2007年6月30日
新宿区の坂と坂周辺の史跡のご紹介
「坂学会」の「この指止まれ」の坂歩き好きのメンバーが6ヶ月間の月1回新宿区の坂を楽しく歩きました。個々の個性ある坂を感慨深く歩いた坂とその周辺の名所旧跡を紹介したいと思います。
序 坂道の多い理由と坂にまつわる文化の継承
新宿区は武蔵野台地の東端に位置して、区の南側を占める淀橋台と西側の豊島台とに細分されて
呼ばれていますが、区の北端に沿い東に流れる神田川と、落合付近を南北に分けて流れて、
やがて神田川に合流する妙生寺川を中心にして、樹枝状谷地が分布しています。
そして、淀橋台地、並んでいる四谷、牛込の3つの台地が狭い地域に押し合い圧し合いしていて
小じわがいっぱいできています。つまり中小の坂道が多い土地で、この小さな坂に個性ある
ユニークな名前がついています。その坂周辺の史跡を訪ねますと、昔からこの周辺に住民が住みつき、
郷土を愛し、ことのほかその生活と文化の伝統を大切に守ってきたことがわかりました。
そこで、新宿区を 落合辺り、市谷・新宿辺り、四谷辺り、神楽坂辺りの4つに地域に分け、
坂の紹介を行いつつ、主な訪ねた史跡を合わせて紹介します。
1.落合周辺
落合の地名は妙正寺川と神田川とが合流するところ所=落ち合うところから名前がつきました。
西武新宿線中井駅の北方は落合台地であります。この台地の坂は、山手通りの方から西の
「一の坂〜八の坂」まで番号順に並んでいます。この各坂には公式の標識はありません。
しかし、地元の中井町会が「坂名標」を工夫して設置しています。それらはシンプルそのもので、
なにも由来が書かれていませんが、地元町民の坂に対する思い入れが感じ取られて、
ホッとしたなごみを憶えます。
特に、四の坂左手の日本家屋に林芙美子が住んでいましたが、今は記念館として開放されています。
この庭園の入り口にあまり知られていない「男坂」と「女坂」がある種の趣をかもし出しています。
八の坂を上りきったところに「中井御霊神社」があり、ここは昔の落合中井の鎮守で、
その年の豊作と安産を願う神事が室町時代から行われていたと聞きます。
この坂の突き当たりに目白学園があり、この辺りを豊島台地と呼びますが、
学園内から奈良時代の遺跡が発見されたと聞きました。
ところで、一の坂から八の坂の位置関係は下の図のようになっています。
(地図 by M.Ogawa)
これらの坂から東に山手通りを越えた中落合1丁目、新目白通りを越えた中落合2丁目には勾配の
キツイ坂が並び、坂の上に昔第六天の祠が建っていたからそう名づけられた「六天坂」、
勾配が一番きついと思われますが、その名の通りその坂上から、見事な新宿の高層ビル群を正面の
眺望を望める「見晴坂」があります。ここからは、昔は富士山の雄大な姿を眺められたそうです。
この坂下の水田地帯は古来より「落合蛍」の名所だったらしいです。そして、昔の水田ののどかな
春霞を楽しむ事の出来た「霞坂」、さらに、その標識に書かれているように急坂だった
「久七坂」と急坂が続きますが楽しいアップダウンです。
この間の目白通りの「聖母坂」も由緒のある坂ですが、この坂近くに日本のブラマンクと言われ、
パリで弱冠31歳の若さで没した佐伯祐三の旧居跡(アトリエ)があり、見逃したくないところです。
そしてボタンの花で有名な「薬王院」と野鳥の森公園を越えると「七曲坂」が現れます。ついで、
「西坂」上にある徳川男爵別邸の庭園はボタンが開く時期には一般公開されます。
この野鳥の森公園脇の道路を北に上って行くと、才色兼備の麗人の歌人・才人「九条武子」の
終焉の地がありますが、彼女は大正時代の3大美女との誉れで有名です。
さらに東に進むと「相馬坂」があり、両側に鬱蒼とした「おとめ山」公園の森に出ますが、
ここは江戸時代の将軍の鷹狩場で一般の人の立ち入りを禁止した「御留山」でした。
