江戸名所図会に描かれた上野山下風景と車坂
上野公園一帯は江戸時代、東叡山寛永寺とその子院の敷地であった。「山下」は、東叡山の下にあることからそう呼ばれた地で、『江戸名所図会』(以後名所図会と記す)に描かれた上掲図(ハ)の位置にあたる。現在のJR上野駅広小路口周辺である。山下図には、よし簀張りの小屋が一面に描かれ、それぞれに「
茶ヤ、ものまね、浄るり、見世物、曲馬」などとある。元文二年(1737)の火災
(注1)後に火除けのための明き地と定められたが、延享五年(1748)日覆いよし簀張りでの商売が認められ、江戸庶民の遊興の地となりいつも賑わっていたという。『大江戸志』は「
綱切、放下、操り、踊り、狂言を専らにして茶店に□民市をなす」
(注2)とその賑わいを記している。山下の北側は「下寺」と呼ばれ東叡山の子院11ヶ寺が崖下に沿って並んでいた。これら子院11ヶ寺は、元禄十一年(1698)の大火
(注3)後に山上から崖下に移されたもので、名所図絵には子院11ヶ寺のうち普門院、常照院、顕性院の三か寺を中央の一画に(イ)、その隅に車坂門(a)を描いている。下寺通り(ロ)をはさんで上野の山から下ってくる車坂(A)が左上隅に描かれている。
上野の山東側斜面の坂
JR京浜東北線に沿って赤羽から上野まで上野台地東面の長い崖が続いている。その上野台地の南の端にあたるのが「上野の山」と呼ばれた地で山上には東叡山寛永寺の堂宇、子院が建ち並んでいた。「上野の山」の標高は12〜19mほどだが、台地下の標高は3〜5mしかないから崖は充分高く感じる。その崖の東側斜面と下寺通りを結んで車坂(A)、屏風坂(B)、信濃坂(C)と呼ばれた三本の坂があった。(注4)
← 図@ 尾張屋板 切絵図『東都下谷絵図』(嘉永四年・1851)
国立国会図書館蔵
A 車坂、a 車坂門
A' 車坂と下寺通りを結ぶ階段坂
B 屏風坂、b 屏風坂門
C 信濃坂、c 坂下門
イ 寛永寺子院11ヶ寺
ロ 下寺通り
ハ 山下
車坂(A)は凌雲院(現・東京文化会館あたり)から下寺通り顕性院前(現・JR上野駅)へ下る坂で、名所図会や切絵図(図@)を見ると坂の途中で
折れ曲がって崖を斜めに下っていたようだ。山側には 坂にそって石垣が築かれていた。
名所図会は(A)を、切絵図は(A')の階段坂を車坂としているが、「東叡山より下谷へ下る坂なり、車を通ずる坂なればかくいふにや」(『江戸惣鹿子名所大全』元禄三年・1690)との記述を考えると階段坂(A')とは考え難いことから(A)のスロープ状の坂が車坂である。しかしあまり厳格に考えない方がよいとも思える。上野の山への出入りに車坂を通る時いちばん便利なのは車坂門(注5)であった。上野の山に上るにしろ、山から下るにしろ車坂を利用するときA'を利用するのが近道なのだ。AもA'も車坂と呼ばれたとも考えられる。
車坂の名称由来に興味深い話が伝わる。寛永寺が建立される以前、上野の山に藤堂高虎の屋敷があった。藤堂高虎が伊賀上野の領主であり、また伊賀上野に車坂があったことから「上野」「車坂」の名称は伊賀上野に由来するとの伝承がある。もっとも、この説は「上野」という地名が江戸以前から存在したことから江戸時代すでに否定されていた。(注6)
