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2008年12月6日
大田区の坂雑感
大田区は東京湾の埋め立てで区域を拡大し、都内で最も大きな区ですが、臨海部の埋立地、南東地の低地、北西部の台地に分かれています。そして、武蔵野台地の東の端にあたります。したがい、区の面積のほぼ半分が、久が原台、荏原台と呼ばれる台地で占められています。この台地部を大小さまざまな坂道が小さく走っていますが、その中で名前のある坂は約50あると聞いています。今回はこれらのうち、我々が歩いた歴史的に由緒ある坂道を紹介したいと思います。
そこで、大田区の坂を大きく分けて、
(1)大田区で多数の人に知られる「馬込文士村」のメインストーリーでありました「臼田坂」を中心にした坂周辺:
(2)関東の巨刹の日蓮宗池上本門寺で界隈をめぐる坂の数々:
(3)高級住宅地のイメージが強い田園都市の周辺の坂の文化的価値:
に分けて書き綴って行きたいと思います。
1. 臼田坂を中心にして
臼田坂の坂名については、坂あたりに臼田姓の家が多かったので、この名が起こったといわれていまが、大田区中央1、4丁目の境を区役所前通りから北西に上る長く広い坂です。このあたりは「馬込文士村」と呼ばれるほど、この坂周辺には大正末期から、尾崎士郎・宇野千代夫婦、荻原朔太郎、石坂洋次郎、川端龍子等の錚々たる文士が住んでいました。その中の一人のノーベル賞作家の川端康成は尾崎士郎に誘われてこの坂の中ほどに住んでいましたが、原稿執筆のため深夜まで燈が灯っていて、臼田坂を往来する人から重宝されたらしいとの話です。
この坂はかっては赤土の急坂だったとの事ですから、雨の日などは荷物を運ぶのに難儀した事と思われます。荻原朔太郎の散文詩にこの坂が魅力的に描写されていますので、それを紹介します。「坂のある風景はふしぎにロマン的で、ノスタルジアの感じを与えるものだ。坂を見ていると、その風景の向こうに、別のはるかな地平があるように思われる・・・」。この詩は本当に我々の気持ちをズバリと表現してくれていて嬉しいです。
さて、文士村を目指して我々は先ず、都営地下鉄浅草線西馬込駅から馬込坂を上りました。小高い丘や水田が広がり、上方を東海道新幹線が横切っています。この馬込坂下交差点よりもうひとつ北側の信号を東に入った南坂を経て、「大田区郷土博物館」で文士村の文士の住処を確認しました。そして、坂の古い写真に目を凝らしました。ここを出て、南馬込4丁目4番と12番の間の鐙坂を下ると、現代かな書道の第一人者「熊谷恒子記念館」があります。この坂を上って、南馬込4丁目を西に行くと臼田坂に出ました。この坂の東側には「磨墨塚(するすみづか)」があり、それはかの佐々木高綱との宇治川の合戦の先陣争いの時の源頼朝の重臣の梶原景季の愛馬磨墨(するすみ)にまつまる伝説に因むものです。すこし古の故事を懐かしんだ後、臼田坂上の三叉路を東南東へ下って行くと坂が現れますがそれが右近坂です。この坂の由来は諸説があるようですが、このお屋敷の竹林を借景にしての坂下を眺めれば最高の景色です。この右近坂を経て左折して、南馬込文化センターを経て環七通りを横断して、弁天池前を右折すると厳島神社に出ます。この弁天池裏には文学青年から「パパ」の呼び名で人気のあった文士の室伏高信が住んでいました。彼は尾崎士郎・宇野千代の仲を取り持った役で有名です。
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臼田坂
| 右近坂
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ここから歩いて約5分、山王4丁目から3丁目を経て大森駅に向かって行くと、右側に山王公園がありますが、そこを右折すると闇坂(くらやみざか)です。坂上の高台には陣屋、木原屋敷があり、高台は木原山と呼ばれていて、将軍のウサギ狩りの場だったとの事ですが、今も樹木の茂った住宅に囲まれ、その名に背かない風情のある坂です。石垣の蔦の緑も美しく、大田区内で1、2を争う景観の坂という事ではないかと我々は肯き合いました。
