坂学会/坂歩き雑感・荒川区

 坂歩き雑感           小谷 武彦

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2006年11月20日


荒川区日暮里周辺の坂歩き雑感


 荒川区は都内23区の18番目の大きさで人口約18万の中小都市です。区内の大部分は殆ど起伏がなく平坦です。武蔵野台地の東の端が東京山の手台地ですが、この山の手台地もいくつかの谷によっていくつかの丘に分かれていてその端の丘が上野台で、この上野台の北東部はほぼ一直線に台地が削り落とされて東部低地となったというのが荒川区に地勢であります。そして、この南西部は諏訪台、道灌山と呼ばれる高台となっていて、このあたりのJR西日暮里駅周辺に我々の関心の高い名のついた「坂道」が9ヶ所あります。

この日暮里という地名はこの坂歩き同道のTさんによれば室町時代の古文書記録に「につほり」「新堀」(あたらしく掘りを設けて開墾した耕地)とあるところから来ているとの事ですが、江戸時代には高台だった地形もあり、庶民の花見・富士見・行楽の地として名をはせ、「その日暮が楽しめる里」という意味が込められていると聞き風流な話と思いました。この江戸庶民の情緒豊かな遊びの里の荒川区内の歴史を持つ「坂道」を個々に紹介します。

 先ず、JR西日暮里駅のガードを潜って右側の開成学園の脇を上がると「ひぐらし坂」です。この坂のある台地は道灌山と呼ばれる高台で、昔は見晴らしの良い景勝地として知られましたが今は眺望を望めません。開成学園の校地が左手、住宅地が右手の坂ですが開成学園の木立のせいか寂しさを感じますが、この坂のネーミングが「虫聴の坂」で、それに江戸時代の文化を感じます。そしてこの開成学園の高校と中学がある間の坂が「向陵稲荷坂」ですが、坂途中の大きな桜の木が目を引きます。春の花の頃には訪ねたいところです。

 この坂を下ってJR西日暮里駅方面に戻り、この駅を左に見ながらJR線に沿いながら上る坂が「間の坂」です。この坂の西手の石垣が歴史的重みを感じさせて印象的です。かなりの勾配で自転車も降りて上る事になります。距離は短く、それを直角に右折すると「地蔵坂」が続きます。標識にはこの坂を上ったところにある「諏訪神社」の別当寺「浄光寺」に江戸六地蔵が建立された事からそう名付けられたとあります。広重の名所江戸百景「日暮里諏訪の台」にはこの坂を上っている人が描かれています。さぞかし庶民は眺望の期待を持って上ったと思います。聞くところによれば、かの文豪漱石も時にはこの高台に上り、崖下の景観を眺めながら癇癪性の神経を癒したり、そこからのかわらけ投げで楽しみながら、小説の構想を練ったのでしょうか。今はJRの線路が10数本も走り、様々な形をした電車がスピード競争するように走っている様が見え、鉄道マニアには堪らなく楽しいところであるかもしれません。又ここからの朝焼けも美しいと聞きます。

この諏訪神社、浄光寺から西に下がる坂が「富士見坂」であります。ここは、今日、東京の坂から冨士山が見える唯一の坂として有名になりましたが、そこで大きな「冨士見坂」の表示看板が目に付きます。当日は特に「ダイヤモンド冨士」の観覧の為を見越してか交通規制の張り紙が掲示されていました。日没前はさぞかしマニアで賑わった事と思います。次回はこの「ダイヤモンド冨士」をここから是非見たいものです。

この諏訪通りを抜けきると、その大通りがJR日暮里駅から上ってくる「御殿坂」となり、ここが隣の台東区との境界となります。自動車が通る大きな坂で約50メートル続きます。上りの途中の右側に蕎麦の「川むら」、食堂の「花家」、佃煮の「中野家」と食道楽には目の離せない店が並び、そして墓地の大きな本行寺、経王寺と続きます。本行寺は今ある線路の向こう側に水田が広がりその水に映る月を多くの人が見に来たと伝えられ、別名月見寺と呼ばれて観月の寺として風流人に愛されたようで、また小林一茶、種田山頭火の句碑が境内にあります。また、経王寺は上野戦争時に彰義隊が逃げ込んだ寺で、このケヤキの山門の門扉にはいくつかの弾丸痕がそのままに残され歴史を感じさせます。

この坂を上って台東区町名寺の墓地裏を経て宗林寺の前へ下る坂道が「七面坂」です。この坂道を右折すると有名な「夕焼けだんだん」に出会いますが、この坂下の木板にそう書かれています。西(夕日)に向かって下る階段で誰が名付けたかは知りませんが正しくユニークな名で興味をそそられます。この階段の下から谷中銀座が始まり「谷・根・千」散歩道のスタートとなります。

いよいよ最後が「芋坂」です。JRの線路を挟んで台東区と荒川区に跨っている坂ですが、坂を登れば谷中墓地、下ると「羽二重団子」の店の横から善性寺に通じます。明治15年にJR東北線が通じてカットされた坂ですが、谷中側は緩やかな傾斜です。一方荒川区側からの坂はその形状は失われおよそ坂という感覚はありません。

しかし、坂名の伝承には子規の「芋坂も団子も月のゆかりかな」という名句があり、漱石の「我が輩は猫である」にもこの芋坂は登場しておりゆかりがあることが想像されます。この団子の店の角の石標に「右王子街道 左手芋坂」とある事などからしても上野から王子に至る尾根道と繋がっていて歴史的意味を持った坂であったと思われます。

かくして荒川区の坂を歩いて踏破したわけですが、日暮里周辺が昔の行楽地として庶民の間で親しまれた雰囲気は今日でも坂道の中に残っているのが嬉しく思います。諏訪の高台を目指す「間の坂」の石垣も趣きがあるし、「地蔵坂」を上って高台からの眺望は昔を髣髴させます。その名の通り富士山を眺望できる「富士見坂」周辺は花見寺もあり、今も江戸情緒がのこっています。そして、谷中に通じる「芋坂」、「夕焼けだんだん」にも江戸から昭和にかけての文化を残すお寺、古い民家が残っていて素敵な雰囲気でした。

以上

広陵稲荷坂
御殿坂

(小谷 武彦記)
(写真 by M.Ogawa)

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