この中腹の断崖から湧き水が出ていて、この湧き水を利用し蛍の人工飼育が行なわれ、
毎年7月には「蛍鑑賞の夕べが」開催されます。
最後に紹介したいのが落合地区で関東大震災後に堤康次郎氏が、今の地名で言えば
中落合2〜4丁目あたりに「目白文化村」を造成して脚光を浴びました。そこには大きな洒落た
西洋館が立ち並ぶ最先端の住宅街であったようで、多くの芸術家、文化人が住んでいました。
前述の林芙美子、女流作家の吉屋信子等が住み「下落合文士村」とも言われたと聞きます。
残念ながら先の戦災で殆どが崩壊しましたが、その中で、聖母坂の聖母病院と佐伯アトリエは
当時のまま残りました。かかる意味でこれらは見逃したくない建造物であると思います。
2.曙橋を中心にした市谷・新宿周辺
都営新宿線曙橋駅の出口を出たところの「曙橋」は靖国通りと外苑東通りが交差したところにあります。
この境界部分は谷状の地形をしていて、四谷と牛込とを隔てて居るところで、都心の中の
オアシスのような場所でありますが、しかも風情のある坂道が多く、この周辺散歩も楽しいところです。
先ず、市谷片町の前より本村町に沿う仲之町に向って西に上る坂が「合羽坂」です。
標識によるとこの坂の南東の大池に「かわうそ」が出るのを里人が河童と思いこの名がつけられた
らしいのですが、昔この辺りは湿地帯であったと思います。この市谷仲之町は尾張藩徳川上屋敷と
河田町との中間にあったので俗称でそう呼ばれました。外苑東通りに沿った「新五段坂」の東側の
市谷本村町は防衛省ですが、この上屋敷跡には陸軍士官学校と幼年学校がありました。
第2次戦争中には陸軍省があり、戦後はここにアメリカが進駐し、かの極東国際軍事裁判所を設置し、
東条英機達A級戦犯を裁いた戦後史の中心地であります。
また仲之町に戻ると、そこから住吉町に下る急な石段が「念仏坂」ですが、この坂の下り始めは
南に向かい、踊り場で西に曲がっているユニークな坂です。そして住吉町交差点にある安養寺に沿って
「安養寺坂」があります。昔は尾張藩邸内にありましたがここに移されました。ここから余丁町に
向っての坂道が「台町坂」ですが、この余丁町には明治時代「市谷監獄」がありました。
かの有名な歌人北原白秋がここに姦通罪で収監されたし、大逆時代の幸徳秋水ら約300人が
処刑されたと聞きます。今はこの周辺はきれいな住宅街となりました。
この台町坂から靖国通りに出て、西に向って少し歩いた左側に階段状になった坂が現れます。
それが「暗坂」で、東京に6つある「くらやみ」坂のひとつです。車が上がらない急な曲がった坂で
その片側の金長寺の墓地の樹木が鬱蒼と日の光をさえぎっていますが、今は暗闇というほどでも
ありません。
すこし駆け足で富久町周辺の坂を紹介しますが、まず、「茗荷坂」、「自証院坂」。
そして元海軍大臣を務めた安保清種男爵が住んでいた「安保坂」、別名の蜘蛛坂といわれる
「禿(かむろ)坂」を歩くと、昔は夕日を愛でる絶好の場所であった新宿6丁目の
「西向天」神社に到着します。この神社に東大久保富士塚があり、道灌に山吹の花と句を
添えて渡したといわれる少女「紅皿」の碑もあります。そこには石段の「山吹坂」が境内にあり、
風情を醸し出しています。
次いで大久保通りの脇を下り、しばらく大久保通りと並行しながら、再び上り大久保通りに戻る
「椎木坂」を経て、抜弁天通りに出る前にキツイ階段の「梯子坂」そして、
「久左衛門坂」を経て厳島神社(抜弁天)に出ます。境内が南北に通り抜け出来られるので
通称の「抜弁天」の名が付いたとの事らしいですが、この名前の方が有名と聞きます。
源義家の奥州征伐の勝利の御礼に建てた神社です。この東の牧島ビルが坪内逍遥が「文藝協会」を
設立した旧居跡です。
この抜弁天通りにある都営地下鉄大江戸線の若松河田駅近くの若松町区民センター前の
植え込み前の説明板で、この辺りに徳川5代将軍綱吉の「生類憐れみの令」によって、
