まことにまぎらわしいことだが江戸時代、聖堂の周りに三つの昌平坂があった。ひとつは聖堂の南を神田川に沿って昌平橋へ下る坂で相生坂(あいおいざか)とも呼ばれた。(同名の他の坂と区別するためここでは仮に昌平坂Aとする)。二つめの坂は、元禄四年(1691)湯島に聖堂が建立されたとき、聖堂の東側に新たに開かれた坂である。(昌平坂Bとする)。そして三つ目の坂は、宝永年間(1704〜1711)に昌平坂Bに並行してそのさらに東側に新たに開かれた坂で団子坂(だんござか)の名もある。坂下で昌平坂A(相生坂)に合流する。(昌平坂Cとする)
上の図は江戸末期の聖堂を描いた図で、画面下には神田川、聖堂と神田川の間を川に沿って昌平坂A(相生坂)、右隅に昌平坂C(団子坂)が描かれている
(昌平坂と書き込みがある)。昌平坂Bは寛政十一年(1799)に聖堂の敷地内に取り込まれて消滅したため図には描かれていない。
昌平坂の由来と変遷
(湯島)聖堂は、もと上野忍ケ丘にあった林羅山(はやしらざん)邸内の孔子廟を五代将軍徳川綱吉が湯島に移したもので、この時から「聖堂」あるいは「湯島の聖堂」と呼ぶようになった。「昌平」は孔子の生地である魯国昌平郷(ろこくしょうへいごう)にちなんで名付けたものであり、昌平坂の名称も同様である。
聖堂がこの地に移って来る前の湯島周辺は、北を神田明神門前の通り(湯島坂・明神坂ともいう)、南を神田川に挟まれた一画で太田備中守屋敷以外、周りは町屋が占めていた。(昌平坂周辺変遷の図1参照)
元禄三年(1690)、綱吉によって孔子廟の湯島移転が決められた。『徳川実紀』は聖堂移転と昌平坂命名について次のように記している。「(元禄三年)七月九日 この日儒臣林弘文院信篤が宅地の孔廟を、城北相生橋外神田に引うつし、搆造あるべき旨を仰出さる」(『徳川実紀』)さらに「(元禄三年)十二月十一日 孔廟搆造の地を昌平坂と称すべき旨仰出さる」(『徳川実紀』)。図1にある太田備中守屋敷と周りの町家は移転させられ跡地に聖堂が建てられた。それとともに聖堂の東側に新たに道が開かれた。(図2)この道が昌平坂Bである。
『御府内備考』(巻之二十九 湯島之一)は、「『湯原日記』に元禄三年十二月十六日、聖堂の下前後の坂を今より昌平坂と唱ふべきよし定らると見ゆ、是魯国昌平郷になぞらへてかく名付玉ひしなり、元禄四年の聖堂図には堂の東に添て坂あり、其所に昌平坂としるせり」と記している。
←『聖堂之絵図』部分(元禄四年・1691)
国立国会図書館蔵
→
『江府名勝志』部分(享保十八年・1733)
湯原日記のいう「聖堂の下前後の坂」との記述があいまいなため、どの坂が昌平坂なのか明確でないのだが、『聖堂之絵図』(上掲図参照)が聖堂脇の坂を「昌平坂」(昌平坂Bのこと)と記しており、また『江府名勝志』(上掲図参照)が「昌平坂・聖堂の前の坂也」と記述したうえで地図を載せ、相生坂の位置に「セウヘイ坂」としていることを併せて考えれば、「聖堂の下前後の坂」とは昌平坂A(相生坂)と昌平坂Bと考えてよいであろう。つまりあらたに聖堂東側に昌平坂Bができるとともに、聖堂移転前からあった相生坂も昌平坂と改名されたのである。さらにこの時、相生坂(昌平坂A)の坂下で神田川に架かる相生橋も昌平橋と改名された。「(略)筋違橋より西の方の橋を今より後昌平橋と唱うべきよし仰せ下されけり、是までは相生橋または芋洗橋などよびしと云々」(『御府内備考』)。「正月、湯島に大聖殿御普請成る。(中略)二月より相生橋を(古名いもあらひ橋)昌平橋と改めらる。」(『武功年表』元禄四年(1691)の項)
