淡路坂(別名:相生坂・大坂・一口坂)
場所:東京都千代田区神田駿河台四丁目
尾張屋板『飯田町駿河台小川町絵図』文久三年改正版(1834)部分図に加筆
上掲の尾張屋板『飯田町駿河台小川町絵図』(以下切絵図と記す)に「アワジサカ」とある。この頃の淡路坂は、神田川の南岸に沿って太田姫稲荷の前から昌平橋(あたらし橋、相生橋、一口橋とも呼ばれた)へ下る坂であった。現在、坂上の太田姫稲荷があった辺りに「淡路坂」と記した坂標がたっている。そこには「淡路坂 坂の上に太田姫稲荷、道をはさんで鈴木淡路守の屋敷があり、それにもとづき町名・坂名がついたといわれる。一口坂については太田姫稲荷が一口稲荷といったためとされている。別名大坂は大きな坂の意」と書かれている。坂標に書かれているように長い歴史の中で様々の名で呼ばれてきた坂である。
淡路坂の由来
『新撰神田誌』(岡村柳斎著・天保六年・1835)は「淡路坂は昌平橋西土手付の坂にして、寛永の頃より鈴木淡路守久しく居住、故に淡路坂と唱ふ」と坂名の由来を記している。淡路とは坂の脇に住んでいた鈴木姓で淡路守を名乗った人物なのだが、時代が異なるため上掲切絵図に鈴木淡路守の名はない。(上掲切絵図の淡路守屋敷跡に「鈴木八十之丞」の名がある。同姓だが淡路守の子孫ではないようだ。)
『新板江戸大絵図(寛文五枚図)』(寛文十年・1670)に「スゞキアワヂ」の名がある。場所は太田姫稲荷と昌平橋の間(つまり昌平坂のこと)である。さらに『御府内沿革図書』の延宝年中の図(1673-81)にも「鈴木淡路守」の屋敷が認められる。鈴木淡路守の屋敷の正確な位置は推測するしかないのだが、いくつかの地図を見比べてみると上掲切絵図の菅沼隼人屋敷や鈴木八十之丞屋敷のあった辺りのようだ。現在、建設中の御茶ノ水ソラシティの一画(千代田区神田駿河台4-6)にあたる。
←『新板江戸大絵図(寛文五枚図)』(寛文十年・1670)
「スゞキアワジ」の名が記されている。
↓『御府内沿革図書』延宝年中の図(1673-81)「鈴木淡路守」とある。
坂の名に「淡路」の名を遺した鈴木淡路守とはどのような人物であったか記しておこう。『新撰神田誌』、『新板江戸大絵図(寛文五枚図)』、『御府内沿革図書』の延宝年間の図などから寛永(1624-44)から延宝(1673-81)頃の人物と推測して調べたところ『寛政重修諸家譜』に該当する人物が載っていた。名は鈴木重泰(すずきしげやす)。二代将軍秀忠に仕え御書院番となり、のち御小姓組に転じた。寛文三年(1663)従五位下淡路守に叙任。延宝四年(1676)に62歳で没。秀忠、家光、家綱の三代の将軍に仕えた知行千石の旗本であった。
淡路坂の坂名がいつ頃から呼ばれるようになったのか記録が見当たらない。しかし鈴木重泰が淡路守に叙任した寛文三年(1663)以後であることだけは確かである。
相生坂の由来
相生坂の名は、神田川をはさんで北の湯島聖堂側に昌平坂(相生坂の別名)、南の駿河台側に淡路坂が並行して同方向へ下るところから二つの坂を相生坂と呼んだものである。相生坂の由来に関する詳細は昌平坂(相生坂の別名・文京区湯島1丁目)を参照されたい。
大坂の由来
大坂の名は日本の各地にみられる坂名で、ポピュラーな坂名の一つと言える。東京区内で、鮫河橋坂(新宿区)、逢坂(新宿区)、御殿坂(文京区小石川)、王子大阪(北区)などが大坂とも呼ばれたように、淡路坂も長く急な坂であることから大坂と呼ばれた時代があったのであろう。・・・・・とはいえ淡路坂を大坂と記した資料が見つからない。さらなる検証が必要である。
一口坂(いもあらいざか)の由来