屏風坂(B)は慈眼堂(現・開山堂・両大師)と福聚院(現・日本学士院)の間を下寺通り宝勝院前(現・両大師橋)へ下る坂であった。「慈眼大師の堂の前の糸桜並びなき名木なり」(『紫の一本』天和三年・1683)や「吉野桜 屏風坂の上り口、左りの山岸にあり。慈眼大師、吉野のさくらの苗木を植おかれしと也」(『再校江戸砂子』明和九年・1772)の記述から桜の花の名所でもあったようだ。『紫の一本』(天和三年・1683)は「黒門前からは下谷からの見物人、谷中筋よりの人、四方からの集まりなれば、ひたと詰りて動きはたらきもならず。車坂からも上がり、屏風坂からも登れば、上野の人込み合ひ夥しき事なり。」と上野の花見に、車坂、屏風坂からも花見客が押し寄せたとある。屏風坂の由来に関する記述は文献に見あたらない。形状から考えると切通しの坂であったようだ。『1万分の1地形図 上野』大正5年修正測図(図F屏風坂部分図参照)に坂をまたぐように坂両側面をつなぐ陸橋が架けられていることからも切通しの坂であったことが推測できる。坂両脇の斜面(崖)を屏風に見立てて坂名としたと考えられるが、記録になく私見にすぎない。
←『江戸名所図会』
図上部に「屏風坂」の名が記されている。
Bは屏風坂下り口。
信濃坂 (C)は慈眼堂(現・両大師)裏門付近から崖を斜めに下り坂下門へ至る坂であった。『再校江戸砂子』(明和九年・1772)に「車坂 吉祥閣の前の通り東。屏風坂 御本坊前の通東。信濃坂 屏風坂の北」とあるように、信濃坂の名は車坂、屏風坂とセットで呼ばれることが多い。坂の詳細および坂名の由来を記した文献は今のところ見当たらない。
車坂、屏風坂、信濃坂はいつ開かれたか。
これら三つの坂がいつ頃開かれたのか、記録をたどってみる。
1、『寛永江戸全図』(寛永十九年頃・ca.1642 臼杵市図書館蔵)に坂名を記していないが車坂、屏風坂らしき道が描かれているが断定はできない。
2、『色音論(別名あずまめぐり)』(寛永二十年・1643)に「ひがしに見ゆるあさくさの、くはんぜ音(観世音)にもまひらんと、はじめてこゝにくるまざか(車坂)、めぐりめぐれるみちすがら、つくづくものをあんずるに・・・」との記述がある。『色音論』は、最初の江戸のガイドブックともいうべき冊子であった。車坂の箇所は浅草から上野へ行く途次を描写したもので、江戸の坂名が載る最も古い記録である。
3、『明暦江戸全図』(明暦三年頃・ca.1657 三井文庫蔵)にIIIII(坂記号)と「くるまさか」の名が載る。屏風坂の位置に坂名を記していないがIIIII(坂記号)が載っている。
4、『江戸方角安見図鑑』(延宝八年・1680)図Aに上野の山東側の南北に連なる崖が描かれ、その崖を横切る二つの坂「くるまさか(車坂)」(A)、「びやうぶ坂(屏風坂)」(B)の名が載っている。
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(A)に「くるまさか」、(B)に「びようぶ坂」とある。
図A『江戸方角安見図鑑』国立国会図書館蔵
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これらの記録から車坂と屏風坂は1640年代にはそう呼ばれていたと考えられるが、1640年以前の記録はなく詳細はわからない。
信濃坂に関する記録が現れるのは少し時代が下ってからである。すでにふれたように『江戸方角安見図鑑』(延宝八年・1680)(図A)に、車坂(A)と屏風坂(B)が描かれている。『紫の一本』(天和三年・1683)も車坂、屏風坂について記している。しかしこれらの記録は信濃坂についてふれていない。では信濃坂の名はいつ頃から記録に見られるか。
『江戸全図』(宝永四年・1707)に、坂名は記されていないが信濃坂にあたる道が描かれている。地図(図B)に描かれた道をたどってみると屏風坂上(B)の「シケン大シ(慈眼大師)」脇の道を北へ行き、突当たりを右へ曲がると「フクジュイン(福聚院)」と「ケンリウイン(現龍院)」の間を東へ下る道(C)がある。坂名は記されていないがIIIII(坂記号)が載る。『江戸方角安見図鑑』(図A)の福聚院と東漸院(とうぜんいん)の間の道が東へ延長され下寺通りへ下る坂(信濃坂)が開かれたことがわかる。『江府名勝志』(享保十八年・1733)の地図(図C)は簡略すぎてわかり難いが、IIIII(坂記号)と「クルマサカ」「ヘイフサカ(屏風坂)」「シナノサカ」の名が載る。これが信濃坂の名が載る初期の記録と思われる。
