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2008年6月17日
ゆかりの文士たちが過ごした文京区の坂と
文学作品に登場する坂の数々(1)
文京区は武蔵野台地の東の縁で、侵食によっていくつかの谷が刻まれています。そして、僅か10メートル、20メートルの高さのところに数多くの坂道が作られています。したがい文京区は名前のついた坂の数が東京都内で一番多いといわれています。言うまでもなく坂には人の心の哀楽にアクセントつけてきましたが、特に「坂のないところに文学は生まれない」という言葉には心から賛成であります。この文京区には明治以来、数多くの文人が住みつき、彼等によって文京の坂は謳われ、そして小説に書かれています。そこで、文京区のゆかりの著名な文士の歩いた坂と、文士が描いた作品に登場する坂道の紹介をおこないたいと思いますが、まず(1)で、文士が住んでいた文京区の坂道を紹介します。そして(2)では文士の名作に登場するいくつかの坂道を紹介し、文学作品ともどもその感慨に耽りたいと思います。
まず、文京区の文士達と言えば、本郷菊坂周辺を取り上げねばなりません。この周辺には、東京大学があるということもあり、明治から昭和にかけて、後世に名を残す著名な作家が多数住んでいました。その図が下記の通りです。
(文京区 観光ガイドから抜粋)
地下鉄三田線春日駅から菊坂下に出て、菊坂を上っていきますと、この辺りは、15世紀頃は一面が菊畑で、菊作り植木職人が多く住んでいたと聞きました。この長いゆるやかな坂道を70mばかり上りますと、左側に木造二階建ての家があります。明治期傑出の女流作家の樋口一葉が度々利用した質店「伊勢屋」です。現在は廃業していますが、当時のままの姿で残っていて、一葉の事を偲ぶ事出来そうです。この質店から50mばかり行くと、表通りと並行している裏通りに出られますが、裏通りに入ると、すぐ右手に狭い路地があり、左右から庇を伸ばした二軒屋が並んでいます。このあたりは当時の面影が残っているのではないかと思います。この路地の一番奥に当時の堀井戸が残っています。現在はポンプ井戸になっていますが、この井戸の前の家は一葉が住んでいた家であります。
そして一葉の思い出が多い鐙坂のひとつ西側の都内有数の急な坂である炭団坂(現在は石段)を上ったところに「坪内逍遥旧宅・常盤会館」の案内板があります。逍遥がここに住んだのは明治17年から20年までらしいですが、ここで、近代文学の最初の理論書「小説神髄」を書きました。そして、この場所を良く訪ねて来ていた二葉亭四迷は逍遥の薦めもあって「浮雲」を書きましたが、二葉亭四迷はこの周辺に住んでいました。まさしく、ここが近代文学発祥の地であります。そして、かの有名な俳人である正岡子規もここに4年間住んでいました。この鐙坂の近くには金田一京助が住んでいて、彼は石川啄木の金銭的援助をしていたと聞いています。そしてこの鐙坂上を春日通り方面に行った左側には野間宏が、一方、菊坂から梨木坂を入った右側に田宮寅彦が住んでいました。この坪内逍遥旧居跡から炭団坂を下ると再び菊坂にでますが、そこに宮沢賢治の旧居跡の案内板が立っています。賢治は1921年に上京し、本郷菊坂に止宿し、東大前の謄写版刷りの出版社で自活して、菊坂を上り下りしていました。賢治の作品が評価されるようになったのは彼の死後でありますが、一葉、啄木、賢治は生きた時代も性格も異なり、3人とも貧しい生活の中で一途に文学を求めました。3人とも同じ本郷菊坂周辺に住み、同じ坂を上り下りしましたが、この坂の上に自分の家を持つことが出来なかったのです。当時の文学で生活はままならなかった文化の貧困を憂います。
