江戸坂見聞録
松本 崇男



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 御薬園[おやくえん]
 (別名 薬園[やくえん]坂・御薬苑[おやくえん]坂・相模殿[さがみどの]坂)
     場所:東京都港区南麻布3丁目10と11・13の間

長谷川雪旦画「七佛薬師・氷川明神」
『江戸名所図会』巻三より(天保五年刊・1834)

 上図は江戸末期の御薬園坂周辺を描いたものである。図の右下から左上に上る坂が御薬園坂、坂下(図右側)に七仏薬師を祀る医王山東福寺、上方に氷川明神の社が描かれている。御薬園坂に面して本村町(ほんむらちょう)と呼んだ町屋が並んでいる。坂は「六拾間餘道巾四間(約109m、幅約7m)」(『御府内備考』文政九年〜十二年・1826〜1829)との記録が残る。切絵図、尾張屋板『東都麻布之絵図』(以下切絵図と記す)と比較すると当時の坂周辺の様子がさらによくわかる。


@ 切絵図 尾張屋板『東都麻布之絵図』(嘉永四年・1851)御薬園坂周辺部分
(アルファベット加筆)国立国会図書館蔵

 A 御薬園坂 
 B 七仏薬師(東福寺)
 C 氷川明神  
 D 土屋采女正下屋敷(御薬園跡)
 E 松平陸奥守下屋敷・仙台坂 
 F 四の橋 G 明称寺 H 分れ道

 古川に架かるF四の橋(切絵図には「四ノ橋 相模殿橋ト云」と記されている。御薬園橋とも呼ばれた)を渡り D 土屋采女正屋敷とG明称寺の間を北へ上る坂が A 御薬園坂で、切絵図上には「御ヤクエンサカ」とある。B 七仏薬師は「東徳寺」と記されているが、これは切絵図の誤記である。正しくは医王山薬師院東福寺で天台宗寛永寺の末寺であった。『江戸名所図会』に「貞享元年(1684)いまの地へ移されける」とある。東福寺に祀られていたのが七仏薬師であった。東福寺は明治初期廃仏毀釈の影響をこうむって廃寺となった。本堂(現存)は坂下の明称寺へ、七仏薬師像は品川区の安養院に移設されたが戦災で焼失したという。C 氷川明神は、今も同じ場所に「氷川神社」として祀られている。『江戸名所図会』の図左上に描かれたH分れ道を北へ進むと氷川明神前を通り、一本松坂、暗闇坂を過ぎ鳥居坂へ出る。同じH分れ道を東へ向うと松平陸奥守下屋敷前(現・韓国大使館)を通って二の橋へでる。切絵図@には E 松平陸奥守屋敷前に仙台坂と記入されている。仙台坂の名称は松平陸奥守の屋敷が仙台藩伊達家下屋敷であったことに由来する。これらの道筋は今も変わっていない。
 『江戸名所図会』の挿図には描かれていないが、切絵図には御薬園坂の西にD土屋采女正の下屋敷(常陸土浦藩9万5千石)が載る。そこが幕府の御薬園だったことから御薬園坂と呼ばれるようになった。
薬園坂 目黒の近所白銀村の坂をいふなり、こゝにもと御薬園ありしゆへに是を名付るなり。」(『江戸惣鹿子名所大全』元禄三年・1690)
御薬苑坂 御殿跡より辰方、土屋氏の下屋敷前より新堀ばたへ下る坂也。」(『江府名勝誌』享保十八年・1733)

 御薬園坂の名の由来となった御薬園についてふれておこう。『徳川実記』大猷院殿御実記巻三十九に「寛永十五年十月廿九日 こたび品川、牛込の両地薬苑をひらかる。よて医員池田道陸重次は品川、山下芳寿軒宋琢は牛込の園監として、各稟米二百俵くだされ、同心二人園丁十人づつ附属せらる。道陸重次園内に薬師堂をいとなみ栄草寺と号す。」とある。幕府は寛永十五年(1638)(設立年には異論もある)品川と牛込に初めて御薬園を設けた。『徳川実記』に「品川の薬苑」と記されたのが麻布御薬園、麻布南薬園のことで、「牛込の薬苑」は、後に音羽護国寺の敷地となった高田御薬園を指している。しかし麻布御薬園の地に白金御殿が建てられることとなり、御薬園は小石川の白山御殿内(現在の東京大学小石川植物園)の敷地の一部に移設された。麻布御薬園の白山御殿への移設に先立って、高田御薬園も護国寺造営のため麻布御薬園に統合されていたので、両薬園ともに白山御殿内に移転したのであった。御薬園の移設年は、貞享元年(1684)(『芥川文書』東京市史稿)あるいは正徳三年(1713)(『御府内備考』)とも伝わる。江戸図鑑綱目・坤(元禄元年・1688)をみると薬園のあった場所が土屋相模守屋敷に変わっていることから貞享元年(1684)説が正しいようだ。


