都電の走った坂道・今昔
原 征男
 (1)赤坂、富士見坂(水坂)  (2)安藤坂(網干坂)  (3)相生坂(昌平坂)  (4)高力坂
 (5)日吉坂  (6)中目黒・新道坂近く  (7)東京タワー・榎坂近く  (8)春日町・西富坂
 (9)焼餅坂(赤根坂)  (10)乃木坂あたり  (11)芝の切通坂近く  (12)土器坂を下る
 (13)三宅坂  (14)渋谷・金王坂  (15)下大崎坂(相生坂)  (16)志村坂
 (17)霞坂  (18)富士見坂(不動坂)  (19)東京を代表する九段坂

 

 都電の走った坂道・今昔(16)
志村坂

 左の写真は志村坂を上ってくる41系統の電車である(昭和30.9)。志村坂は昭和8年頃に拡幅され、直線的に造られた中山道(国道17号線)によりできた新坂である。戦前からこの辺りは工場地帯で、バスでは工員の輸送に対応しきれないと、戦時中の昭和19年10月に板橋駅前(下板橋、昭和4年開通)でとまっていた都電を志村坂上まで延長した。その先への延長は戦後になり、昭和30年6月に1.9km延びて志村橋に達した。つまりこの写真は開通直後の写真、写っている電車の7054号も新製直後で、舗装道路も当時としてはしっかりしている。坂下から3停留所先の終点の志村橋は都電の最北点で、この坂は41系統が巣鴨車庫と志村橋の間の8.3kmを往き来していたが、41番は都電最大の系統ナンバーでもあった。さらに志村坂上からは神田橋まで18系統が運行しており、12.3kmは都電の最長路線であった。末期においても7万人/日と利用者は多かったが、地下鉄三田線の建設工事のため昭和41年5月に廃止されてしまった。電車の7000形は昭和29〜31に製作され、出入口が前と中央という斬新なスタイルであった。都電廃止後の昭和42年9月から坂下1丁目のマンションに住んだが、三田線が巣鴨まで開通する昭和43年末(S43.12.27開業)までは、赤羽経由のバスで通ったこと、地下鉄開通後4階の窓から目の合う高さを電車が走っていたのも懐かしい。
 下の写真は現在の坂で、地下鉄は志村坂上で中山道と分かれて西に、高島平に向かっていて志村坂の下は通っていない。上下の写真を見比べて、志村坂は直線で雄大で並木が美しいという印象は今も昔も変わらないところ。西側の緑に覆われた斜面が拡幅により後退してコンクリートの壁になり、坂下の低地にも建物が一段と増加して建っているが、崖の一部が緑で残されている。また、周辺も工場地帯から変化し、マンション・住宅が多くなっている。坂の東側には古刹大善寺と統合された浅草橋場から移った総泉寺があり、泉岳寺、青松寺と並び江戸の曹洞宗三筒寺と言われた。また、大善寺の時代に将軍・吉宗が鷹狩の途次立ち寄り境内の湧水に清水薬師と命名し、辺りが清水坂(現在の西側にある隠岐坂)として地名になったと言われて、『江戸名所図会』にも描かれている。その図会をもとに寺の北側崖下に「薬師の泉」として庭園が復元されており一見の価値がある。
上の写真は『都電の消えた街』(大正出版・諸河久・林順信)(S42.2撮影)からお借りし、下の写真は筆者撮影(H25。10)。


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