『駿河台志』(文化年間1804-18)に「淡路坂、稲荷小路より昌平へ出る坂なり、本名は一口坂といふ、松下淡路守此に住せしより淡路坂といふ」と坂名が載る。一口坂は「いもあらいざか」と読む。なかなかの難読漢字だ。坂名は「太田姫稲荷の祠は、この地淡路坂の上にあり。旧名を一口稲荷と称す(後略)」(『江戸名所図会』)とあるように、坂上に祀られていた太田姫稲荷神社が一口稲荷(いもあらいいなり)と呼ばれていたことに由来している。太田姫稲荷神社が一口稲荷と言われた由縁は太田姫稲荷神社の縁起に詳しい。
←現在の太田姫稲荷神社。
長く淡路坂上に祀られていたが、昭和6年(1931)に現在地(千代田区神田駿河台1丁目2)に移転。
JR御茶ノ水駅東口、聖橋脇の神社があった場所に「元宮」の木札が掛かっている。 →
「承和六年(839)、小野篁(おののたかむら802〜852 平安時代前期の官人・学者・歌人)が讒言により隠岐に流された時のことである。にわかな嵐で船が遭難しかけた。篁は船のへさきに座り、普門品(観音経)を唱えると白髪の老翁が波の上に現れて「君は才職世にたぐいなき人だから流罪になってもまもなく都へ呼戻されるであろう。しかし疱瘡を患えば一命があぶない。我は太田姫命である。わが像をまつればこの病にかかることはないであろう」と告げると姿を消した。篁は、自ら神像を刻みこれを祀った。するとお告げの通り篁は翌年都へ呼び返された。のちに山城国一口(いもあらい)に神社を造営してこれを祀ったという。江戸の開祖として知られる大田資長(後の道灌)の娘が疱瘡に罹った時のことである。一口稲荷神社の故事を聞き、一口の里に祀られていた神に祈願したところ次第に娘の病が平癒したことから、大田道灌は城内に社を建立して敬ったとのことである。」
太田姫稲荷神社(一口稲荷)は、疱瘡(天然痘)除けの神として長く信仰されてきた。今でこそ過去の病気となった疱瘡だが、江戸時代を通じて流行を繰り返し、死亡率の高さと「疱瘡はきりょうさだめ、麻疹(はしか)は命さだめ」と言われていたように、死を免れた者も病後に醜い痘痕が残り、失明することもあって大変恐れられた流行病だった。今も各地に疱瘡神を祀る神社や祠が残っており、有効な治療法がなく神仏に祈るよりほかない時代の苦痛の歴史を伝えている。太田姫稲荷神社(一口稲荷)もそのような背景を持つ神社であった。
一口(いもあらい)の語源は、小野篁が神社を造営してこれを祀ったという山城国一口(現・京都府久世郡久御山町大字東一口と大字西一口)の地名に由来している。また「いも」は疱瘡(天然痘)の意であり、「あらい」は疱瘡を洗う=すなわち疱瘡を洗って治すという意味を持つ言葉であったという。一口坂は江戸の人々にとって祈りの坂でもあった。
大田道灌が城内に祀った社は、慶長十一年(1603)江戸城改築の折、西の丸の鬼門にあたる神田駿河台に移された。以後長く淡路坂上に祀られていたのだが昭和6年(1931)、お茶の水駅・両国駅間の総武線建設のために現在地(千代田区神田駿河台1-2)へ移された。
坂名の変遷について
この坂が淡路坂、相生坂、大坂、一口坂と呼ばれた坂であることを述べてきた。しかし、文献の多くは淡路坂についてのみ記しており、別名の相生坂、大坂、一口坂の坂名にはふれていない。『御府内沿革図書』(延宝年中之図 1673-81)、『江戸砂子』(享保17年・1732)、江府名勝志(享保18年・1733)、『万世江戸町鑑』(宝暦7年版・1757)、『御府内備考』(文政9〜12年・1826〜9)、尾張屋版『飯田町駿河台小川町絵図』(文久3年・1834)、近江屋版『駿河台小川町図』(嘉永2年(1849)、など、みな同様である。淡路坂の呼称は鈴木重泰が淡路守に叙任した寛文三年(1663)以後だと淡路坂の由来の項で述べたが、この坂は長い間「淡路坂」の名で呼ばれてきた坂だと言えるようだ。では、なぜ他の坂名は記録から抜けていったのであろう?
