都電の走った坂道・今昔
都電の走った坂道・今昔(4)
高力坂(こうりきざか)東京国際マラソンや東京国際女子マラソンの勝負どころであった高力坂(こうりきざか)である。あの高橋尚子が失速という信じられない出来事が今も脳裏に残っている坂道である。これらのこともマラソンのコースが他に移ったので忘れ去られてしまうのだろうか。
坂名は旗本の高力家があったためその名がついたと言われている。坂道は外濠通りにあり、この通り沿いに高力松があったが(荷風の文にも出てく る)、その松の位置は高力家とは離れたところにあり、なぜ高力松なのか議論のあるところである。電車 は、走り出した頃は堀端にある坂道を走っていたが、坂の辺りから堀が埋められて外濠公園となってい て後には堀端ではなくなっていた。こんな訳で千代田・新宿の区境は公園の中央部にある。
この外濠線を3番の電車(品川から虎の門、赤坂見附を経て飯田橋まで)が走っていた。また、12 番が新宿駅前から四谷見附、市ヶ谷見附を経て神保町、両国駅前へと走っていた。さらに10番(渋谷 駅前―須田町)が三宅坂経由から昭和39年に四谷3丁目経由に変更されて通っていたが、写真は須田 町に向かう10番の都電であ る。高力坂は市ヶ谷からかなりののぼりが続くが、写真は坂をのぼりきった本塩町(*)電停付近である。道路は拡張さ れたが、バックの雪印乳業の建物は変わっていない。通りはここから右へゆるく曲がっていくが、直進気味に進むと 比丘尼坂方面で、高力家はその辺りにあった。上の写真は昭和43年4月の桜の満開の時期であり、今回も桜の季節 に撮影したが、桜並木の位置が車道寄りから拡げられた歩道の公園寄りに移されたため、 少し角度を変えてみた。公園を含め建物はきれいになったが、印象には大きな差はない。写真にはない が、右後方に防衛庁の緑色の大きな建物が見えるのは大きな変化である。
上の写真は「四谷見附の桜」(「都電百景百話」雪廼舎閑人、大正出版)からお借りした(写真撮影S43.4)。 電車は10系統、6000形。下の写真は筆者、H21.4撮影。
(*)=この電停は当初「本村町」であったが、本村町と塩町が統合され町名変更となり、「本塩町」となった。