江戸坂見聞録
松本 崇男



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  柘榴[ざくろ]坂 (別名 新坂)

東京都港区高輪3丁目と4丁目の間



地図@:尾張屋板「芝三田二本榎高輪辺図」部分(柘榴坂周辺)に加筆
嘉永三年(1850) 国立国会図書館蔵

江戸時代の柘榴坂
 『江戸町づくし』(註1)に「柘榴坂 奥平殿御下やしきより南高輪へ下る」とあり、『江戸町独案内』(文政四年・1821)に「柘榴坂 奥平やしきわき」と記されている。遅くとも江戸末期の文政年間(1818‐1830)には柘榴坂と呼ばれていたが、いつ頃からそう呼ばれるようになったか定かでない。
『江戸町づくし』に載る「柘榴坂」→
 道そのものは古くからあったようで『新板江戸外絵図』(寛文年間・1661-73)や『江戸方角安見図』(延宝八年・1680)(地図A)には、尾張屋板『芝三田二本榎高輪辺図』(地図@)と変わらない道筋が記されている。(坂記号IIIが記されているが坂名は記されていない。)
地図A『江戸方角安見図』部分 ↑
 坂周辺の様子を詳しく見てみる。『新板江戸外絵図』や『江戸方角安見図』(地図A)が刊行された時代から尾張屋板『芝三田二本榎高輪辺図』が出版された頃(地図@)まで柘榴坂は、変わらず松平薩摩下屋敷(薩摩藩・地図@-A)、奥平家下屋敷(豊前中津藩・地図@‐C)および有馬家下屋敷(筑後久留米藩・地図A-B)の間を東から西へと上る坂であった。坂の途中でいったん北に折れ、再び西へ上って行くのが特徴である(現在の柘榴坂は真直ぐな坂で江戸の坂の形とは異なるがこの事は後述する)。坂下は旧東海道(現在は第一京浜)で、その目の前に海が広がっていた。波が打ち寄せる音が聞え、潮の香もただよってくるそんな坂であったと思われる。
 地図には描かれていないが、薩摩藩下屋敷の敷地内に石神社があったことから柘榴坂の道筋は「おしゃもじ横町」と呼ばれた。(『江戸名所図会』)(註2)。「石神(しゃくじん)横町」が転訛したものと伝わる。東海道へ出る手前には有馬家下屋敷に接して高山稲荷社が祭られていた。稲荷社は柘榴坂南側の高台に祀られており急な石段を上って参詣した。「当時高輪の地形は小高い丘陵で社殿は二百数十段の石段の山峰に位置し山上の神社故高山神社と称されたと伝えられております。」(高山稲荷神社由緒)と云う。両神社とも『江戸名所図会』に図版が載っている。

 「石神の社 同所高輪南町、鹿児島・久留米両侯の間の小路を入りて、西の方二丁(約218m)ばかりにあり。(略)昔は、遮軍神(しゃぐんじん)に作るとなり。寄願ある者、成就の後は、必ず何によらず樹木を携へ来り、社地に栽ゑて、賽(かえりもうし)すといふ。この地を石神横町(しゃくじんよこちょう)と字(あざな)するは、この社あるゆゑなり。土人誤りて、おしゃもじ横町と唱ふ。」(『江戸名所図会』)
 「石人社 縁遠き婦人、当社に詣で良縁を祈れば必ず験(しるし)ありといふ。報賽には社地に何に限らず樹木を栽ゆるを習俗(ならい)とせり。
(『江戸名所図会』)

「高山稲荷社 薩州侯御藩の南にあり」
(『江戸名所図会』)
「稲荷神社 社丘上にあるによりて高山稲荷と称す。社地131坪」(『東京府志料』高輪南町)

図上:石神の社、
図下:高山稲荷社 
『江戸名所図会』(国立国会図書館蔵)より

 柘榴坂の名前の由来は伝わっていない。江戸時代の坂名は坂の特徴をとらえて坂の名前としていることはよく知られている。富士山が見える坂は富士見坂、海が見える坂は潮見坂、稲荷社があれば稲荷坂、屋敷の名前やそこに住んだ人名、坂の形状など、坂の特徴をとらえて坂名にした。樹木の名前をつけた坂名も多い。榎坂、梨木坂、さいかち坂、もちの木坂、一本松坂、紅梅坂などの名前が伝わっている。坂のどこかにあった樹木の名前を借りた坂名であった。柘榴坂の名前も、坂付近にざくろの木がありその名を坂名としたのであろう。

柘榴坂の消滅と新坂の誕生
 明治になって柘榴坂とその周辺にも大きな変化がおきた。江戸の大名屋敷は明治新政府に接収されて官公庁や軍用地等に転用されていった。柘榴坂周辺の大名屋敷も例外ではなかった。柘榴坂北側の薩摩藩下屋敷(地図@-A)は救育所(註3)→後藤象二郎邸→高輪南町御用邸へと移り替わった。柘榴坂南側の有馬家下屋敷(地図@-B)は、接収された後に明治5年(1872)毛利公爵邸(常磐邸)(註4)となった。この間に柘榴坂は坂両脇の屋敷地に囲い込まれていった。明治11年の「実測東京全図」(地図B)では、まだ江戸の坂の形状を保っているが、大正5年修正測図版の「一万分一東京地形図東京近傍十四號・品川」(地図E)では、まっすぐな坂に変っている。柘榴坂の形が変わったのではなく、いったん消滅した道(坂)が時を経て新たな道(坂)として復活したと言うべきであろう。以下、地図を年代順にたどりながら柘榴坂の消滅と復活の様子をたどる。

