神楽坂
長谷川雪旦画『江戸名所図会』巻四(天保5年刊・1834) 牛込神楽坂より
神楽坂上にある善国寺(注1)の毘沙門天に参詣し、行元寺(注2)の仇討碑(注3)を見学しようと神楽坂へやってきた。三味線の音がどこからか聞こえてくる華やかな街を想像していたのだが、まったくの誤りであった。この町が盛り場になったのは明治半ば過ぎであったのをすっかり忘れていたのだ。江戸の神楽坂一帯は、武家地ばかりで旗本と御家人の屋敷が立ち並ぶおかたい町なのだ。外濠から坂上にむかって、牡丹屋敷跡(町屋)、市谷田町四丁目代地(町屋)、穴八幡旅所、高木家屋敷(旗本)、内藤家屋敷(旗本)岩戸町(町屋)、善国寺、肴町(町屋)と神楽坂の南西側の片側だけに町屋が集中している。町屋には暖簾をかけた商家もみかけるが、坂の反対側は行元寺までずっと旗本屋敷が続く。その先は寺町と門前町である。その名も通寺町(かよいてらまち)、横寺町(よこでらまち)と寺町の名を冠した名で呼ばれているのがわかりやすくて好ましい。
坂は平成の神楽坂よりはるかに急坂だ。(注4)。道幅は6間ほど(約11b)(注5)。坂下には牛込御門が見え、堀の水が空を映して青くきらめいている。緑の堤が堀端を彩り石垣が美しい。坂の途中に高田穴八幡の旅所が設けられている。ここで神楽が演奏されたことから神楽坂と呼ばれるようになったとする説が一般的だが他の神社の神楽だとの説もある。
善国寺までやってきた。寅の日(注6)には参詣人でにぎわうということだが、今日の境内は思ったより静かだ。本堂前の虎の姿をした狛犬が珍しい。毘沙門天は寅年寅月寅日虎刻生まれだそうで、狛犬も寅の姿で守護しているのだろう。行元寺は善国寺の斜向かい神楽坂を横切った反対側にあった。神楽坂に面した門を入り、境内中ほどの柳の木の下に仇討碑をみつけた。石の表には「念彼観音力(ねんぴかんのんりき) 還著於本人(げんじゃくおほんにん)」と観音経の経文が刻まれ、裏側には謎めいた七言四句の一文が刻まれている。ともに太田南畝(蜀山人)の筆によるものだ。
癸卯天明陽月八
二人不戴九人誰
同有下田十一口
湛乎無水納無絲
南畝子
同時代の人、十方庵敬順は「むかし愚老がまのあたりに見しままをここに記して…」と、敬順23歳のときに見たことを『遊歴雑記』に記している。あだ討ちと聞いて行元寺に駆けつけたが「もはや敵討ちし人は居合わせず、討たれり人は倒れたるままにコモ打ち着せ、そのあたり血滴れたまり、表門より本堂までの間の道敷の石上に、血ところどころ染し跡見るばかりにて残り多し、されど聞伝えしほどの者入れ込み見物すれば、人山をなして出入りなりがたがりし」とまるでワイドショーのような伝えぶりだ。江戸の町を騒がせた大事件であったようだ。
神楽坂の名の由来となった神楽を演奏したと伝えられる若宮八幡、筑土八幡、赤城明神も近くなので事のついでにお参りして帰ろう。どこかで神楽の音が聞けるかもしれない。
(注1)徳川家康より天下安全の祈祷の命を受けて文禄4年(1595)に麹町に創建。元地の麹町には善国寺坂の名が今も残る。寛政5年(1793)現代地に移転。本尊の毘沙門天が尊崇を集め、参詣の人でにぎわった。
「月ごとの寅の日には参詣夥しく、植木等の諸商人市をなして賑はへり」(江戸名所図会)
(注2)行願寺とも書く。神楽坂5丁目にあったが、明治末に品川区西大崎4
丁目に移転。仇討碑は現在も同寺境内にある。
(注3)「牛込神楽坂行元寺境内にて親の仇討ありき。此の事を豊竹肥前座にて、浄瑠璃狂言に作る。松平一学知行所、下総相馬郡早尾村、名主八右衛門組下百姓富吉、心願の意趣左に申上候といふ書付懐中す。敵の首を切落したる者は此の富吉、討たれたるものは同村百姓甚内と云うものなり。富吉(本年28歳)当時剣道指南戸ヶ崎熊太郎召使初太郎と云う。甚内、当時御手先浅井小右衛門組二宮丈右衛門(本年47歳)」(『武江年表』・天明3年〔1783〕10月8日の項)
【碑文解題】癸卯天明陽月八 天明三年十月八日
天明年間癸卯(みずのとう)の年すなわち天明三年
陽月は十月の異称。八は8日
二人不戴九人誰 天を戴かざる仇は誰か
二と人を合わせると天という字、九と人をあわせ仇。
同有下田十一口 富吉
同の下に田がある字は富、十一口を合わせると吉。
湛乎無水納無絲 甚内
湛に水無くは、甚の意。納に絲が無いのは内の意。
南畝子 太田南畝(蜀山人)
(注4)「牛込神楽坂はすこぶる急峻なる長坂にて、車馬荷車並に人民の往復も不便を極め、時として危険なることも度々なれば、坂上を掘り下げ、同所藁店下寺通辺の地形と平面になし、又小石川金剛寺坂も同様掘り下げんとて、頃日府庁土木課の官吏が出張して測量されしと」(『郵便報知』明治13年3月30日)
(注5)「坂 右は町内家前に有之北の方より東之方え下り高凡3丈7尺程北の方1町斗有之幅上の方6間程下の方4間半程」(御府内備考)
長60間幅6間(東京府志料)
(注6)午の日にも縁日が開かれたが、これは明治になってからの催しで境内に
祀られた出世稲荷の縁日。
坂名の由来
祭礼の神楽の音が聞こえてくるところからついた坂名と伝えられているが、どの神社の祭礼かとなると、江戸時代すでに諸説あって確かでない。
@ 神楽坂の中ほどに穴八幡の御旅所があり、ここで神楽を奏した。(江戸志・江戸名所図会)
A 若宮八幡宮で奏する神楽の音が聞こえた。(江戸砂子・江戸名所図会)
B 市ヶ谷八幡宮の祭礼で神輿が牛込御門の橋の上にしばらくとどまって神楽を奏した。
(江戸砂子)
C 津久戸(筑土)明神が田安から牛込へ遷座のおり、この坂で神楽を奏した。(改選江戸志・江戸名所図会)
D 赤城明神の神楽堂があった。(望海毎談)
いずれの神社から神楽の音が聞こえてきても納得できる範囲内にあり、特定するのは困難。あちらこちらから神楽の音が聞こえてきたと大雑把にとらえていいのでは?
神楽坂への行き方
JR線飯田橋駅、地下有楽町線・南北線飯田橋駅、大江戸線牛込神楽坂駅よりすぐ。
坂の所在地:東京都新宿区神楽坂(早稲田通りの坂で、外堀通りと大久保通りの間)
現在の神楽坂
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外堀通りからみた神楽坂 坂の途中、人も自動車も多い通りで活気がある。 |