図B『江戸全図』部分 国立国会図書館蔵 図C『江府名勝志』挿図
『江都東叡山寛永寺地図』(宝暦五年・1755)に車坂、屏風坂とともに信濃坂が描かれている。大師堂の裏の通り、現龍院の東側を下寺通りへ下る坂として描かれ「信濃坂」の名が載る。
こうして記録を並べてみると宝永四年(1707)には信濃坂が開かれており、その後まもなく信濃坂と呼ばれるようになったと考えていいようだ。
明治以後の車坂、屏風坂、信濃坂と坂の消滅
幕末から明治にかけて「上野の山」は動乱の時代を迎え一帯は激変した。
慶応四年(1868)彰義隊が上野の山に籠り官軍と戦った。上野戦争である。同年5月15日の戦いで根本中堂をはじめ諸堂宇、子院などほとんどが焼失した。明治9年5月「上野の山」に上野公園が開園。明治12年本堂が子院大慈院跡地に再建、子院のうち一部は旧境内に再建されたものの江戸の面影は一変した。明治15年3月上野公園内に博物館・動物園が開園し、
上野の山も明治の姿へと急速に変化していった。明治15年(1882)、上野戦争で焼失し明
地となっていた寛永寺子院11ヶ寺跡地(イ)を日本鉄道株式会社が停車場敷地として東京府から払い下げを受け、翌明治16年7月上野と熊谷間が開通し上野駅が開業した。この時の工事で車坂、屏風坂、信濃坂は上野駅構内に取り込まれて消滅したと述べた文献が多い。しかし明治16年以後に発行された地図を見るとそこにはしっかり坂の名が記されている。例えば、明治20年(1887)内務省発行の『東京五千分ノ一図』(図D)には、上野台地東面の崖が描かれ、崖の間を通り抜ける車坂(A)、屏風坂(B)、信濃坂(C)が載り、坂が健在なのがわかる。坂下(崖下)には上野駅が描かれ、日暮里方向に線路が伸びている。
← 図D『東京五千分ノ一図』部分
以下、明治16年に消滅したといわれた後にも坂が存在したことを示す資料を記す。
樋口一葉は上野駅開業後の車坂を通ったことを明治22年(1989)4月14日の日記に記している。吉田家の花見集会に招待されて本郷菊坂町の家から上野を経て隅田川の花を眺めながら向島へ向かう途中であった。「澄田川にも心のいそげば、をしき木かげたちはなれて車坂下るほど、"ここは、父君の世にい給ひし頃、花の折としなれば、いつもいつもおのれらともなひ給ひて、朝夕立ならし給し所よ"とゆくりなく妹のかたるをきけば、むかしの春もおもかげにうかぶ心地して、(略)山下といふ所よぎりて、むかし住けん宿のわたり過るほど、よの移り行さまこそいとしるけれ。まだ八とせ計りのほどに下寺といひつるおきつち所は、鉄の道引つらねて汽車の通ふ道とは成ぬ。」
坂の記述は明治40年(1907)発行の『東京案内』にもみられる。「開山堂の南に在て東の方下谷車坂町に下るを屏風坂と呼び、開山堂の北に在りて同く車坂町に下るを信濃坂と唱へ、パノラマ館の傍より東の方山下町へ下るを車坂と称し、山王台の北を山下町に下るを櫻谷坂と曰ふ。」と述べ、地図(図E)を添えている。(注4)
←図E『東京案内』
「上野公園之図」部分
大正3年(1914)発行の『下谷繁盛記』は、「開山堂の南にありて、東の方下谷車坂町に下るを屏風坂と呼び、開山堂の北にありて同じく車坂町に下るを信濃坂と唱へ、旧パノラマ館の傍より東の方山下町へ下るを車坂と称し、山王台の北を山下町に下るを桜谷坂といふ。」と記している。
