか)
【坂名の由来】
坂の上にあった遊郭に因む名で、遊女達 のあで姿が見られたことからこの名がついた。 (坂標より)
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地蔵寺(船見町)に建つ有無両縁
塔は遊女の供養塔だった。元治元年
(1864)遊女屋25軒が施主と
なって建立したもの。
いっけん華やかな坂名の影には女た
ちの涙が隠されていたようです。
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坂8 常盤坂(ときわざか)
【坂名の由来】
江戸時代後期、坂上に大石忠次郎の屋敷があり、奥州の「義経腰掛けの松」と称された名木の種を植えたという大きな松があったので、常盤の松に因みこの名が付いた。また 昔、坂の中ほど一帯に遊郭があって、遊女と別れを惜しんだ客が坂を見返るということから「見返り坂」といわれ、 上に芝居小屋があったことから「芝居町の坂」ともいわれた。 (坂標より)
坂9 弥生坂(やよいざか)
大きな消火栓が坂の緑地帯にすえられていた。街のあちこちで見かけた消火栓は火事の被害に悩まされた函館の町の象徴のようだ。坂の途中に石川啄木が代用教員として勤務した弥生小学校の旧校舎があったが、解体工事中だった。
【坂名の由来】
明治12年(1879)の大火後改良された坂。「弥生」とは、「春」を意味し、発展を祈念して付けられたといわれている。それまでは浄玄寺(現東本願寺別院)、称名寺、実行寺が並び、「寺町の坂」といわれた。 (坂標より)
坂10 東坂(あずまざか)
【坂名の由来】
明治12年(1879年)の大火までは
弥生小学校の東半分に浄玄寺(現東本願寺
別院)があり、その下に坂が二本あった。
西側の坂を「浄玄寺坂」。東側の坂を「東
の坂」または「白鳥坂」ともいった。大火
後、坂は一本になり上まで通された。いま
の「東坂」はその名残である。(坂標より)
元町は、函館観光のハイライトとも言うべき場所。旧函館区公会堂、
旧イギリス領事館、相馬邸、ハリストス正教会、カトリック元町教会と
見所満載である。基坂、八幡坂、チャチャ登り、大三坂と美しい坂が続く。
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旧函館区公会堂
| ハリストス正教会
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坂11 基坂(もといざか)
石畳が敷かれている。坂上には大きなバルコニーのある旧函館区公会堂が建ち、その後ろに函館山が見える。振り返れば港が望める景勝の坂だ。
【坂名の由来】
かっては、函館から札幌へ向かう函館本
道の起点で、坂下に里数を計る元標が建て
られていたので「基坂」といった。坂の上
は函館奉行所があった中心地で、江戸時代
には「お役所坂」、「御殿坂」とも呼ばれた。
(坂標より)
坂12 日和坂(ひよりざか)
写真左側の塀が旧相馬邸。(函館の豪商、相馬哲平の私邸であったもので函館市から伝統的建造物に指定されている。)
日和坂は、他の坂より少し道幅が狭い。海はこの位置からもよく見える。坂はさらに上部まで続いている。
【坂名の由来】
坂の上から港の景色を一望でき、空模様 をよく判断できるということからこの名が付いた。また、坂の上にある船魂神社辺りからはトビの飛ぶ姿がよく見えたことから、坂の上の方を「トビ坂」と呼んだ。 (坂標より)
坂13 八幡坂(はちまんざか)
坂上は函館西高校まで達しており、ここからの眺めがすばらしい。アカシア並木の先に港が見え、坂下をときおり路面電車が
横切っていくのが見える。
【坂名の由来】
基坂上の函館奉行所付近にあった八幡宮が、文化元年(1804)奉行所の拡張工事に伴い、この坂の上に移されたことからこの名が付いた。八幡宮は明治11年(1878)の火災によって焼失した。 (坂標より)
坂14 大三坂(だいさんざか)
教会、石畳、ガス灯・・・とロマンティックな坂。「日本の道百選」に選ばれた坂だという。
【坂名の由来】
昔、坂の入口に“大三”という家印の郷宿があったのでこの名が付いた。それ以前は、木下という人の家があったので「木下の坂」といった。 (坂標より)
坂15 チャチャ登り(ちゃちゃのぼり)
ハリストス正教会と聖ヨハネ教会の間の坂。大三坂の坂上をさらに南西方向へ上がる坂だが、下から見上げただけで今回は上らなかった。
【坂名の由来】
チャチャとはアイヌ語でおじいさんのことで、この坂が急なため前かがみに腰を曲げて登る姿が老人に似ていたことから「チャチャ登り」と呼ばれた。幕末頃ついた坂名。(坂標より)
(名前のない坂)
聖ヨハネ教会の前の道を二十間坂に向 う途中で藤の花の咲いた坂道に出た。坂下に東本願寺函館別院の大屋根が見える。“藤坂”とでも呼びたい美しい坂だった。
坂16 二十間坂(にじゅっけんざか)
東本願寺函館別院の裏を抜けると広い道に出た。道の脇に二十間坂と刻んだ石標がたっていた。
それにしても広い道だ。
【坂名の由来】
明治12年(1879)の大火後、防火帯としてできた坂で、路幅が二十間(約36m)あるので「二十間坂」と呼ばれた。かって、坂上に大工や工人が多く住んでいたことから「大工町坂」とも呼ばれた。 (坂標より)
本日の坂巡検はここまで・・・。
まもなく坂学会が酒学会に変身する時間がおとずれる。(上戸には上戸の喜びが、下戸には下戸の楽しみが・・・)
いったんホテルへ戻って汗を流した後で、18時より懇親会。会場は海鮮居酒屋「海のがき大将」。函館の坂にかんぱ〜い