現在の清水坂
不忍池と上野公園の間の道を上野動物園の敷地に沿って北上し、森鴎外ゆかりの水月ホテル鴎外荘の前を過ぎると、
やがて下谷警察署の交番(台東区上野公園9-83)のある三叉路に出る。三叉路を右折して50mほど進めばそこが清水坂の坂下だ。坂下で90°向きを変えると都立上野高校の正門前までゆるやかな上りが続く。坂の長さは150bほどあるが、標高差はわずか1bほどしかない。緩やかな坂だ。坂下の曲り角に台東区教育委員会がたてた坂標があり、以下の説明が書かれている。「坂近くに、弘法大師にちなむ清泉が湧いていたといわれ、坂名はそれに由来したらしい。坂上にあった寛永寺の門を清水門と呼び、この付近を清水谷と称していた。かつては樹木繁茂し昼でも暗く、別名暗闇坂ともいう。」
上野公園の緑が印象的な坂だが、坂の標識に書かれた暗闇坂のイメージとはほど遠い。坂名の由来になったという「弘法大師にちなむ清泉」や、坂上にあったという「寛永寺の清水門」はもはや存在しない。
明治時代の清水坂
A図、谷中清水町の東側の道が清水坂である。明治20年、清水坂の東側一帯は寛永寺の子院、護国院とその墓地であった。(護国院の墓地の一部は現在、都立上野高校となっている。)坂の両側は崖地で、谷中清水町側一帯は樹林であった。墓地と樹林に挟まれた坂が昼なお暗くさびしい道であったことは 想像するに難くない。「以前は全くその名の通りくらやみ坂で、樹木のこんもりとして陽の目もみないような場所であったが、次第に住宅地となり、また動物園ができて、樹木は切りとられ、すっかり変わってしまった。」と『台東区史』は谷中清水町の項で述べている。坂下にある上野動物園(明治15年開園)は、すでに開園しているものの『東京実測図』が描く清水坂周辺は、別名の暗闇坂の呼び名のように暗くさびしい場所であったことを示してもいる。
A)内務省地理局『東京実測図』部分、明治20年(1887)
地図に清水坂、清水門、護国院の名は記されていない。
『東京府志料』(明治5〜7)は谷中清水町の項で「此地は華族大河内信古の邸なり、明治5年新に町名を加ふ。上野清水門の前なるによりての町名なり。」と記した後に続けて「無名坂 町の東界清水門の通にあり」と記している。場所から考えて無名坂は清水坂であろう。
『新撰東京名所図会』(明治29〜42)は「清水坂 池の端より谷中に至るの坂路にして、即ち動物園の裏手に当る。昔時此所に門を設け、之を清水口と称せり。」と清水坂の名を記している。
『新撰東京名所図会』は清水坂の名を記しているものの、『東京府志料』がこの坂を無名坂としていることは何を意味しているのだろう。ちなみに多くの東京の坂をとりあげている明治の地誌『東京地理沿革誌』(明治23年)や『東京案内』(明治40年)は谷中清水町について簡潔に述べているが、清水坂についての記述はない。その一方で、江戸時代の文献には確かに清水坂の名が認められ、清水坂を「無名の坂」だとする記述とは合致しない。
江戸時代の清水坂とその周辺
1、弘法の清水と清水稲荷、清水門
「清水稲荷社」の初期の記録は『江戸名所記』(寛文二年・1662)や『江戸惣鹿子』(元禄三年・1690)の記述であろう。
「谷中清水稲荷社 谷中通清水のいなりハ、むかし、弘法大師御修行の時、此所をとをり給ひしに、大に喉(のんど)かハき給ふ、一人の嫗(うば)あり、水桶をいたゞき、遠き所より水を汲みてはこぶ、大師このうばに水をこひ給ふ、嫗いたハしくおもひ奉りて、水をまひらせていハく、この所更に水なし、わか年きハまりて、遠きところの水をはこぶ事いとくるしきよしをかたり申けり、また、一人の子あり、年ころわづらひふせりて、うばがやしなひともしく侍へりと歎きけれバ、大師あはれミ給ひ、独鈷(とつこ)をもって地をほり給へハ、たちまちに清水わき出たりし、そのあぢハひ甘露のごとく、夏ハひやゝかに、ふゆハ温也、いかなる炎天にもかハくことなし、大師又、ミづからこの稲荷明神を勧請し給ひけり、うばが子、此水をもつて身をあらふに、病すミやかに、いへたり、それよりこのかた、此水にてあらふものハ、よく、もろもろのやまひいへずといふことなし、この故に、清水のいなりと申す。又、人の家たちつゞきて、すなハちこゝを清水町となづく、(後略)」(『江戸名所記』)
