都電の走った坂道・今昔
原 征男
 (1)赤坂、富士見坂(水坂)  (2)安藤坂(網干坂)  (3)相生坂(昌平坂)  (4)高力坂
 (5)日吉坂  (6)中目黒・新道坂近く  (7)東京タワー・榎坂近く  (8)春日町・西富坂
 (9)焼餅坂(赤根坂)  (10)乃木坂あたり  (11)芝の切通坂近く  (12)土器坂を下る
 (13)三宅坂  (14)渋谷・金王坂  (15)下大崎坂(相生坂)  (16)志村坂
 (17)霞坂  (18)富士見坂(不動坂)  (19)東京を代表する九段坂

 

 都電の走った坂道・今昔(3)
相生坂(昌平坂)

 左の写真は昭和43年2月、湯島聖堂の南側を走る13番の都電(新宿駅前―水天宮)の姿である。雪の写真となっているが、この年は雪が多く、通勤に苦労した思い出がある。13番もこの年の3月末には新宿―岩本町間に短縮され、45年3月末に廃止されてしまった。この外濠通りの路線は御茶ノ水線(飯田橋―秋葉原東口)と呼ばれ、明治38年に開通した。
(「都電百景百話」雪廼舎閑人、大正出版、写真撮影S43.2) 写真の電車は大久保車庫所属の4000型である

 相生坂は神田川をはさんで駿河台サイドの淡路坂と平行しているのでこの名がある。別名昌平坂とも 呼ばれるが、聖堂の地に昌平坂学問所が置かれたのでこの名がある。昌平坂については、現在聖堂の東側の本郷通りに上る坂道とされているが(この坂には団子坂の名もある)、学問所の周辺3ヶ所の坂道が該当していたが、その当時とは位置も変更されており、この論議は別の機会にしたい。

 左はH20.12撮影の現在の姿である(撮影筆者)。
 石垣土台に瓦屋根の築地塀が階段式に連なっている聖堂のスタイルは広重の絵に描かれた時代から続いている。大きな屋根が見えている建物は儒家を表わす言葉から採った「斯文会館」である。
 2つの写真に大きな変化は見られないが、木が大きくなっていること、それにバックの秋葉原・御徒町方面の姿がすっかり変化しているのがわかる。

 2枚の写真は聖橋上から撮っているが、この橋は昭和2年に架橋され、聖堂の「聖」と対岸にあるギリシャ正教ハリストス復活聖堂(ニコライ堂)の「聖」とを兼ねて名づけられたものと言われるが、東京を代表する光景となっている。

 湯島聖堂は、綱吉がこの地に聖堂を創建し、上野忍岡の林羅山の家塾を移し、昌平坂学問所(昌平黌)としたものである。明治になって閉鎖されたが、後の東京大学へと連なるものである。学問所の跡地は文部省、国立博物館(現在は上野)、師範学校(東京教育大を経て筑波大)、女子師範(御茶ノ水女子大)などがおかれ、日本の教育文化の発祥地でもあった。現在そのほとんどは東京医科歯科大湯島キャンパスとなっている。湯島聖堂は現在史跡に指定されているが、大成殿(孔子廟)は関東大震災後昭和10年に伊藤忠太設計により、鉄筋コンクリート造で再建されたものである。構内には世界最大の孔子像や孔子にゆかりの楷の木などがある。この地を合格祈願に訪れる受験生も少なくない。

 相生坂と昌平坂の坂下に「史跡昌平坂」の石碑がある。昭和12年建立のものであるが、三島秀太郎という人が建てたとあるが(「都電百景百羽」)、どういう人なのであろうか。
 

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