霞が関坂
徒に名をのみとめてあづま路の霞の関も春そくれぬる よみ人しらず(新拾遺和歌集)(注1)
長谷川雪旦画『江戸名所図会』巻三(天保5年刊・1834より) 霞が関
霞ヶ関坂の坂下へ来たところで大名行列に出あった。身分の低い私は急いで平伏しようとしたが、誰も行列を気にする様子もなく道の端を通り過ぎてゆく。そこで立ち止まって行列をさりげなく見物することにした。左の方から一組の行列が霞ヶ関坂の坂下を行きすぎようとするところへ、右からも行列がやってきた。江戸っ子ならどこの殿様の行列なのか紋所でわかるのだろうが平成の世からの旅人である私には見当がつかない。先手の侍を先頭にして長々と行列が進む。大名行列ばかりでなく武士の姿が多いのは、江戸城に近く、このあたり一帯が諸大名の屋敷が立ち並ぶ場所であるためだろう。この道が江戸城への登・下城の道筋になっているようだ。さしずめ江戸の通勤ルートといったところだろう。
霞ヶ関坂の右側の屋敷は、安芸広島藩浅野家42万6千石の上屋敷。左側は筑前福岡藩黒田家52万石の上屋敷だ。石垣となまこ壁が美しい。
江戸散歩には切絵図がかかせない。今日携帯したのは尾張屋板の切絵図『麹町永田町外桜田絵図』だ。地図によれば道を左へ行くと虎之御門、右へ行けば桜田御門へ出る。平成の世では、この道筋は虎ノ門から桜田門へ続く桜田通りにあたる。浅野家上屋敷は総務省、黒田家上屋敷は外務省の敷地となっている。風景が変わっても道筋はあまり変わっていないようだ。
坂の両側の溝を水が勢いよく流れている。平成の霞が関坂と比べると意外と急坂だ。何段かに坂が区切ってあるので傾斜が緩められ歩きやすい。江戸の急坂にはこうした工夫をこらした坂が見うけられる。道幅は平成の坂の半分ほどしかない(注2)。坂上からは町並みの向こうに白帆が浮かぶ江戸湾が見えるはずだ(注3)。坂を上り彦根藩井伊家上屋敷のほうへ行ってみよう。これだけ人通りがあれば見とがめれることもないだろう。
『紫の一本』巻一 御城廻り (天和3年刊・1683)
内桜田の御門を北の方に見なし、西の御丸を西に見て、外桜田の御門を出づる。この御門より南に行きて、浅野氏松平綱晟卿の屋敷と、黒田氏松平右衛門佐光之の屋敷のあはひの道を登る。この坂を霞が関と云ふ。 (中略)
「古へは今の相馬弾正昌胤の屋敷(注4)までも海にて、岸の松生ひ茂りたるよし、旧記に見えたり」と、古老のいへり。霞が関より見れば滄海退遞として水色長天とひとしく「乾坤日夜に浮かぶ」と、浣花老人の作りたりし昔を思ひ、漁翁賈客は一片の帰帆を風にまかせ、款の声しきりなれども、渚の鴎は静かにして、玉藻の床の浮き枕うきことしらで寝ぶるらん。
遺佚がよむ。行く春の雲の通ひ路立ちこめて霞が関にしばしとどめよ
(注1) 古歌にも多く詠われたように中世の関所「霞ヶ関」跡といわれるが、異説もある。霞ヶ関坂とよばれるようになった由縁である。
(注2) 『東京府志料』(明治5〜7年刊)は、霞が関坂について「長109間2尺(198b)巾5間(9b)」としている。坂の大きさは江戸末期と大差ないと思われる。
(注3) 広重『名所江戸百景・霞ヶ関』は、坂上から見た正月の霞ヶ関を描いている。遠くに江戸の家並みと海が描かれている。江戸の町では少し高台に上れば海が見えた。霞ヶ関坂に平行して潮見坂があるが、名前のごとく海が見えたことだろう。
(注4) 陸奥中村藩6万石の上屋敷。現在は農林省(日比谷1丁目)の敷地の一部になっている。
霞が関坂への行き方
地下鉄日比谷線・丸ノ内線・千代田線霞ヶ関駅よりすぐ
所在地:東京都千代田区日比谷2丁目1と2の間
【参考資料】以下は本シリーズ各稿共通の参考資料です。次回よりの掲載を略します。
新訂『江戸名所図会』ちくま学芸文庫
広重『名所江戸百景』
戸田茂睡『紫の一本』小学館日本古典文学全集
復刻『江戸砂子』小池章太郎編 東京堂出版
藤原之廉『江府名勝誌』
近藤義休撰・瀬名貞雄補訂『新編江戸志』
『御府内備考』大日本地誌大系編輯局編 雄山閣
『御府内沿革図書』(『江戸城下変遷絵図集』原書房)
『新撰東京名所図会』(復刻『東京名所図会』睦書房)
『東京府志料』東京都都政史料館編
岸井良衛『江戸・町づくし稿』青蛙房
横関英一『江戸の坂 東京の坂』中公文庫
石川梯二『江戸東京坂道事典』新人物往来社
岡崎清記『今昔東京の坂』日本交通公社
『尾張屋板 江戸切絵図』
『近江屋板 江戸切絵図』
『復元・江戸情報地図』朝日新聞社