「清水稲荷、むかし弘法大師御修行の時、此所に勧請したまふ。則大師独鈷をもつて地をほり給へば水わき出たり。これゆへに清水の稲荷といふなり。」(『江戸惣鹿子』)
『江戸名所記』や『江戸惣鹿子』が伝える弘法大師ゆかりの清水や清水稲荷は、同時代の地図にも示されている。『新板江戸大絵図』(寛文十一〜十三年・1671〜73)に「イナリ」「明地」(注:清水町跡)とある。以下『江戸方角安見図鑑』(延宝八年・1680)と『江戸図鑑綱目・坤』(元禄二年・1689)の例を見てみる。
B)『江戸方角安見図鑑』部分(延宝八年・1680)国立国会図書館所蔵
「イナリ」「志ミづ丁ノあと」とある。イナリの右側の道に坂の記号
(横線のシマ模様)がみられる。坂名は記されていないがD図と比較
すると清水坂であることがわかる。
C)『江戸図鑑綱目・坤』部分(元禄二年・1689)国立国会図書館所蔵
「イナリ」「清水門」の名が記されている。
B,C両図に載る「イナリ」が『江戸名所記』(寛文二年・1662)や『江戸惣鹿子』(元禄三年・1690)が云う「(谷中)清水稲荷社」である。
2、清水門
C図に清水稲荷の前に清水門が描かれており、清水門が清水稲荷の前にあったことを裏付けている。清水門は寛永寺の出入り口に設けられた門の一つで、弘法大師ゆかりの清水・清水稲荷にちなんで名づけられた名前であった。
3、谷中清水町
『江戸名所記』が「谷中清水社」の項で「人の家たちつゞきて、すなハちこゝを清水町となづく」と記した谷中清水町は、明治五年起立の谷中清水町(A内務省地理局『東京実測図』)とは別の町で、川越喜多院東照宮の普請御用を勤めた田中四郎兵衛が慈眼大師(天海)から与えられた町屋敷であった。「清水稲荷社 東叡山お構内の元清水谷と申すところは、古来は清水町と申す町屋にて、田中四郎兵衛と申す者、寛永年間川越喜多院御宮ご普請相勤めし節ご褒美に慈眼大師より右清水町にて町屋拝領仕り候節、往古より鎮座これある社にて、その時より田中四郎兵衛守護仰せつかり候」(『御府内備考』巻之十六 浅草)
清水町はB図に「志ミづ丁ノあと」、D図に台形の土地として描かれている場所にあった町だが、寛永元年(1661)本所へ移転した。
4、清水坂
『江戸図正方鑑』(元禄六年・1693)に「シミス坂」の名が載っている。場所はD図の台形をした土地の北側にあたる。この土地はB図『江戸方角安見図鑑』に「志ミづ丁ノあと」と記された台形の土地のことであり、同図「イナリ」の上部には坂名こそ書かれていないが、坂を表わす記号(横線のシマ模様)が描かれている。
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「シミズ坂」の名が載る
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D)『江戸図正方鑑』部分(元禄六年・1693) 個人蔵
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上掲図以外にも、『新板江戸大絵図』(享保七年・1722 見須屋板)、『享保御江戸図』(享保十年・1725 見須屋板)に「シミス坂」の名を確認することができる。いずれにしろ地図に清水坂の名が載るのはこの頃までで、時代が下がると清水坂の名は地図上に見られなくなる。