A 新板江戸外絵図(寛文五枚図)
寛文十三年(1673)
国立国会図書館蔵


 D:「御薬ゑん」とある。
 A:坂の印IIIII線が書かれているが坂名は記されていない。


B 江戸図鑑綱目・坤 元禄元年(1688)
国立国会図書館蔵  

 D:新板江戸外絵図(寛文五枚図)に「御薬ゑん」と記入されていた場所は「土屋相模守」屋敷にかわり、脇に「是ヲ本(もと)御薬園ト云」と記されている。御薬園坂の別名「相模殿坂」は土屋相模守屋敷に由来する。

 『江戸惣鹿子名所大全』(元禄三年・1690)に「薬園坂 目黒の近所白銀村の坂をいふなり、こゝにもと御薬園ありしゆへに是を名付るなり」とあるのが御薬園坂の初期の記録であろう。『江戸惣鹿子名所大全』が刊行されたとき御薬園はすでに小石川に移された後だが、実際に御薬園坂と呼ばれるようになった年代は、御薬園が麻布にあった時期と思われることから、寛永十五年(1638)から貞享元年(1684)までの間には御薬園坂と呼ばれるようになっていったものと思われる。御薬園坂の名は御薬園に由来する名ではあるが、薬園が移転した後も長くそう呼ばれ続けた。この地に薬園が無くとも、御薬園坂の名はかつてこの地に薬園があったことを思い起こさせる名となったのである。

 御薬園坂の別名に役人坂、御役人坂がある。実際にそう呼ばれていたのか疑問が残る坂名だ。江戸時代には地名・坂名を記す際、しばしばカタカナが使用された。当時は木版印刷の時代だったが、漢字を彫って印刷すると画数が多くなるためにカタカナが多用された。薬園坂をカタカナで書くと「ヤクエンサカ」となる。「ヤクエン」の「エ」が「ニ」にかわると「ヤクニン」となる。原因は原稿を版木に彫る時の間違い、あるいは印刷したときに文字がかすれて読みにくくなったといったことが考えられる。いずれにしても間違いから生じた坂名である。


『江府名勝志』(享保十八年・1733)
麻布部分

 A ヤクエンサカとあるが、「エ」の部分がかすれて「ニ」とも読める。
 B ヤクシ(七佛薬師)
 D 御ヤクエン
 E 松平ムツ(松平陸奥守屋敷)
 F サカミハシ(四の橋の別名か)

『江府名勝志』の例では、かろうじて「ヤクエンサカ」と読めるが、こうした間違い例は意外に多い。


例@ 切絵図尾張屋板『飯田町駿河台小川町絵図』 文久三年(1863)改正図に「フミサカ」の名が載る。
淡路坂の南の坂「芥坂」をカタカナで記すと「ゴミサカ」 となる。「ゴ」を「フ」と間違えた。

例A 上記と同図中に「エウガサカ」とある。
甲賀坂「コウガサカ」の「コ」を「エ」と間違えた。

例B 須原屋佐助板『江戸町つくし』(江戸後期・ 出版年不明)に「鰹坂」の名が載る。「鬘坂・ 桂坂・カツラサカ」の「ラ」を「ヲ」と 間違えて「カツヲサカ」となった。


 例@、Aは単なる印刷の間違いで坂名として後世に伝わることはなかった。例Bは間違いが坂名として記録された例である。薬園坂・御薬園坂の別名を役人坂、御役人坂としたのも同様の間違いであろう。

【参考資料】
『江戸名所図会』ちくま学芸文庫
『江戸図鑑綱目・坤』国立国会図書館蔵
『江戸名所記』朝倉治彦校注 名著出版刊
『江戸砂子温故名跡誌』小池章太郎編 東京堂出版復刻
『江戸惣鹿子名所大全』藤田理兵衛 江戸叢書
『江府名勝誌』藤原之廉撰・横関英一校注 有峰書店刊
尾張屋板『東都麻布之絵図』国立国会図書館蔵
『御府内備考』大日本地誌大系編輯局編 雄山閣
『新板江戸外絵図(寛文五枚図)』国立国会図書館蔵
『新撰東京名所図絵』(復刻『東京名所図会』睦書房)
『徳川実記』国史大系 吉川弘文館
『東京市史稿 市街篇』東京府
『江戸の坂 東京の坂』横関英一 中公文庫

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