都電の走った坂道・今昔(11) 芝の切通坂近く
電車が走っているのは浜松町一丁目から神谷町に抜ける道である。写真を撮っている地点から左折し、右へまわりながら上って、オランダ大使館までの坂道。さらに芝給水所を経て永井坂上に至るのが芝の切通坂である。現在は正則学園、芝中・高などの生徒の往来が多い坂で、大使館の前は江戸から広場のようになっていて、「手まり坂」の別名を持つ。新橋方面から六本木方面へ抜ける道であり、江戸西部から増上寺へのお詣り道で、『江戸名所図会』の増上寺でも「切通し」と表示されている。一方、電車が走っている通りは明治中期に寺院の敷地を削ってでき、電車が通じたのは明治44年で、ご覧の通り電車道も坂道になっているが、名前はない。
走っている都電は、33番・四谷三丁目から外苑東通りを通って青山一丁目、六本木、飯倉一丁目、神谷町を経て御成門、浜松一丁目に至る都電の中で最短の、いわば地味な路線であった。廃止は昭和44年10月26日。落ち着いた感じの通りで、その道幅は今も大きな変化はないが、周辺の景観は大きく様変わりした。旧写真(S42年3月撮影)では右側に青松寺の好ましい石垣が続いているが、同寺は再開発に踏み切り、下の現在の写真のようなショッピングゾーンをはじめ、愛宕MORIタワーなどが前面に並び寺院境内も縮小・整備された。同寺は戦前軍国主義の象徴・爆弾三勇士の像で知られていた。同寺以外の周辺の建物もすっかり変化している。旧写真左手前の「宝塚女子旅行会館」は、宝塚歌劇の東京公演の際の宿舎であったが、移転し跡地には秀和のビジネスビルが建っている。走っている電車は四谷三丁目に向かう8000型で、昭和31年から制作された新しい車であったが、既に都電全廃の計画があったため耐用10年を目処に造られ、振動がひどくあまり好まれない車両であった。昭和47年の都電全廃とともに消滅し、保存もされていない気の毒な車両でもあった。
写真は、先に進むと神谷町交差点とそのビル街に至る、手前を下ると御成門である。 現在の写真は筆者撮影(H24.4撮影)
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