『江戸砂子温故名跡誌』(享保十七年・1732)は「忍が岡 当山の惣名なり。又上野と云は、此地始は藤堂和泉守殿屋しきなり。草創のころあけさせられ、その代りの地を染井に給ふ。藤堂在城伊賀国上野は三方より上りて小高き山也。その土地の似たるによつて上野と呼。伊賀の上野にも車坂・清水坂などゝ当山同名の所あり。」とわずかに清水坂の名を記している。(注:上野の名称由来は複数あるが、小田原北条氏の『小田原衆所領役帳』(永禄二年・1559)に地名としての上野の名がすでにみられることから、藤堂高虎の所領・伊賀上野に地勢が似ていたので上野と呼んだとの『江戸砂子』の記述は疑問視されている。)
『御府内備考』(文政九年〜十二年・1826〜1829)は「谷中清水町 元谷中清水坂ニ而(て)清水町と申(もうす)」と清水坂の名を載せている。(注:ここに記された清水坂は寛文五年(1661)に谷中清水町が本所へ移転する前の旧清水坂である。)
『万世江戸町鑑』(宝暦七年・1757)や、以後に刊行された町鑑にも「車坂 屏風坂 信濃坂 稲荷坂 清水坂」とあり上野山内の坂と共に清水坂の名を載せている。(注:町鑑の刊行年代からみて移転後の清水坂であろう。この事は後段で触れる。)
5、清水稲荷、谷中清水町および清水門の移転と、清水坂の消滅
まずこの地、上野の台地にあったのは清水が湧く清水稲荷であった。清水門、谷中清水町、清水坂も、弘法大師ゆかりの清水と清水稲荷の名から清水の名を冠した名前で呼ばれるようになったのだが、寛永寺境内の拡張とともに移転させられた。
まず谷中清水町が寛文元年(1661)に東照宮火除地となり本所へ移転し、本所清水町(現墨田区)となった。この事は『御府内備考』に詳しい。「当町は(本所清水町)、元地谷中清水坂にて清水町と申す。東叡山目代田村権右衛門ご支配の年貢町屋に御座候ところ、寛文元年おそれながら権現様御宮のお火除け地になり・・・(後略)」(『御府内備考』巻之百三十二 本所)本所へ移転後の跡地はB図『江戸方角安見図鑑』(延宝八年・1680)に「志ミづ丁ノあと」とある台形の土地となって残った。
清水稲荷は寛永寺中堂建立の時(元禄年中1688〜1704)に(浅草)駒形堂の南方に移転。『江府名勝誌』(享保十八年・1733)は「清水稲荷社 駒形堂の南方に在。元は上野清水門の外に在しが、元禄年中に中堂御建立の時、当所に引移さる。」とある。この文章は「清水稲荷社」が元禄年中(1688-1704)に(浅草)駒形堂の南方に移されたというだけでなく清水門の外にあったと述べており、B,C図とも合致する。
元禄から宝永(1688〜1711)にかけて寛永寺の北西部分にあたる谷中側の寺域が拡張された。これは勅額火事(元禄十一年・1698)と五代将軍綱吉の死(宝永六年・1709)にともなう御廟(常憲院廟)建設のためであった。現代風に言えばこの地域の再開発ともいえる大規模な工事であった。清水門の移転も寛永寺子院の移転もこのことと関係する。
上掲のC図とE図を比較すると、大雑把ではあるが清水門と寛永寺子院の移転場所を知ることが出来る。松平伊豆守屋敷(C図D、E図D)は移動していないのでそれぞれの移動位置と比較されたい。
清水門は清水稲荷の東に在ったが(C図@)新たに移ってきた護国院と養壽院の間(E図@)に移転。
C図のA護国院(注1)、B養壽院(注2)、C松林院(注2)はそれぞれE図A、B、Cの位置に移転。
清水坂は(C図清水稲荷に接してその北にあった)この時の工事で寺域に取り込まれて消滅した。
移転前の清水門や清水稲荷、消滅した清水坂があった確かな場所を示すのは難しいが、『台東区史』は