昌平坂周辺の変遷(図1〜6『御府内沿革図書』より聖堂周辺部分図に加筆)
図1
延宝年中(1673〜1681)の図
聖堂建設前の姿
町屋が中心をなしている。図下の相生坂(のちの昌平坂A)は聖堂移転前からあった坂である。
図2
元禄七〜九年(1694〜1696)の図
聖堂建設後の姿
聖堂東側に新たに道ができた。(昌平坂B)
宝永元年〜四年(1704〜1707)(図3)には聖堂東側に広い明地があったが、宝永七年〜同八年(1710〜1711)(図4)になると明地が分割されている。その狭くなった明地と湯島一丁目の間に新たな道ができた。地図に「坂」と書き込まれている。この坂が団子坂とよばれるようになった坂である。いつ道がひらかれ、いつごろから団子坂と呼ばれるようになったか記録がない。しかし図3 にこの道(団子坂)がないことから、団子坂が開かれたのは宝永元年(1704)から宝永八年(1711)の間であろうと考えられる。団子坂はのちに昌平坂と呼ばれるのだがそれはもう少し後の時代である。
図3
宝永元年〜四年(1704〜1707)の図
図4
宝永七年〜同八年(1710〜1711)の図
この頃、団子坂(のちの昌平坂)が開かれた。
寛政九年(1797)十一代家斉のとき再び聖堂改革が行われた。敷地が広げられ、「昌平坂学問所」を開設し官学としての体制を整えたのである。聖堂東側の明地に鳳閣寺と云う名の寺が建てられていたが(図5)、寺のあった一画が聖堂内に取り込まれて聖堂の敷地が東側に広げられた(図6)。『武江年表』寛政十一年の記録に「聖堂御再建、境内広がりて大廈落制す。湯島鳳閣寺青山久保町へ移る。」とあるように、この年(寛政十一年)聖堂が再建された。
図5
寛政九年(1797)の図
図4では明地であった聖堂と団子坂の間に鳳閣寺が建っている。
図6
寛政十年・十一年(1798・1799)の図
聖堂敷地が東へ広げられ鳳閣寺は移転。昌平坂Bは聖堂敷地内に取り込まれて消滅し、聖堂の敷地は団子坂と接することになった。
こうして、昌平坂Bは聖堂敷地内に取り込まれて消滅した。結果として団子坂は聖堂と直接に境を接することになった。『御府内備考』(巻之三十 湯島之二)によれば「高二丈四尺、幅四間四尺、上り二拾七間、此坂以前は無名に御座候処、昌平坂と申候訳は以前神田明神向聖堂脇を昌平坂と唱候処、寛政十午年中聖堂御再建の節御囲込に相成候に付、其砌(みぎり)より此坂を昌平坂と相唱申候」とある。『御府内備考』は団子坂を無名の坂だとしている。ともあれ、聖堂内に取り込まれて消滅した昌平坂Bに代わっていつの頃からか団子坂は昌平坂と呼ばれるようになっていったのである。これが昌平坂Cである。団子坂の旧称はその後の文献に出てこない。(明治になって突然に団子坂の名が復活するのだが、この事は後で記す。)
相生坂と相生橋
「相生坂」の名は、神田川をはさんで北の聖堂側に昌平坂(相生坂の別名)、南の駿河台側に淡路坂が並行してあるところから、二つの坂を総称して相生坂と呼んだものである。「相生」の意味は「一つの根から二本の幹が相接して生え出ること。二つのものがともどもに生まれ育つこと。」(『広辞苑』)とあるように、相生橋から二つの坂が神田川の両岸を西へ上っていく姿はまさしく相生の名にふさわしいネーミングであった。
←『江戸図正方鑑』部分
元禄六年(1693)