かの薄幸の歌人石川啄木は明治35年(1902年)11月に夫人にそっと見送られて上京し、目白通りの向かい側の今宮神社の近くのコンクリート製の石段の八幡坂上の大館みつ方に下宿しました。この八幡坂は啄木が息づくゆかりの坂でありますが、在京中就職に失敗し病苦が重なり、翌年2月、父が迎えに来て故郷の渋民村に戻っています。そして、2度目の上京で下宿したのが赤心館でした。だが赤心館での下宿半年足らずで終わり、菊坂下に通じる新坂の高台に太栄館(昔の名前は蓋平館)が建っていましたが、この太栄館に移ります。従い、ここが啄木ゆかりの宿で、約9ヶ月この宿に寄宿しました。玄関先に「石川啄木由縁の宿」の碑があり、自然石に東海の歌が刻まれています。ここでの啄木の生活は金田一京助の援助はありましたが、窮乏の極みでありました。
かくして、本郷は明治の新文化の薫る地として文士たちの憧れで、山の手の坂のある風景はロマンチックで情緒があり、上昇志向旺盛な文士の好みにかなっていたと思われます。菊坂から本妙寺坂を上って1本目の道を左折すると、右手にオルガノ株式会社がありますが、昔この敷地の一角に戦火で焼失した「本郷菊冨士ホテル」がありました。今はその碑が立派に建っていますが、ここには大正から昭和戦前にかけて、多くの作家、小説家が止宿し、執筆活動に励んだと聞いています。ここに居住していた作家は正宗白鳥、谷崎潤一郎、宇野浩二、尾崎士郎、宇野千代、宮本百合子、広津和郎を始めとして錚々たるメンバーであったようですが、何かその雰囲気だけは今も残っていると感じました。
ところで、本郷通りの昔は中山道、「本郷もかねやすまでは江戸のうち」といわれた小間物屋の老舗の「かねやす」が本郷三丁目の交差点角にありますが、この「かねやす」から東大赤門にかけて道はやや下り坂、そして上り坂になっていて、夫々を「見送り坂」、「見返り坂」と名付けられました。江戸に別れを告げ、見送る人の別れの場所であったと聞きました。
現在の見送り坂・見返り坂(写真 by M.Ogawa)
この本郷通りを北に進んだところの東大正門の反対側が本郷郵便局で、その南側の道を西に行き、右折して、すぐ細い道を左に曲がると、自然主義文学の代表的作家の徳田秋声の旧居があります。今もこの家には秋声の孫一家が住んでおられますが、秋声の小説の「あらくれ」他の殆どはこの家の書斎で執筆されたと聞きました。さて、また菊坂に戻りますが、前述の一葉は菊坂の家で原稿を書き、鐙坂を歩き、白山通りを越えて小石川に出て六角坂、善光寺坂を上り、平河町にあった師匠の半井桃水宅に通っていました。この坂は道路の右側に善光寺があり、その後に慈眼院が並んでいて樹木が多く、今も風情を残していますが、一葉はどんな思いでこの坂を上り下りしたのであろうかと感慨に耽りました。この慈眼院を出たところに幸田露伴の旧居蝸牛庵跡があり、1945年、長野に疎開するまでの約20年余住んでいました。ここは空襲で焼失してしまいましたが、次女の幸田文がその跡に家を建てて住んでいました。この善光寺坂を上っていくと、ムクの巨木が迎えてくれますが、このムクの樹を見て露伴を偲びました。
さてこの菊坂下から白山通りに向かって右側に石坂があり、この手前に谷崎潤一郎の居住跡があります。そして、この坂上台地一帯の西片町にも多数の文士が住んでいました。ここは東京大学に近くて、高台で環境が良かったようで通称「学者町」と呼ばれていました。この西片町にある大きく蛇行した急な坂は福山藩主が新しく開発したので、新坂(福山坂)と名つけられたそうです。この坂を上りきったところの家に、千駄木から引っ越してきて、漱石が約9ヶ月間住み、ここで、朝日新聞の連載小説「虞美人草」を執筆しました。残念ながらこの家はもう現存していません。この近くには漱石との因縁深い作家の大塚菜緒子夫妻も住んでいました。ちなみにこの地帯に住んでいた主な文人は、詩人の上田敏、歌人の佐々木信綱、作曲家の滝廉太郎、作家の二葉亭四迷、宇野浩二、森田草平等で、その数は数え切れないほどでしたという話です。
これからは本郷界隈の菊坂から、近代文学のふるさとといわれる根津・千駄木地区の文人の坂を探索します。このあたりの坂は谷地の地形で変化に飛んだ坂で独特の景観を形作っています。まず、地下鉄千代田線の千駄木駅を出て、不忍通りから西に上って行く坂が有名な団子坂です。坂のそばに団子を売る店があったからそう名付けられましたが、もっと昔は潮見坂といわれました。この坂は漱石の「三四郎」での描写表現を借りると「刀の切先のような厳しい坂」でありましたが、今は比較的なだらかな車道になっています。