『駿河台志』(文化9年〜13年頃・1812〜1816)に、「淡路坂 稲荷小路より昌平へ出る坂なり、本名は一口坂といふ、松下淡路守此に住せしより淡路坂といふ」との記録が載る。一口坂の呼称は、淡路坂の呼称以前の名と推測できる。
『御府内備考』は、巻之六 昌平橋の項で「筋違(橋)の西の方にて神田川に架す。元禄の江戸図には相生橋とあり。聖堂御建立ののち、魯の昌平郷の名かたどり、かく名付給ひしなり(『江戸志』)或ひとの日記に元禄四年二月二日、筋違橋より西の方の橋を、今より後昌平橋と唱ふべきよし仰下されけり。是までは相生橋、または芋洗橋などよびしと云」。と記している。
同様の記録は『江戸名所図会』にもみられる。「昌平橋は、これより(注:筋違橋のこと)西の方に並ぶ。湯島の地に聖堂御造立ありしより、魯の昌平郷に比して号けられしとなり。初めは相生橋、あたらし橋、また芋洗橋とも号したりしよしいへり。太田姫稲荷の祠は、この地淡路坂の上にあり。旧名を一口稲荷と称す」とある。
『武功年表』は元禄四年(1691)の項に「正月、湯島に大聖殿御普請成る。(中略)二月より相生橋を(古名いもあらひ一口橋)昌平橋と改めらる。」とある。
『御府内備考』、『江戸名所図会』、『武功年表』の記事は、坂について記した文章ではなく、元禄四年(1691)二月に相生橋(あたらし橋、一口橋・芋洗橋とも呼ばれた)が昌平橋と改名されたことを記しているものである。しかし相生橋は相生坂に、一口橋は一口坂に呼応する坂名であることを考えれば、橋名の変更とともに、それに関連し呼応する坂名も使用されなくなったと推測できないだろうか。(このことについて戸田茂睡は『御当代記』で「聖堂を大聖殿と申、相生橋、湯島の坂を、昌平橋、昌平坂と云」と記している。)さらにいえば、江戸の諸資料(地誌・絵図)に「淡路坂」以外の坂名(相生坂や一口坂)が載っていないこととも符合している。相生橋が昌平橋に改名されるとともに相生坂、一口坂の名称も使われなくなりかわって「淡路坂」と呼ばれるようになったのである。
【現在の淡路坂】 JR御茶ノ水駅聖橋口をでるとすぐに神田川に架かる聖橋
がある。淡路坂は神田川の南岸に沿って聖橋から昌平坂へ向かい東へと下る坂である。
← 淡路坂上からの眺め。
遠くに見えるビル群は、秋葉原の電気街。坂の脇を通る電車はJR中央線
【参考資料】
『飯田町駿河台小川町絵図』文久三年改正版(1834)尾張屋板
『駿河台小川町図』嘉永2年(1849)近江屋版
『新板江戸大絵図(寛文五枚図)』(寛文十年〜十三年・1670〜1673)
『御府内沿革図書』文久二年〜安政五年(1862〜1858)
(『江戸城下変遷絵図集』原書房)
『新撰神田誌』(岡村柳斎著・天保六年・1835)
『寛政重修諸家譜』
『江戸名所図会』ちくま学芸文庫
『江戸砂子』小池章太郎編 東京堂出版
『江府名勝誌』藤原之廉撰・横関英一校注 S47 有峰書房
『御府内備考』大日本地誌大系編輯局編 雄山閣
『駿河台志』(文化九年〜十三年頃(1812〜1816)
千代田区文化財調査報告書14 『江戸の郷土史』千代田区教育委員会刊より
増補『武功年表』斉藤月信岑 金子光晴校訂 東洋文庫(平凡社)
『御当代記』戸田茂睡 東洋文庫(平凡社)
『新撰東京名所図会』(復刻『東京名所図会』睦書房)
『江戸の坂 東京の坂』横関英一 中公文庫
『江戸東京坂道事典』石川梯二 新人物往来社
『今昔東京の坂』岡崎清記 日本交通公社
坂標(千代田区教育委員会)
『千代田の稲荷』千代田区文化財調査報告書17よりM太田姫稲荷神社の項