「アヒヲイハシ」「昌平坂」の名が記されている。(この昌平坂は昌平坂Bである。)
相生橋の記録はあるものの、昌平坂Aを相生坂と呼んだことを示す江戸時代の記録がみつからない。とはいえ、そのことを推測する資料はある。昌平坂と呼ばれるようになる以前の坂名については、坂下に架かる昌平橋の記録にヒントがある。このことは「淡路坂」の項でも書いたので簡単に記す。
「(略)筋違橋より西の方の橋を今より後昌平橋と唱うべきよし仰せ下されけり、是までは相生橋または芋洗橋などよびしと云々」(『御府内備考』)。
「昌平橋は(略)初めは相生橋、あたらし橋、また芋洗橋とも号したりしよしいへり。」(『江戸名所図会』)
「正月、湯島に大聖殿御普請成る。(中略)二月より相生橋を(古名いもあらひ橋)昌平橋と改めらる。」(『武功年表』元禄四年(1691)の項)
これらの記録から昌平橋の旧称が、相生橋、芋洗橋(一口橋とも書いた)、とも呼ばれていたことがわかる。これらの橋名は、坂名に由来するもので、相生坂の坂下に架かる橋が相生橋であり、一口坂(芋洗坂)の坂下に架かる橋が一口橋(芋洗橋)であり、昌平坂の坂下に架かる橋が昌平橋であった。橋の名は坂の名と同名であった。言うまでもないが相生橋も一口橋(芋洗橋)も昌平橋も名こそ異なるが同じ橋である。こうしたことから昌平坂Aの旧称が相生坂であったことが推測できる。
戸田茂睡(寛永六年〜宝永三年・1629〜1706)は『御当代記』において「(元禄四年二月)十一日(中略)聖堂を大聖殿と申、相生橋、湯島の坂を、昌平橋、昌平坂と云(後略)」と記している。また『続江戸砂子』(享保二十年・1735)は「相生橋 今、昌平橋といふ。(略)相生橋は聖堂上野よりうつらざる前の名也。聖堂御建立あって、昌平坂・昌平橋とあらたまれり。(後略)」と述べている。これらは旧称「相生橋」が「昌平橋」に改められるとともに旧称「相生坂」もまた「昌平坂」に名を改められたことをあらわす記述である。さらに付け加えれば、明治初年の急な坂名の変更は旧坂名(相生橋と団子坂)が、かって使われていたことの確かな証しともいえる。
明治後の名称変更
A・B・Cそれぞれの三つの昌平坂は元禄三年の坂名改称を経て江戸時代を通して長い間ともに「昌平坂」の名で呼ばれてきた。が、明治になって突然に旧称が復活した。
『東京府志料』(明治5〜7年・1872〜74)は、「相生坂 師範学校前(筆者注:明治5年師範学校が昌平黌の講堂を使用して発足した)より湯島一丁目へ下る 長27間幅5間」として昌平坂Aを相生坂の旧称で記し、昌平坂Cについては「団子坂 書籍館の脇湯島一町目との間を北へ上る」として、こちらも旧称を記している。『東京地理沿革志』(明治23年・1890)は「師範学校前通を東へ下れり相生坂あり後に昌平坂と云へり。松住町の方より神田神社前に上る坂を湯島坂と唱へ旧図書館横手に沿ひて湯島一丁目に向ふ坂あり団子坂と呼ぶ。」として相生坂が後に昌平坂(A)と呼ばれたこと、昌平坂Cを旧称の団子坂と呼ぶようになったことを記している。坂名の旧称復活のわけは明治2年7月27日に出された東京府の布達にある。「一、昌平橋を相生橋と改める。一、昌平坂を本郷坂と改める。右、旧名の通り来月(明治二年八月)一日より名称を相改め候こと。右の趣、町中洩れざるよう触れ知らすべきもの也」(筆者注:本郷坂とは湯島坂の別名で昌平坂A(相生坂)の一筋北側を神田明神前から東へ下る坂である。昌平坂が本郷坂と呼ばれたことはないことから、この時に改められたのは本郷坂ではなく団子坂あるいは相生坂の間違いである。)