この団子坂を上りきった左側に文京区立の鷗外記念本郷図書館がありますが、ここが、森?外が大正11年(1936年)に没するまでに住んでいた観潮楼です。この観潮楼は、鷗外の文学活動の中心の舞台でしたが、残念ながら家屋は戦災でなくなりました。しかし、庭園は今も残存し、この庭には「3人冗語の石」があります。これは鷗外、露伴、齋藤緑雨が3人匿名の文芸評論を行い、その際、鷗外が撮影した3人の記念写真にこの石が写っていてそう呼ばれたそうです。またこの庭には鷗外が詠んだ詩の荷風の書の碑があります。これは荷風が鷗外をすごく尊敬していたとの逸話の証かと思います。
観朝楼跡 漱石旧居跡碑
この坂上から根津裏門坂へと南へ続く細い「やぶ下通り」を歩くのも感慨深いものです。この道は当時、台地の縁を自然に固めて出来た道で、身の丈2倍もある篠竹が道の両側に茂っていたとの話です。ところで、根津裏門坂は根津の谷から西の本郷に抜ける坂道であります。この根津神社には漱石も鷗外も自分の庭のようにしてよく訪ねていましたが、その散歩の途中に腰を下ろして思索にふけったのではないかと言われる古い石が、この神社の唐門の左手にあります。それは「文豪憩いの石」と呼ばれていますが、是非一度お座りになられることをお薦めします。何か明治の文豪が現れるのではないかとの気持ちになります。ここから本郷通りへ向うゆるやかな坂道を日本医科大学のところで右折して100メートル足らずのところの左側に夏目漱石の旧居跡があります。ここには川端康成の筆になる碑文を刻んだ石碑がありますが、ここで名作「我輩は猫である」が生まれましたので、ここは通称「猫の家」と言われています。偶然にもこの家に漱石が入居する11年前に鷗外が住んでいました。ちなみに、ここの近くには、劇作家の木下順二が住んでいました。
ところで、一方この団子坂から北に行くと「伸子」、「播州平野」などの作品を残した宮本百合子のゆかりの地、つまり同女の実家があった跡で、ここで没しました。当時の小豆色の門柱が残っていて説明板があります。また、その近くの千駄木小学校前には彫刻家であった高村光太郎の旧居跡があります。彼は歌人としても有名で、妻智恵子への愛の詩集「智恵子抄」で多くの人に感動を与えた事は記憶に残る話であります。そしてこの家の門構えだけが残存していますが立派な門です。
そして、根津1丁目の交差点から東京大学に向かって上る坂が弥生坂です。この坂の近辺で弥生式土器が発見されたとの話でありありますが、このあたりに詩人のサトー・ハチロウが住んでいました。そして左に曲がったところにある根津小学校の南に異人坂があります。多分ここに東京大学の外国人教師が数多く住んでいたのでしょう。そして、前述の立派な、堂々とした根津神社の正面の鳥居前に新坂があります。この坂がS字の形に曲がっているのでS坂と呼ばれましたが、名前の通り、坂の途中から曲がりくねった趣のある坂で、小生の好きな坂のひとつであります。
新坂 (S坂)(写真 by M.Ogawa)
このS坂途中の現存の家に内田百聞が下宿していました。また、この新坂の南に「お化け階段」がありますが、上りと下りの階段が違う不思議な坂でありまして、この疑問を解消すべく是非お訪ね下さい。以上で文京区の坂の中心でもある本郷地区を終わりにして、湯島地区に参ります。まず、地下鉄千代田線湯島駅から男坂、女坂を上って境内に入ると、境内には約350本の梅ノ木があるようですが、多くは泉鏡花の著作「湯島の白梅」で知られるように白梅です。湯島神社への出入り口の男坂・女坂のほかに北に湯島夫婦坂があり、この夫婦坂を下りると切通坂の坂下であります。この坂の途中にかの石川啄木の歌碑があります。朝日新聞の校正の仕事を終えて、終電の上野広小路からこの坂を登って本郷の家族を迎えて間借りしていた「喜之床」の2階に帰ったようですが、次の歌を残しています。「2晩おきに、夜の1時頃に切通の坂を上りしも──勤めなればかな」(「悲しき玩具」より)嗚呼!