約2万5千坪の犬小屋があったことを知らされ、その悪法の歴史に思い馳せます。
そしてこの若松河田駅を越えたところの「団子坂」の手前左に小笠原公爵邸がありましたが、
いまは当時のスペイン風の建物がスペイン料理店になっていて人気の高いレストランと聞きます。
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新宿区のひとつの暗闇坂
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山吹坂
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3.四谷周辺(信濃町・市谷)
四谷のいわれは、甲州街道の休憩所としてススキの野原にあった四軒の茶屋があり「四つ屋」と
呼ばれた説と、文字通り「四つの谷」があったという説があるようですが、はっきりしていません。
1634年に江戸城西北に外堀設置が決定され、麹町の寺社群が四谷地区に集団移転しましたので、
それで、この寺院周辺には門前町屋が軒を並べ、商人、職人の活動が栄えたと聞いています。
先ず、JR信濃町に降り立ち、江戸時代初期に開かれた浄土宗の「一行院・千日谷会堂」に因んだ
「千日坂」を南に下ります。ここはあまり人に知られていませんが、静かな雰囲気のある坂です。
次に東宮御所と明治記念館の間を西に上る「権田原坂」があります。この坂はこの付近に安鎮(珍)
大権現の小社がありましたので「安鎮坂」とも呼ばれています。その坂途中に、明治時代の中頃まで
流れていた鮫川にかかっていた鮫河橋に由来する「鮫河橋坂」があります。当時、江戸湾の入り江が
ここまで切れ込んでいて、鮫がやってきたことの証でもあります。ここ南元町公園から上る道で当時の
甲武鉄道(中央線)建設で変化し、高速道路4号線建設で消えた「やかん坂」を越えると若葉1丁目に
「鉄砲坂」があり、江戸時代このあたりに鉄砲組屋敷があった名残です。
ついで、JR線に沿って上る「出羽坂」、別名スベリ坂といわれた北に「新助坂」を上り、
西念寺と真成院の間に「観音坂」があります。この周辺には前述の通り、寺院が密集していて
「お寺ロード」と呼ぶにふさわしい感じです。そして、その寺に因んだ坂の数々が我々を楽しませて
くれます。むさぼるように読んだ、かの有名な池波正太郎原作「鬼平犯科帳」の主人公長谷川平蔵の
菩提寺の「戒行寺坂」です。豆腐地蔵の東福院と内藤新宿の生みの親の高松喜六の墓がある愛染院の
間の急坂が「東福音坂」です。この坂を上ったところにあった由緒ある「文化放送」の建物は
残念ながら最近解体されたと聞きます。
そして、ここから西に向うと四谷の産土神で総鎮守の「須賀神社」に出ます。この神社には
三十六歌仙の一人一人を絵にしたて、絹地に彩色し、額装にしたものが社殿に掲げられていて
一見の価値があります。次に、円通寺と法蔵寺の間を「円通寺坂」があり、次いで、標識は
ありませんが「女夫坂」を歩くと「四谷怪談」で有名な於岩稲荷田宮神社に出会います。
この於岩というのは「お岩」という江戸時代の初期に健気な一生を送った女性で、
この女性の美徳を祀った神社です。彼女の死後200年近くになり、歌舞伎作家の鶴屋南北が
刺激好きの江戸人間をひきつける為に空想力でもって出来た脚本が「東海道四谷怪談」で四谷の
於岩稲荷の事実とは無関係の創作であります。
そして新宿通りに出て、戦災までの花街で今は往時の賑やかさはなくなった歓楽街の荒木町と
三栄町の境を靖国通まで下る長い坂が「津の守坂」です。北に向う緩やかな下り坂で、別名「荒木坂」、
「小栗坂」ともいうらしいです。
今度はJR市谷駅を北に降り、外堀を渡りきると市谷亀ケ岡八幡神社に出会います。
ここの77段の急な「市谷八幡男坂」を上ると境内です。ここの鳥居は銅製です。