昌平坂という坂名の変遷は、聖堂(幕府の学問所)を江戸幕府と明治政府がどう評価したかを映す鏡のようでもある。当初の坂名すなわち相生坂や団子坂は、元禄三年に五代将軍綱吉によって昌平坂と改称され、江戸期を通じ昌平坂と呼ばれてきた。しかし新しい教育制度を模索する明治政府は明治元年(1868)聖堂を接収して学校と改称し、さらに明治2年、大学校へと改編した。こうした背景の中で明治2年東京府によって坂名の旧称復活が布達され、元禄以前の坂名すなわち相生坂、団子坂(東京府の布達は本郷坂としている)に戻ったのである。
東京府の布達から38年後に刊行された『東京案内』(明治40年・1907)は、「南神田川に沿ひて東より西に上がる坂を相生坂と云ひ、相生坂より聖堂の東に沿ひて湯島坂に出るものを昌平坂と云ふ。」と記している。昌平坂Aを旧名の相生坂と記し、昌平坂Cを団子坂と呼ばないで昌平坂と記している。いったん消された昌平坂の名が再び復活した。なぜ昌平坂の名が復活したか謎であるが昌平橋の名称が復活したことと関係があるように思われる。明治2年、東京府の布達で昌平橋が旧称の相生橋に改名されたことは先に触れた。しかしこの相生橋、明治6年8月の神田川の洪水で流失してしまう。明治32年(1899)になってようやく元の場所よりやや下流に再架橋されたのだが、この時新しい橋は昌平橋と名付けられた。「昌平坂」という坂名の復活が「昌平橋」という橋名の復活と同じ頃であることを考えると名称復活の謎を解くカギは昌平橋の名称復活にあるようだ。
『東京案内』による坂名の記述は現在文京区が採用している坂名表示と同じで文京区は昌平坂Aに「相生坂」、昌平坂C(団子坂)に「昌平坂」の坂標をたてている。
【現在の昌平坂】
↑ 昌平坂A(相生坂)
土塀の内側の建物が湯島聖堂、手前が昌平坂A(相生坂)。
文京区は相生坂(昌平坂)の坂標を立てている。
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← 昌平坂C(団子坂)
坂上が湯島坂(明神坂・本郷坂とも呼ばれた。)坂下が昌平坂A(相生坂)である。
現在、文京区は昌平坂の坂標を立てている。
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【参考資料】
『江戸名所図会』ちくま学芸文庫
『徳川実紀』国史大系 吉川弘文館
『御府内備考』大日本地誌大系編輯局編 雄山閣
『江戸砂子』小池章太郎編 東京堂出版
『江府名勝志』藤原之廉撰・横関英一校注 有峰書房
増補『武功年表』斉藤月岑 金子光晴校訂 東洋文庫(平凡社)
『御当代記』戸田茂睡 東洋文庫(平凡社)
『東京府志料』東京府 明治5年〜明治7年(1872-1874)刊
『東京地理沿革志』明治23年(1890)
『東京案内』東京市役所 明治40年(1907)刊
『聖堂之絵図』元禄四年(1691)国立国会図書館蔵
『御府内往還其外沿革図書』東京市史稿市街篇付録
『江戸城下変遷絵図集』原書房
『江戸図正方鑑』元禄六年(1693)
『江戸の坂 東京の坂』横関英一 中公文庫
『江戸東京坂道事典』石川梯二 新人物往来社
『今昔東京の坂』岡崎清記 日本交通公社
『東京の橋』石川禎二 新人物往来社
坂標(文京区教育委員会)
『広辞苑』岩波書店
「湯島聖堂」奥田晴樹(『江戸東京学事典』三省堂より)