上に記したようにこれらの資料は、坂が大正時代にも存在していたことを証するものである。では坂の消滅はいつ頃であったか。まずは『1万分の1地形図 上野』(大日本帝国陸地測量部発行)の大正6年12月15日発行(大正5年修正測図)と大正15年7月30日発行(大正10年第二回修正測図・同14年部分修正)の両地図を比較してみる。
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↑図F『1万分の1地形図上野』
大正5年修正測図
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↑図G『1万分の1地形図上野』
大正10年修正・14年部分修正測図
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図FとGは関東大震災前後の地図である。この間に坂にとって大きな変化が起きた。大正9年(1920)上野〜神田間の高架化工事が始まり、大正12年(1923)9月1日に起きた関東大震災をはさんで、大正14年(1925)山手線環状運転が始まった。この時の工事で上野公園側に線路が拡幅されて御徒町方向へ延伸した。上野公園側に拡幅された線路は高架であった。結果的に図Fにあった崖下の下寺通り(ロ)は、上野駅構内に取り込まれ消滅したことが読み取れる。以下、上掲『1万分の1地形図上野』の図F大正5年修正測図と図G大正10年修正・14年部分修正測図を比較しながらそれぞれの坂の変化を見てみる。
車坂:下寺通りへ下っていた車坂(A)は、上野公園側に拡幅された高架線路の工事によって下寺通りとともにJR上野駅構内にとりこまれ消滅した。両地図は
同じように屈曲してJR上野駅方向へ向かう道あるいは坂のようにしか見えないが、大正14
年上野公園の高台から直接JR上野駅へ通じる改札口(赤マル部分)が崖上に設置された。この事は上野公園と高架線がほぼ同じ高さに位置したことを示唆している。
(左)大正5年修正測図 (右)大正10年修正・14年部分修正測図
(写真上)現在のJR上野駅公園口
(写真下)現在のJR上野駅1番線プラットホーム
上野公園とJR上野駅公園口は同じ高さにあり、上野公園から直接JR上野駅に入れる。プラットホームは、改札口の下に位置している。プラットホームに立つと目前に(新)車坂が見えている。
現在、JR上野駅公園口前からパンダ橋下を線路に沿って南方向へ下る坂を車坂と呼んでいる。この坂は江戸の車坂とは別の坂で、車坂が消滅したと同じ頃に開かれた新坂(新・車坂)である。
(新)車坂と高架線路(『上野駅史』昭和7年刊より)と現在の(新)車坂
屏風坂:屏風坂をまたいで陸橋(赤マル)が架かり、
陸橋下を屏風坂が山下通りまで下っている。この頃まで屏風坂が存在したことが地図から読み取れる。大正14年部分修正測図では線路が上野公園側に拡幅されて屏風坂は消滅した。崖上から線路を渡る陸橋が設けられている。
(上左)大正5年修正測図
(上右)大正10年修正・同14年部分修正測図
(左写真)現在の両大師橋(屏風坂跡)
信濃坂:大正5年修正測図によると信濃坂は慈眼堂裏から墓地南側を通って下寺通りの北端に下っている。崖上の墓地から線路を越える陸橋が描かれており、信濃坂下から線路を渡ることはできないようだ。
大正5年修正測図 →
大正10年修正・14年部分修正測図では、崖地まで線路が拡幅され、信濃坂の道筋は残るものの崖上で行き止まりになっている。大正5年修正測図にあった陸橋は撤去され線路を渡れない。
大正10年修正・14年部分修正測図 →
こうして見てくると、明治16年7月上野と熊谷間が開通して以来、線路が拡幅するにつれ上野台地東面の崖地は徐々に線路に浸食されていったことがわかる。そして大正9年(1920)から始まり大正14年に完成した上野〜神田間の高架化工事が坂の消滅を決定的なものにした。この工事で上野公園側に拡幅された高架線路によって崖下の下寺通りが上野駅の構内に取り込まれて無くなると同時に上野公園から下寺通りへ下っていた車坂、屏風坂、信濃坂は消滅したのであった。
