江戸坂見聞録
松本 崇男



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行人坂ぎょうにんざか   

西南遥かにひらけて芙蓉の白峯を望む。(中略)実に絶景なり。(江戸名所図会 挿絵書き入れ)

 

長谷川雪旦画『江戸名所図会』巻三(天保5年刊・1834より) 富士見茶亭(ふじみちゃや)


炎暑の中、目黒川に架かる石造りの太鼓橋を渡り、行人坂を登ってきたところでうしろをふり返ると富士の姿が西空にくっきりと浮かんで見えた。真夏に富士を眺められるとは思っていなかったので、ずいぶん得をした気分になり暑さをしばし忘れることができた。坂上の「御休ところ富士見茶や」(注1)では、富士の眺めを楽しむ人や休憩する人でにぎわっている。私もここで一息いれるとしよう。茶屋からは眼下に一面の田畑が連なり今渡ってきた目黒川がまぶしく光って見える。遠くに見える森は目黒不動あたりだろうか。すばらしい眺めだ。茶屋の前では駕籠かきが汗をぬぐい、西瓜にかぶりついている。駕籠を担いで急坂を登ってくるのは大変なことだろう。一息つかなければとても身が持たない。

先ほど、行人坂の途中にある大円寺に立ち寄ってみた。寺のあった場所には五百羅漢の石像が立ち並んでいるばかりで建物はない。のちに江戸の三大火事と呼ばれることになった「行人坂の大火」の火元になったために寺は取り潰しになりいまだに再建が許されていないのだ。明和9年(1772)2月29日、大円寺から出火すると三日三晩燃え続けて江戸の街の約三分の一を焼き尽くす大惨事となった。石像は大火で亡くなった14,700人余の人々を供養するために50年の歳月をかけて完成したものだという。幕府は明和9年が迷惑に通じるとして年号を明和から安永に変えたのだが、とても安らかにならない世の中に庶民は「年号を安く永くとかはれども諸式高くて今に明和九(迷惑)」と詠んでうっぷんをはらしたのであった。

坂下の明王院(注2)もまた火事に因縁のある寺である。八百屋お七は恋人に会いたいために火付けをして捕らえられ火刑にされた娘として知られるが、お七の恋人吉三郎(注3)がお七処刑後に僧・西雲と名を改めてお七の菩提を弔った寺が明王院であった。

行人坂は、あまりに急坂なので北側に新たに権之助坂が開かれたが、それでも目黒不動へ参詣する近道なので多くの人がこの坂を利用している。坂は幅三間(5.5b)(注4)ばかりで平成の坂と道幅は大差ない。急坂であることも長い坂であることも同様だ。


『新編武蔵風土記稿』(文化7年〜11年・1810〜1814)巻之四十七 下目黒村
村の東北の堺にあり、寛永の頃此處に湯殿山行人派の寺ありて大日如来を建立す、 依てこの名あり(注5) 、今坂の中程に大圓寺と云天台行人派の寺あり、 是その名残なるべし。


(注1)『江戸砂子温故名跡誌』は「坂中に並びて水茶屋あり」と、茶屋が立ち並んでいたと記している。


(注2) 明王院は明治13年に廃寺となり、仏像などは再建された大円寺に移された。
跡地に目黒雅叙園が建つ。


(注3) お七の恋人の名は、吉三郎、吉三、あるいは山田佐兵衛ともいわれ諸説ある。
僧・西雲は念仏堂を建立しお七の菩提を弔うために目黒不動と浅草観音へ一万日日参の悲願をたてた。27年余りの念仏行で浄財を集め明王院に念仏堂を建て、行人坂に敷石を敷いて通行の便をはかったと伝わる。


(注4) 『御府内備考』に「坂 幅三間登り八拾間程」とある。


(注5) 行人坂の名の由来は、『新編武蔵風土記稿』にあるように大円寺に行人が多く住んでいたことによるとする説が一般的だが、『御府内備考』は昔このあたりに木食(もくじき)行者が住んでいたことによるとしている。


行人坂への行き方

JR線・東京メトロ南北線・都営三田線目黒駅より徒歩1分    ↑行人坂と大円寺
所在地:東京都目黒区下目黒1丁目1〜3と1丁目8の間


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