「この清水稲荷は元禄の頃まではこの地にあったが、元禄二年浅草の駒形へ移され、その跡は現在、動物園ができて全くなくなってしまった。」とし、玉林晴朗氏は著書『下谷と上野』(昭和7年)で「(清水門の)
その前の位置は現在の動物園内のライオンや虎等の動物園内北部にある閑々亭裏(注4)
であって、そこが寛永以前の入口であった。」と推定している。(G写真 閑々亭周辺)
(注1:護国院の寺伝によると同寺は寛永元年(1624)釈迦堂の別当寺として、現東京国立博物館の右手奥に開創、承応二年(1653)・延宝八年(1680)寺地を移転し、さらに宝永六年(1709)松平伊豆守屋敷付近の現在地に移転したとある。)
(注2:「(宝永六年・1709 常憲院、徳川綱吉の霊屋造営の為)津梁院、養壽院、松林院、信解院、東圓院、右五ヶ寺このたびの御仏殿地召し上げられる由」『東京市史稿 市街篇』)
(注3:地図に松平伊豆守とあるのは、三河吉田藩下屋敷のことで寛永十年(1633)松平信綱が拝領した屋敷地であった。その後大河内家の地所となり明治5年谷中清水町となった。A図に谷中清水町とある。)
(注4:閑々亭 上野動物園東園内、猛禽舎の隣に建つ茶亭。『台東区史』に「(藤堂)高虎が(徳川)秀忠、家光を迎えるために、寒松院内に造ったもの。閑々亭は家光の命名」とある。)
6、谷中道の変更と新・旧ふたつの清水坂
谷中道は、寛永寺(現在の上野公園)と不忍池の間を寛永寺外郭に沿って北上し、谷中方面へ抜ける道であった。上野から谷中方面へのメインルートで古くから利用された道でもあった。
初期の谷中道は、旧谷中清水町の東を通り清水稲荷と清水門の間を谷中へ抜けていた。(B,C,D図参照)この道の途中にあった坂が旧清水坂である。旧清水坂が清水稲荷、清水門、谷中清水町と隣り合っていたこと、元禄から宝永(1688〜1711)にかけて寛永寺の北西部分にあたる谷中側の地域が拡張され再開発されたこと、この時旧清水坂が消滅したことなどはすでにふれた。(注:旧清水坂・新清水坂との呼称はない。便宜上、本稿では旧谷中道の坂を旧清水坂、新谷中道の坂を新清水坂と呼ぶ。)
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← B)『江戸方角安見図鑑』部分
(延宝八年・1680)
国立国会図書館所蔵
「谷中みち」とある。
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F) 『分間江戸大絵図』部分
(享和三年・1803)
国立国会図書館所蔵 →
「清水門」「谷中ミチ」の名が
載っている。(赤字で加筆)
谷中道の道筋は現在とほぼ同じ
である。
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宝永六年(1709)、松平伊豆守屋敷の東側に護国院、養壽院、松林院
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G) 現在の谷中道と清水坂周辺 (Google earthより)
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などの寺が移転してきたのと同じ頃、清水門も護国院と養壽院の間に再建された。この時期の清水門について『江戸砂子温故名跡誌』(享保十七年・1732)は
「清水門、護国院の前 谷中道へ出る所」と記している。谷中道の道筋が変更されたのもこの頃の事で、『天保改正御江戸大絵図』(E図)や『分間江戸大絵図』(F図)にその道筋が描かれている。その新谷中道の途中の坂が新清水坂であった。
新清水坂は江戸の坂?