この坂を下ると、車の往来の激しい通りに出ます。ここが大森駅前の池上通りの「八景坂」です。今は穏やかな坂ですが、昔は急坂で海が眺められ、名の通り景勝の地であったと思われますが、今はほんとうに駅前の賑やかな町通りの坂道で、凡そ、その風情はなく一気に現実の世界に戻された感じでしたが、起伏に富んだ地形が馬込の文化を作ったのだろうという感じに浸りました。
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闇坂
| 八景坂
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2.池上の「本門寺」を中心にして
東急電鉄池上線の池上駅を下車、北口改札から本門寺新参道を抜け、法華経に由来する日蓮宗大本山の本門寺周辺の坂道を目指しました。池上本門寺周辺は険しい斜面に囲まれた小高い丘の上にあり、西から南へと周りを囲むようになっていて、その下にはかっては牛をも呑み込むほどの急流だったといわれる呑川が流れています。
正面の本門寺の石段の此経難事坂を眺めながら、その総門前を右折し朗子会館脇の朗子坂を上りました。この坂は屈折して上る石段坂ですが、坂下に「朗子坂」と刻した小さな石柱があります。この坂名の朗子とは日朗上人のことであります。ついで、照栄院脇からの細い石段坂が妙見坂です。急傾斜の坂で段の中央に欄干がありました。坂上に妙見菩薩が祀ってあり、坂名はこれに因んだものだそうです。この坂の中ほどから富士山が眺められると嬉しいのですが、当日は曇りでそれがかないませんでした。この坂を上ったところから右折して右手にある心浄院の先からがめぐみ坂の下りとなりますが、今回はこの途中まで下り、眼下に素敵な建築物の大森めぐみ教会を眺め感激しました。
関東で一番高いといわれる重要文化財の五重塔を見ながら、本門寺山内の祖師堂の裏を西に上る坂が紅葉坂です。名の通り、両側には紅葉の木が多く、是非とも秋にも訪ねたいところです。そして、この坂は勾配が殆どないといってよいのですが、坂の途中に、本門寺大堂と客殿とを結ぶ渡り廊下が頭上を渡っているという面白い坂です。この坂下でクロスする美しい道を北に進むと、西側に「松濤園」という庭園があります。西郷隆盛と勝海舟がここの東屋で江戸城の明け渡しに関する会見をしたと伝えられる記念碑があります。
今度は境内の大堂横を直進して先ほどの表参道の正面の此経難事坂(しきょうなんじさか)上に来ました。この石段は96段ですが、慶長時代にかの武将加藤清正が寄進したと伝えられています。一段ごとの高さは18センチで、極端な傾斜はありませんが、段の中央に鉄鎖を通していて踊り場も3ヶ所ありました。従い、直ぐ脇にはゆるやかな女坂が作られていましたのも肯けます。
この坂を下りて、右折すると車坂が現われます。名の通り、荷車が往来した坂ですが、S字を描いた風情ある長い坂で遠近感がよく出ていて美しい坂です。そしてこの坂道は大樹に覆われていて昼なお暗く、深い山道を歩く風趣があって、本門寺周辺の坂では特に気に入った坂です。再度、上った事になった本門寺の境内の経堂裏を西に下る坂が大坊坂です。この坂は坂というよりも木立の緑がトンネルを作っている間の急な石段といったほうがよいと思われる坂です。坂下に大坊と呼ばれる本行寺があり、この坂の途中から富士山が眺められるとは今回のナビゲーター役のK氏の話でした。
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総門越しの此経難持坂
| 大坊坂
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3.田園調布周辺の坂
高級住宅地の代名詞の田園調布の町並みは、北西部、多摩川を背になだらかに起伏する多摩川台地に広がっています。従い、この周辺には急な坂が多数ありますが、名の付いた坂は少ないようです。しかし、この坂の中に経斜22度と16度とかの標識のある坂があり印象的でした。ところで、名の付いた坂は田園調布5丁目にある馬坂とこの坂に平行している急坂ぐらいと思われます。