西側を曲がって上る坂が「女坂」で、この辺りの江戸初期の繁栄振りの様子は広重の
「江戸名所百景」に描かれていますし文化財も豊富で、訪ねるにふさわしい神社と思います。
この八幡の西、靖国通り通り沿いに前述した自衛省市ヶ谷駐屯地が広がっていますが、
その北側のかなり急な上り坂が「左内坂」で、そしてこの坂は「右近坂」、
「安藤坂」、「中根坂」と続きます。
そこからすこし戻り、市谷鷹匠町のDNP社構内に入り込むと、「ごみ坂(芥坂)」があり、
坂下の歩道橋には「ごみ坂歩道橋」と書かれていてなんとなく微笑ましい感じ。昔この坂は「闇坂」
と呼ばれたと聞きますが、町人が闇にまぎれて多数のごみを放り投げていたらしい(?)。
そして、市谷砂土原町と市谷田町2丁目の間を北西に上がる坂が「浄瑠璃坂」です。この坂上で
赤穂浪士の吉良邸討ち入りの30年前に江戸2大仇討ちのひとつがあったことが有名な話です。
このDNP社周辺にはそのほか「歌坂」、「鰻坂」、「鼠坂」があります。
特に「鰻坂」は道幅が狭く、自動車運転教習所のクランクのように曲がっていますが、
当時の人々はその様を見てそう読んだと聞きますが面白いと思います。
また「鼠坂」は細くて狭い坂でネズミが通るほど狭かったので
そう名付けられたのであろうと思われますがこれも庶民の発想かと思われます。
4.神楽坂周辺(一部早稲田地区含む)
神楽坂は漱石他の数々の文士のゆかりの地でありますが、その周辺を散策する前に
東京メトロ東西線「早稲田駅」の西出口から早稲田通りを馬場下町に戻ると
「穴八幡神社」を訪ねるのが一興です。この神社に沿った坂が「八幡坂」で、神社に上る
「男坂」と「女坂」がありますが、この神社は江戸城の北の鎮護としての将軍家の祈願所でした。
ここでは、なんと言っても「虫封じ」にご利益がある事が有名で、かの漱石夫人の鏡子さんは
夫の「かんの虫」の虫封じの護符を貰いに穴八幡神社に通っていたと聞きます。
ここから東京メトロ東西線早稲田駅に戻り、西出口からすぐに南に下がる坂の「夏目坂」を
訪ねますと、この坂の上りはじめに黒御影石のオベリスクが立っていて、それには安倍能成筆になる
「夏目漱石生誕之地」と掘られていますが、それに感慨を覚えます。この坂を上り喜久井町で
この坂を別れると、やがて「有島武郎旧居跡」があります。ここから下り坂をグルリと
回るようにしての早稲田小学校を正面に見た道を進むと「漱石公園」に到着します。
小さな公園内には漱石の胸像と、その後ろに石を積み重ねた猫塚がありますが、
何か漱石の偉業を考えると寂しい公園と思うのは小生だけでしょうか。
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公園の夏目漱石像
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夏目坂
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この早稲田南町の漱石公園を経て外苑東通りを北に向って早稲田通りに出たところの弁天町に
「肴屋三四郎」と看板を掲げた店舗がありその命名に驚きます。280年前に創始され現在は
18代目とか。漱石の名作「三四郎」との関係は? この店から外苑通りに沿ったところに
「済松寺」があり、ここは臨済宗のお寺で整然として美しい庭があります。
ここから早稲田通りに戻り、東に行くと「地蔵坂」に出会います。早稲田通りがクランク状に
曲がったところの坂です。この坂の北方向の江戸川橋に向う坂が「渡邊坂」で、この江戸川橋は
隣の文京区です。この渡邊坂を戻り、早稲田通りを東に行くと神楽坂上の赤城神社に辿り着きます。
下記の赤字で書かれた坂名をご覧ください。
(地図 by N.Ide)
さて、上記の坂を史跡の紹介に絡めて紹介をいたします。