新谷中道の松平伊豆守屋敷と護国院の間の坂がいつ頃から清水坂と呼ばれるようになったのであろう。『新撰東京名所図会』(明治29〜42)は清水坂の名を記しているものの、いつ頃からそう呼ばれたのかについてはふれていない。『東京府志料』(明治5〜7)は無名の坂だと記している。(以上、前掲「明治時代の清水坂」の項)『角川日本地名大辞典』は「清水坂 台東区上野公園の東わきを池之端3丁目から4丁目へ屈折して北上する坂。別称は暗闇坂。坂西側の上野高校の敷地はもと寛永寺の末寺護国院の墓地で反対側には三河豊橋藩主大河内氏の屋敷があり、両側の木立がうすぐらいために暗闇坂とも呼ばれた。大河内邸のうち池之端の北側半分ほどが上地されて、そこに谷中清水町が起立し、清水坂ができた。」と記し、清水町ができてそのことによって清水坂ができたとしている。即ち、『東京府志料』と『角川日本地名大辞典』は新清水坂を江戸の坂名とは考えていない。
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『万世江戸町鑑』(天保六年・1835) 国立国会図書館所蔵
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最後に『江戸町鑑』に載る清水坂について検討しておきたい。『万世江戸町鑑』(宝暦七年・1757)や、以後に刊行された町鑑、さらに『泰平御江戸町鑑』(天保十五年・1844)まで一貫して清水坂の名が記載されていることは考慮すべきであろう。刊行年によって多少の違いはあるものの、
「車坂、屏風坂、信濃坂、稲荷坂、清水坂 右ハ上野御山門阿(あ)り」(天保六年・1835)とある。
(ちなみに車坂下に車坂門、屏風坂下に屏風坂門、信濃坂下に坂本門、稲荷坂に穴稲荷門、清水坂上に清水門があった。上野山内には清水(きよみず)観音堂があり、観音堂脇にきよみず坂があることから清水坂がしみず坂・きよみず坂のいずれを指しているのか迷うところだが、山門との関係を考えれば江戸町鑑の云う坂はしみず坂である。)刊行年から考えれば『江戸町鑑』のいう清水坂は新清水坂であろう。(旧清水坂が消滅し、清水坂が別の場所に移ったことなど度外視して、あるいは気づかぬままに坂の名前だけを『江戸町鑑』に載せつづけたと考えられなくもないけれど。)
新清水坂の命名が江戸なのか、明治であるのか今一つ確認する手立てに乏しいのだが、『江戸町鑑』の記述からは江戸の坂である可能性が強い。
(注:『江戸町鑑』は、享保十四年・1729以後刊行され続けた江戸の市政名鑑というべき書である。参考にしたのは「坂の部類」で発行年によって差はあるものの天保六年刊の『江戸町鑑』には133の坂名が記載されている。)
それにしても清水稲荷、清水門、谷中清水町、旧清水坂が最初の地から移転あるいは消滅した後に、時を経て現・都立上野高校周辺に清水門、谷中清水町、清水坂ができたことは、同名の門、町、坂がまるでコピーされて存在したかのようだ。そしてそのことが、例えば谷中道の道筋が変ったこと、坂名の由来となった弘法大師ゆかりの清水稲荷が移転したこと、谷中清水町、谷中門の移転、旧清水坂の消滅等々の原因が重なって、清水坂の由来そのものが曖昧になり、さらには新旧二つの清水坂さえも混同されていったと考えられる。これらを記録した文献の齟齬もまたこれらの事に起因している。
【参考文献】
『江戸方角安見図鑑』(延宝八年・1680)国立国会図書館所蔵
『江戸図鑑綱目・坤』(元禄二年・1689)国立国会図書館所蔵
『江戸図正方鑑』(元禄六年・1693)個人蔵
『天保改正御江戸大絵図』(弘化三年・1846)国立国会図書館所蔵
『分間江戸大絵図』(享和三年・1803)国立国会図書館所蔵
『東京実測図』(明治20年・1887)内務省地理局
『江戸名所記』朝倉治彦校注 名著出版刊
『江戸惣鹿子』(元禄三年・1690)
『江戸砂子温故名跡誌』小池章太郎編 東京堂出版復刻(享保十七年・1732)
『江府名勝誌』藤原之廉撰・横関英一校注 有峰書店刊
『御府内備考』大日本地誌大系編輯局編 雄山閣
『東京府志料』(明治5〜7)東京府
『新撰東京名所図絵』(復刻『東京名所図会』睦書房)
『東京市史稿 市街篇』
『台東区史』(昭和30年)台東区役所
『下谷と上野』玉林晴朗著(昭和7年)東台社
『江戸町鑑集成』加藤貴編・東京堂出版
『万世江戸町鑑』(天保六年・1835)国立国会図書館所蔵
『角川日本地名大辞典・東京都』角川書店
『東京の地名』平凡社
清水坂・坂標 台東区教育委員会
Google earth