そして、この馬坂も急坂も大正末期に行われた耕地整理で出来た坂といわれていますが、この馬坂は特に傾斜がきつくて、坂道が小刻みに曲がっている坂ですが、大正頃まで馬で引く荷車で大地に上がれる唯一の坂であったようです。当時は竹藪の中の坂道であったと聞きますが、これをもってして如何にこの辺の国分寺崖線の勾配が厳しかったかが理解できました。
この坂を経て、東急多摩川駅あたりまで歩いてきますと、この西口から北へ約250メートル歩いたところに標識はありませんが、坂道の左側に聖フランシスコ修道院とカトリック教会があり、静かな趣のある坂道です。この坂道を行くとどりこの坂があります。珍しい名前の坂でありますが、標識によると、昭和の初期、このあたりに「どりこの」という名前の飲料水を開発した人が住んでいたので、そう名付けられたとの事でした。もっとも、昔は池山の坂といわれていたようですが、坂脇には桜並木が続いていて、桜の開花頃は奇麗だろうなと思いました。
この坂を上ると左に「せせらぎ公園」があり、この公園内に坂(いろは坂)(大山坂)(滝坂)などがあります。それを下って多摩川駅を越え、多摩川線の踏み切りをクロスしたあたりからが富士見坂です。多摩川台地の南西側斜面にあるこの坂は大正末期頃の耕地整理で作られた新しい坂との話です。左に緩くカーブして坂上は道路幅が広く歩きやすい感じでした。。
ところで、この坂の名前は冨士見坂でありますが、坂下にある浅間神社の丘や雑木林に遮られて、今はここから、もう富士山は見ることができません。坂の中ほどから急勾配で、12%との標識がありました。この坂道の道路脇の樹木が味わい深い感じで、特に紅葉時には素晴らしい眺めになるのではないかと思われるいい散歩道だと思いました。
富士見坂を上りきって右折し、中原街道を横切りしばらく進むと、さくら坂通りに出ます。ここから右に上る坂が今や若者のデイトスポットとなったさくら坂で、特に桜の季節は花見客で賑わうようです。この坂は、もとは険しい丘を切通した坂であったと聞いていますが、今では緩い傾斜道です。ご承知のように都内に何箇所か桜を冠した坂がありますが、ここは平成12年、歌手の福山雅治がこの坂の歌をヒットさせて以来、特に有名なったとの話であります。この標識の下に昭和5年5月5日に立てられた石碑が目に付きました。
この桜通りを東光院に向かって歩いていくとその手前の左に、優雅な上り坂のおいと坂(別名雄井戸)が現れます。大正時代にはまだ竹藪の中の小径だったそうです。今も小坂ですが、坂名の由来は大森区史のよると「北条頼時が行脚で中原に来た時、ここにあった井戸水を使って難治の病を治した。その井戸は沼部に1つ、中原に1つあったが、後に中原の井戸を沼部に移し、雌井雄井と称した。おいと坂とは即ちおいど坂(雄井戸)のことである。この2つの井戸はおいと坂を中心にして両側にあったのである。」としています。珍しい坂名と思いましたので、区史を紐解いて理解を深めた次第です。
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どりこの坂
| おいと坂
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以上が大田区の主な坂の紹介でありますが、この他、雪谷地域、千束地域、鵜の木・久が原地域にも由緒ある坂があります。特に我々は、夏の暑い盛りの7月に、東急池上線の石川台駅で下りて、雪谷地域他の坂を15ヶ所ほど比較的密集していた坂を次から次へと踏歩しました。その中には、蝉坂、猿坂などの微笑ましくなる名の坂があり、また、環七通りを跨いだ夫婦坂もありという事で好奇心を満喫出来る時間を持ちましたが、これらの坂の紹介はまたの機会としたいと思います。
(写真はいつもの通り、我が仲間の M.Ogawa さんの提供です)
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