まず、東京メトロ東西線神楽坂駅出口近くにある赤城神社から北に、途中カギ型に曲がりながら
下る上る坂が「赤城坂」です。新選東京名所図会に「・・・峻悪にして車通るべからず・」と
書かれているように坂下部はかなりの傾斜があります。この神社は群馬県の赤城にありましたが、
ここに移されたと聞きます。ここは海抜約24メートルでこの周辺で一番高く、
この神社の裏手は崖で眺望が良いことで有名です。次いで江戸初期時代5人の男がこの辺りの
沼地を埋めたとことに因む東五軒町と筑土八幡町の境界通りを西に進み、ゼブラ社ビル前で南に
曲がると「相生坂」の東坂で、この東坂に100メートル西に並行する坂が西坂です。
ところでこの西五軒町は国産飛行機誕生の地でもあります。
ここから「芥坂」、「御殿坂」は直ぐですが、この近くの「筑土八幡神社」は
是非訪ねたい神社です。
現在の大手町の津久戸村にあった平将門の首塚を祠った津久戸神社が江戸拡張によりここに移されました。
この静かに佇む神社境内には夫婦の猿と桃が刻まれた「庚申塔」がありそれは珍しいし、明治時代に、
この神社の裏手に住んでいた口語体の唱歌「金太郎」「一寸法師」等を作曲した音楽教師・作曲家の
田村虎蔵氏の「金太郎」の楽譜つき顕彰碑があります。「金太郎」の歌を口ずさんで、
すこし歴史を感じてはいかがと思うところです。
そこから、大久保通りに出て、この神社の交差点から「軽子坂」と本多横丁に抜け
「神楽坂」に至る100メートル強のゆるい坂が「三年坂」(別名三念坂)です。
ここで転んだら3年後には死ぬと言うほど、昔は寺や墓地に囲まれていた静かなところでした。
しかし、今はこの坂の半分を占める本多修理屋敷脇横道に由来する「本多横丁」は両側に居酒屋、
和食の店等が並び、さながら歓楽街の中心地です。この横丁の脇には石畳の「芸者新道」、
最近火災があった「かくれんぼ横丁」の路地があり、今も花街の風情が残る一角であります。
また、本多横丁に抜ける前の一角の軽子坂に面して割烹料亭「うを徳」があります。
今は5代目ですが、文豪の一人の泉鏡花の馴染みの芸者桃太郎が当時いた料亭であった事も有名な
話です。また、この軽子坂の名の由来になった神楽坂河岸はかっては穀類、酒、魚介、野菜等の
荷揚げ場であり、アサリや蛤もが取れたと聞きます。また、ここから明治・大正時代は船で芝居見物に
浅草まで出かけるための交通の要路でした。その様子は漱石の「硝子戸の内」に書かれていますので
是非お読み戴き確認していただければと思います。
本多横丁から神楽坂通りに出て少し坂上方面にゆるやかに上ると、先ず「毘沙門天」(善国寺)
に出会います。毘沙門天の向かいを入った路地の石畳が第1回新宿区景観まちづくり賞受賞の道で、
この道の奥の旅館「和可菜」が有名な「ホン書き旅館」です。物書きを生業にしている人達が、
ホン(原稿、脚本)を書く間、泊まる宿をそう読んでいますが、映画「男はつらいよ」シリーズは、
山田洋次監督がこの旅館で書いたとの話であります。このあたりは神楽坂の昔の江戸情緒が溢れており、
その情緒が残る「兵庫横丁」は歩いて欲しい所です。
すこし、坂の話から脱線しましたが、本題に戻しますと、神楽坂上に出て、新しい神楽坂と
いわれる6丁目辺り近くに「瓢箪坂」があります。その名の通り、坂の途中がくびれています。
また商店街の坂上通りに出て、スーパーの角を左に入るとそこが「朝日坂」です。この辺りの町名は
横寺町といい、その名の通りお寺の町で、坂の両側には「龍門寺」、「円福寺」、「宝国寺」・・と
寺が点在しています。さらに、ここは明治の文豪の紅葉、鏡花、白鳥等が通った歴史的な町です。
この朝日坂を終焉の地にしたのが島村抱月で、彼の創立の「芸術倶楽部」があったところもここです。
当時売れっ子の女優松井須磨子がここで抱月を慕ってここで自殺しましたが、正しくここは演劇の
