都電の走った坂道・今昔
原 征男
 (1)赤坂、富士見坂(水坂)  (2)安藤坂(網干坂)  (3)相生坂(昌平坂)  (4)高力坂
 (5)日吉坂  (6)中目黒・新道坂近く  (7)東京タワー・榎坂近く  (8)春日町・西富坂
 (9)焼餅坂(赤根坂)  (10)乃木坂あたり  (11)芝の切通坂近く  (12)土器坂を下る
 (13)三宅坂  (14)渋谷・金王坂  (15)下大崎坂(相生坂)  (16)志村坂
 (17)霞坂  (18)富士見坂(不動坂)  (19)東京を代表する九段坂

 

 

都電の走った坂道・今昔(18)
富士見坂(不動坂)


左の写真は不忍通りを坂上の大塚仲町(現在の大塚三丁目交差点)から護国寺前に高低差6mの坂道を下ってくる20番の電車である。20番は須田町起点で上野公園へ、不忍池の東側の専用軌道を通って不忍通りに入って護国寺まで走り、護国寺前で音羽通りに左折して江戸川橋に到る。この同じ路線を大塚仲町まで春日通を走ってきた17番(数寄屋橋一池袋)も下って来て、これは左折せずに池袋に達していた。写真左側の林は護国寺隣の豊島ケ岡御陵で、現在の下の写真でも大きな変化はない。富士見坂も一見したところ都電の線路はなくなっただけで、道路幅を含めて余り変わってはいないが、道の両側の建物はこの辺りでも高くなっていて、昔からの商店も姿を変えている。

 そしてこの坂道は富士見坂の名を持つ。当然のことながら富士山が見えたのが名前の由来である。現在でも坂の中腹以上からビルの間、高速道路の照明灯の間に今でも僅かに富士の頭を見ることができる。日暮里の富士見坂から富士が見えなくなった今山手線内で富士が見える唯一の坂道になってしまった。この坂は坂上に波切不動尊(日蓮宗通玄院)があったので不動坂の別名もある。坂上は28.9mで文京区内の幹線道路の最高点という。

 坂上の大塚仲町までは大正10年に電車が開通していたが、富士見坂を下って護国寺に達したのは大正13年で、この時に坂道の勾配も緩和され、道幅も拡げられたという。護国寺から江戸川橋に電車が通じたのは昭和3年、一方池袋に達したのはやっと昭和14年であった。20番の電車は江戸川橋から護国寺への坂を上った後、この富士見坂を上り、白鷺坂を下り、猫又坂を上り、神明坂を下るというアップダウンを繰り返して走って行った。現在も都バスが上野広小路一早稲田をつないでいる。一方、17番は池袋から小篠坂を下り、この坂を上り、春日通に入って台地上を走って富坂を下り春日に到るので20番に比ぺると楽な路線であった。

 高田老松町(現在の目白台3丁目)の学生寮に兄がいた時17番・20番ともよく利用したが、この坂よりは護国寺への関心が高く富士見坂のことは余り覚えていない。また、下の現在の写真を撮影した日にも間違いなく富士を見ることができたが、残念ながら撮影した写真ではその姿が明確でなくお見せできるほどのものでなかったのは残念である。(「坂学会」のHPの富士見坂の項にはこの坂からのダイアモンド富士の写真があるので見て頂きたい。)

 上の写真は『都電百景百話』(大正出版・雪廼家(S41.12撮影)からお借りし,下の写真は筆者撮影(H27.1)  

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