 地図Bは明治になってから刊行されたものだが、描かれた坂(柘榴坂の名記されていない)は途中でカギ形に折れ曲がっていて、江戸の坂の形状をとどめている。

地図B
明治11年(1878) 『実測東京全図』 部分

ケバ式の斜面記号が描かれており、柘榴坂が高輪台地から海へ向かって下る坂であったことがわかる。

地図C
『東京五千分一実測図』(明治20年・1887)部分

この頃柘榴坂の西側部分@は消滅、東側部分が道として残った。

地図D 『一万分一地形図東京近傍十四號・品川』 部分 明治42年測図

一部残った柘榴坂の東側部分Aは毛利邸への進入道路にかわった。高山稲荷は、高台から平地に移っている。

地図E 『一万分一東京地形図東京近傍十四號・品川』
部分 大正6年刊 明治42年測図 大正5年第1回修正測図

柘榴坂が復活し、毛利邸の進入道路は新坂(柘榴坂)から入るように付け替えられている。

 明治20年(1887)の「東京五千分一実測図」(地図C)を見ると坂上の部分@は消滅し、坂下部分Aは、まだ道の一部が残っており柘榴坂の形状が変わる途中の様子を示している。
 明治42年(1909)に測図された「一万分一地形図東京近傍十四號・品川」(地図D)になると地図Cで道として残されていたA部分も毛利侯爵邸(常磐邸)への道となり、一般道ではなくなっている。柘榴坂は完全に消滅したといえる。高台にあった高山稲荷もすでに現在地(港区高輪4-10-23)に移転しており、薩摩藩邸跡地は宮邸となっている。
 大正5年修正測図「一万分一地形図東京近傍十四號・品川」(地図E)では宮邸と毛利邸の間に道が開かれている。この道の西半分は旧柘榴坂の@の部分で、東半分は旧柘榴坂Aを少しばかり北側に移して一本のまっすぐな道としたものである。いったん廃止された道がふたたび開かれたことがわかる。「柘榴坂」の別名「新坂」はこの頃名づけられたものであろう。つまり「柘榴坂」は江戸の坂名で、「新坂」は明治末以降の坂名ということになる。

柘榴坂その後
 桜の咲いたころ柘榴坂を訪ねた。JR品川駅西口の目前、「ウィング高輪ウェスト」と「シナガワグース(京急EXイン品川駅前)」の間をまっすぐ西に上る坂が柘榴坂だ。まっすぐな道が緩やかに坂上に続いている。坂の両側にはホテルが建ち並び、かつて坂を挟むようにあった高台はビルに隠れ、あるいは削られ後退して高台を目にすることはない。それでも道を少しそれて坂の左右の道に入り込むと、高台が顔を表し坂の両脇が高台であったことをかろうじてうかがい知ることができる。

  柘榴坂(2015/04 撮影)   高山稲荷社       おしゃもじさま

 江戸時代に柘榴坂の南側の高台にあったので「高山」の名を冠して呼ばれたという高山稲荷社は平地に遷座し、石神社(別名釈人社)は高山稲荷所に合祀されていた。境内には石神社に祀られていた「おしゃもじさま」が祀られていた。「もとは切支丹灯籠で、一説には高輪海岸で処刑された外国人宣教師を供養するために建てられたともいわれ、また海中より出土したともいわれる。切支丹の隠れ親交があったことを物語る資料である。」と東京都教育委員会がたてた説明書にあった。

【註】

(註1)『江戸町づくし』出版年不明(文政年間?)日本橋通一丁目 須原屋茂兵衛、日本橋通四丁目 須原屋佐助刊
(註2)『御府内備考は』は釈地大明神と記している。一方祀られていたのは釈人(釈地大明神)ではないとの記録もある。「釈神社は、むかし遮軍神と書いたよし。おもうに道祖神の石神であろうか。」(『再校江戸砂子温故名跡誌』)
(註3)救育諸 第二代東京府知事・高木喬任が生活困窮者救済の為、薩摩藩下屋敷跡に設けた施設。
(註4)毛利公爵邸 幕末の長州征伐のおり江戸幕府に没収された薩摩藩邸に代わり明治5年(1872)旧久留米藩邸跡に新築された。跡地には現在、品川プリンスホテルが建つ。

【参考文献】
『江戸町づくし』
『江戸町独案内』
『新板江戸外絵図(寛文五枚図)』国立国会図書館蔵
『江戸方角安見図』(延宝八年・1680)国立国会図書館蔵
尾張屋板『芝三田二本榎高輪辺図』国立国会図書館蔵
『江戸名所図会』国立国会図書館蔵
『江戸名所図会』ちくま学芸文庫
『実測東京全図』
『東京五千分一実測図』
『一万分一東京地形図東京近傍十四號・品川
『近代沿革図集』東京都港区立三田図書館 昭和52年発行
高山稲荷神社由緒
高山稲荷案内標示「港区の文化財」東京都港区教育委員会

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