また、湯島の坂では、地下鉄丸の内線の御茶ノ水駅を出ると相生坂があり、湯島聖堂の南側を神田川に沿って西より東に下る坂です。この坂より聖堂の東に沿って湯島坂を上る坂が昌平坂です。全国から青雲の志を抱いた子弟が、この相生坂や昌平坂を闊歩したことでしょう。そして、この湯島坂の途中右側に樹木谷坂(地獄谷坂)、新妻恋坂を挟んで横見坂があります。この坂の西側に明治30年ごろ島崎藤村が住んでいて、ここから信州小諸義塾に移っていきました。
この湯島地区から本郷地区を越えて富坂を上り、東の春日通りの小石川地区あたりに来ますと、牛坂と安藤坂に出くわしますが、この坂あたりに一葉が学んだ歌塾「萩の舎」があり、この近くの北野神社(牛天神)境内には塾主の中島歌子の歌碑があります。この安藤坂をまっすぐ上ったところに家康の生母の於大の方の菩提寺で有名な「伝通院」があります。この近くの尼寺の「法蔵院」に漱石は友人の菅虎雄の紹介で下宿していました。時に漱石は27歳でした。
この安藤坂から文京三中の前の信号を渡り横に入る道を道なりに歩くと金剛坂にでますが、この付近に永井荷風の生家があります。荷風はここで14歳(1893年)まで育ち、学校は黒田小学校で、その説明書がここにあります。荷風はこの金剛坂を下って上水道を埋め立てた巻石通りを毎日通ったものと思われます。昭和16年(1941年)に、生家跡を訪れた荷風は「旧宅裏門の坂を下り、表門前を過ぎて、金剛坂の半程に出づ」と日記に記しています。
ここから西に向かって音羽通りに向かっての小日向地区は小日向台地の上にあるため、台地の周辺部には坂が多いのに驚きます。文人としては英文の名著「武士道」でも有名な新渡戸稲造が服部坂近く、坂口安吾は切支丹坂あたりに居を構えていました。これらの数々の坂の中では、音羽通の鳩山会館に近く、目白坂と反対方向の東への道を入り前方に上る鷺坂が、カーブの美しい坂で目を引きます。その曲がり角に石碑が建っています。昭和7年(1932年)に、この近くの家に住んでいた詩人の堀内大学や、近くに住んでいた同じく詩人の三好達治や佐藤春夫などによってそう命名されました。
大きな地図で見る小日向台地の坂の数々
〔Google地図の使い方〕地図の左上にある記号をクリックすると 自由に地図を操作できます。
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今度はこの鷺坂を下って、音羽通りを越えると目白坂と名付けられた江戸時代の古い坂が目白台の上に続いています。この坂の途中に目白台ハウスがあって、谷崎潤一郎、円地文子が住んでいて、彼女はここで「源氏物語」の訳文を仕上げました。このとき瀬戸内晴美(寂聴)もここに住んでいました。また菊池寛もこの坂周辺に住んでいたとか聞きました。明治20年代の半ばに目白坂のバイパスのような坂が北に並行して新しく作られ、それが目白新坂と呼ばれました。この坂は道幅も広く、傾斜もゆるやかになりました。そして、この目白台2丁目と3丁目の間にある薬寒坂の東西に大町桂月と窪田空穂が住んでいました。特に歌人で美文家の大町桂月はここに永く住んでいて、目白坂を下り、荷風のゆかりの巻石通りから後楽の北野神社往復がウォーキングコースだったそうです。
当時はこの坂は名の通り狐や化け物がでる寂しい坂であったでしょうが、今は閑静な住宅地です。そして、この目白坂周辺で見逃せないのが佐藤春夫の異国風の邸宅跡です。彼は昭和2年(1927年)から37年間この洋館風の家に没するまで住みました。文京区の「区歌」の作詞もし、格調の高い抒情詩と幻想的耽美的な小説で近代文学のあたらしい分野を築きましたのは誰しも知る話です。なお、元あった家は生まれ故郷の和歌山県新宮市に移築されています。
この目白台から神田川に向かっていくつかの坂がありますが、江戸時代の俳人松尾芭蕉が神田上水工事の時に、この辺にあった「水番屋」に住んでいたといわれていて、その跡が関口の芭蕉庵で第2次世界大戦後に建築されました。この隣の水神社の横の胸突坂は名前のとおり息が切れるような急な坂で、自転車では上れません。この坂途中に永青文庫がありますが、これは細川家の下屋敷跡で、細川家伝来の文化財を収蔵しています。この胸突坂を上ったところに、村上春樹が下宿していた和敬塾があります。チューダゴシック様式の建物です。
胸突坂(目白台) 古い胸突坂の標石(写真 by M.Ogawa)
さて、最後に白山台地です。この台地に掛かる坂も多いのですが、この台地の坂での文士は数多くありません。長谷川如是閑が明治28年(1895年)に千石2丁目に住んでいました。彼は自由主義の評論家でジャーナリストでした。次いで、漱石の愛弟子の一人の寺田寅彦が今の白山5丁目に住んでいましたし、与謝野鉄幹・晶子の情熱の歌に対抗して叙情的に歌を歌うことを主張した尾上紫舟(さいしゅう)は本郷から今の白山4丁目に転居して住みました。以上のように、文京区の坂にまつわる文士が数多くいます。その中で薄幸の文士として一葉と啄木を頻繁に取り上げましたが、最後にもう一度、啄木を取り上げます。白山の隣の小石川町に、春の桜の名所として有名な播磨坂近くにある団平坂の一つ東側の道の中の居宅で啄木は亡くなりました。ここにあまり目立たない啄木の終焉の地の碑があります。ここが、上京してきて文京区に移り住んでの4ヶ所目の居宅でありました。ここで啄木は妻・母と3人が枕を並べて寝ていましたが、啄木は明治45年(1912年)4月13日朝、26歳の短い一生を終えました。
文学や和歌だけでは生活が思うに任せない明治時代ですから、それはいたしかたなかったことでありましょうが、彼らが残した数々の作品の業績は未来永劫語り伝えられていくものと思います。それはこのシリーズ(2)で紹介します。