江戸坂見聞録
松本 崇男



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六角坂ろっかくざか   東京都文京区小石川二丁目17と18の間


尾張屋板『東都小石川絵図』安政四年(1857)改訂部分

江戸の道は案外に残っているもので、今もその道筋をたどって歩けることに驚かされる。上掲の切絵図右端の南北に長く続く青色に着色された箇所は「小石川」(上掲地図には小石川大下水とある)だが、今は暗渠となってその上を都道436号線(小石川―西巣鴨線)が通っている。切絵図に描かれた道(黄色に着色されている箇所)と極端に変わった箇所はこれくらいのもので、多くの道が今もそのまま利用されている。

小石川に架かった橋@を渡って西へ進むと道は登り坂(註1)となり沢蔵主稲荷Aの前を通って伝通院Bへ至る。いっぽう、坂下にあたる小石川裏門前町CのT字路で左折して、杉浦主税屋敷Dの角を曲がると道は西へ向かってゆるやかな上り坂となる。この坂が六角坂で、六角越前守屋敷まえEで鉤の手状に曲り、さらに上り坂となって小石川冨坂町Fへと南進し冨坂に出る。この道など、ずいぶん複雑に折れ曲がった道なのだがいまもそっくり江戸の道筋をたどることができる。

坂名の由来は坂脇に六角氏の屋敷があったことから呼ばれたもので『御府内備考』は、「中程に六角頼母様御屋敷有之候故、古来より唱来り候義と奉存候」と記している。「巾八間程(4.4m)、長三拾五間程(19m)」(『御府内備考』)の坂であった。

いつ頃から六角坂と呼ばれるようになったか明らかでないが、下に示した『御府内沿革図書』享保十四年(1729)の図に六角主殿とあることからこの頃にはすでに六角家の屋敷(ピンク色に囲われた箇所)がこの地にあった。(図中、黄色の部分が六角坂)


『御府内沿革図書』享保十四年(1729)の図

六角家は公家烏丸光廣の次男六角廣賢を初代とする家で、元禄二年(1689)、二代廣治(ひろはる・1644〜1719)のときに高家となった。高家というのは「忠臣蔵」で赤穂義士の敵役となった吉良上野介がそうであったように、「朝廷への使節、勅使、院使の接待、日光への御代参、殿中の作法など幕府礼式のすべてを司る。」(稲垣史生『時代考証事典』新人物往来社)職務であった。『御府内沿革図書』に記された六角主殿は三代廣豊(ひろとよ・1682〜1748)のことで、元禄十年(1697)家督を継ぎ寛永二年(1705)二千石を給されている。以後、六角家は江戸期を通じてこの地に屋敷があった。こうしたことから六角家の屋敷の前の坂をいつしか六角坂というようになったのである。

時代がさかのぼるが、『御府内沿革図書』延宝年中(1673〜1681)の図によると六角家の屋敷地は、その前は「御餌指之者大縄地」(下図ピンクの箇所)であった。


『御府内沿革図書』延宝年中(1673〜1681)の図


「御餌指之者大縄地」というのは、鷹匠配下で鷹狩に使われる鷹の餌となる小鳥を捕らえることを役職とした「御餌差衆」の拝領屋敷がおかれた所である。「御餌指之者大縄地」ばかりでなく、六角坂の南には上冨坂町、中冨坂町、下冨坂町がある。(尾張屋板『東都小石川絵図』では、小石川上冨坂町、小石川中冨坂町、小石川下冨坂町とある。)これらの町も御餌差衆に与えられた土地で以前は餌差町と呼んでいた。(左の図は『元禄六年江戸図』 エサシ丁と記している。)

文京区史によれば、「富坂のあたり(小石川)は、すでに慶長年中(1596〜1614)に餌差衆のほか、諸組の同心衆や坊主衆など、小役人の屋敷地として与えられ、早くから農村より武家地への転換が進められていた。」場所であったという。ところが、元禄六年(1693)に餌差町は町方の支配となり富坂町に町名を変更させられた。『武江年表』は「元禄六年五月 鷹匠町を小川町、小石川餌差町を富坂町と改めらる」と記録している。同時にこの年、幕府鷹部屋の鷹は新島に放された。さらに元禄九年(1696)には鷹匠の役職も廃止される。鷹匠などの役人は江戸市中の犬を収容するため前年に完成した四谷や中野の犬小屋役人に異動となる。こうした一連の動きを見ると、どうやら町の名前の改変には「生類憐みの令」が関係していたと考えられる。犬公方とよばれた五代将軍綱吉による「生類憐みの令」が最初に出されたのが貞享二年(1685)のこと。「将軍お成りの道筋に犬猫が出てもかまわないから、つないではいけない」という命令がでる。その後つぎつぎと布令がだされる。犬愛護令が特に有名だが、対象は馬、猿、鳥、魚、蛇、等々に及んだ。鷹狩は軍事訓練をかねて行ったもので、武家として重要な行事であったのだが、「生類憐みの令」に背くからという理由で鷹狩が禁止されると、鷹匠を廃止しさらに関連する町の名まで改称させたのである。

「生類憐みの令」は宝永六年一月(1709)綱吉死去まで続くこととなる。家宣は、六代将軍になると直ちに「生類憐みの令」を廃棄した。鷹狩が再興され、関係の役職が復活するのは、八代将軍吉宗の時代のことであった。餌差町の名は、明治二年(1869)になってようやく復活する。下富坂町と近傍の土地を分割し小石川餌差町が成立、明治四十四年に小石川の名が消え餌差町となって昭和十五年町名変更まで存続した。六角坂とその周辺は、そんな歴史が隠された土地であった。 


(註1)尾張屋板『東都小石川絵図』に縁請院とある寺は伝通院の塔頭であったが、明治17年(1884) に善光寺の分院となり善光寺月参堂と称した。この寺の前の坂は、現在、善光寺坂とよばれているが坂名は明治になってからの呼び名である。






  現在の六角坂

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