発祥の地であります。
この横寺町と箪笥町の間から大久保通りに下りてくると「袖摺坂」です。由来は字のごとく、
昔はすれ違う人の着物のソデが擦れあうほどの幅しかない坂でした。今は13段の石段で、
石段には手すりが付いています。大久保通りから見て、左側の美しい石垣が印象的です。
この大久保通りを横切って牛込中央通りに向って左側にある南蔵院前が「弁天坂」。
江戸時代は甘酒やおでんを売る屋台が出て人通りも多くにぎわっていたらしい。第二次大戦で
焼ける前にあったこの寺の弁天堂(再建されず)がこの名前の由来と聞きました。
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袖摺坂下
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さて、この南蔵院の左横、都営地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅の脇からS字にくねって上がる
名の無い坂道を上ると、左側に「光照寺」があります。ここは牛込城跡ですが、
ここをまっすぐ歩いて左折したS字の坂「地蔵坂」に出会います。漱石が好きな寄席を楽しむ為に
良く通ってきたところです。その当時はこの坂は「藁坂」と呼ばれていました。
その坂を神楽坂まで下らず、元来た道を戻り、袋町の角を左に折れて少し歩きますと、
左に昔の武家屋敷の中、新しく造った「新坂」があります。この坂を見ながら、尚、
直進して重厚な石垣が続いている道を道なりに行くと「逢坂」に出会います。
この坂は別名「美男坂」と言われていて、古代の美しい娘と武蔵守との悲恋物語を
思い起こしながら歩くのも趣がありますが、都内の有数な急な坂道で自転車では上れないほどです。
この坂の中ほどに「日仏学院」があり、行き交うフランス人に出会います。
この学校があることもあってか「神楽坂はパリ」に似ているといわれています。確かに、
路地や石畳、そして古いものを残すというフランス人の考え方が、古いものが今なお
残っている神楽坂に相通じるものがあるのかもしれません。また、この周辺にフランス料理店が
多いのも納得できるところです。味も値段もリーゾナブルと聞きました。坂歩きの一休みにどうぞ。
この坂を下り外堀通りに出て、1ブロック行くと、左に坂が現れ、それが「庾嶺坂」です。
中国の有名な梅の名所の名をとり二代将軍秀忠が名付けたと伝えられている緩く弧を描いた
傾斜の坂です。特に右の重厚な石堀が美しく感動します。そこを上ると、源頼朝によって建立された
由緒ある「若宮八幡神社」です。ここから右の直ぐのところに「若宮公園」があります。
この公園を囲った門柱や、この公園が接する名のない坂の途中からの導入口が武家屋敷の
イメージした作りになっていて、ホット一休みしたいところです。ここ神楽坂周辺に江戸時代の
「振袖火事」(1657年)いらい武家屋敷中心の町が形成された様子を今も伝えています。
したがい、この公園は、「手づくり郷土賞」を受賞しています。この公園に接する坂道が名のない
坂ですが、近くの理科大の学生も憩う坂道ということで地元の人は「理科大の坂」と呼ぶらしい。
この坂道の途中に建つ明治時代風の洋風建築は、126年前に建立された東京物理学校の木造学舎を
復元した「近代科学資料館」です。名作「坊っちゃん」を偲んで訪れるのも一興です。
再び坂を下り外堀通りに出て、JR飯田橋駅方面に向うと、そこに牛込台にのぼる「神楽坂」の
入り口があります。この坂はもう紹介の必要のない著名な坂ですが、ここは海抜約4メートルで、
前述の赤城神社まで約18メートルの勾配を上がるということになります。この道は昼12時で
切りかわる時間差一方通行で神楽坂名物のひとつだそうです。
以上
(小谷 武彦記)
(文中写真の一部 by M.Ogawa)