(注1)元文二年五月三日「下谷八軒町より失火、御徒町辺上野広小路池之端、東叡山慈眼堂、其の外坂本、金杉、箕の輪まで焼くる。(『武功年表』)
(注2)綱切は綱渡り、放下(ほうか)は大道芸の一種の曲芸、操りは操り人形のこと。□一字不明。
(注3)元禄十一年九月六日「同日巳刻過ぎ、新橋南鍋町より出火、南風烈しく大名小路、通町筋、神田、下谷、上野御本坊、浅草、山谷、千住、掃部宿に至る(凡そ三里)」(『武功年表』)中堂火事・勅額火事と呼ばれた。
(注4)車坂、屏風坂、信濃坂とともに車坂の南に桜谷坂(図ED)を載せている。明治40年(1907)3月20日から7月31日まで上野公園で東京勧業博覧会が開かれた。「上野公園の図」には博覧会の展示館が描かれていることから地図は明治40年の上野公園と見られる。
(注5)それぞれの坂を下り東叡山子院11か寺の間を抜けるとその先に車坂下には車坂門(a)、屏風坂下には屏風坂門(b)、信濃坂下には坂下門(新門ともいった)(c)を構え、下寺の子院群は塀や堀で囲まれて下谷の町とは厳然と区分けされていた。
(注6)「車坂」伊賀上野由来説:「此地始は藤堂和泉守殿やしきなり。草創のころあけさせられ、その代りの地を染井に給ふ。藤堂在城伊賀國上野は三方より上りて小高き山也。その土地の似たるによって上野と呼。伊賀の上野にも車坂・清水坂などゝ当山同名の所あり。」(『再校江戸砂子』明和九年・1772)
「江戸砂子の説甚非なり、北条家の旧記に上野金杉と書たれば古き名にて、藤堂家宅地の前よりの名なること明かなり。(中略)往古は広野なるゆへ下谷に対して上野といひならはせしなるべし。」(『江戸志』寛政年間1789〜1801)
「小田原役帳に木内宮内少輔拾八貫弐百文江戸上野及島津総四郎五貫七百文上野内法林院分円城寺拾八貫弐百廿文江戸上野と出たり。是にても砂子に藤堂家此地を賜ひしよりの名とする事固り論ずるに足らず。」(『御府内備考』文政九年〜十二年・1826〜1829)
【参考資料】
『江戸名所図会』(天保九年1838)国立国会図書館蔵
『大江戸志』国立国会図書館蔵
『東都下谷絵図』尾張屋板切絵図(嘉永四年・1851)国立国会図書館蔵
『江戸惣鹿子名所大全』(元禄三年・1690)
『武功年表』斉藤月岑著・金子光晴校訂 東洋文庫・平凡社刊
『江戸砂子温故名跡誌』(享保十七年・1732)小池章太郎編東京堂出版復刻
『御府内備考』大日本地誌大系編輯局編 雄山閣
『紫の一本』(天和三年・1683)戸田茂睡 小学館日本古典文学全集
『寛永江戸全図』(寛永十九年頃・ca.1642)臼杵市図書館蔵
『色音論(別名あずまめぐり)』(寛永二十年・1643)
『明暦江戸全図』(明暦三年頃・ca.1657)三井文庫蔵
『江戸方角安見図鑑』(延宝八年・1680)国立国会図書館蔵
『江戸全図』(宝永四年・1707)国立国会図書館蔵
『江府名勝誌』藤原之廉撰・横関英一校注 有峰書店刊
『江都東叡山寛永寺地図』(宝暦五年・1755)国立公文書館蔵
『東京五千分ノ一図』(明治20年・1887)内務省発行
『東京案内』(明治40年・1907)
『下谷繁盛記』(大正3年・1914)近代日本地誌叢書 東京編
『1万分の1地形図 上野』大日本帝国陸地測量部発行
大正5年修正測図 および 大正10年修正・同14年部分修正測図
『全集樋口一葉3 日記編』小学館
『上野駅史』上野駅開駅50年記念誌
『下谷と上野』玉林晴朗著(昭和7年)東台社
『角川日本地名大辞典・東京都』角川書店
『江戸・町づくし稿』岸井良衛 青蛙房