左の写真は六本木通りの霞坂を東から下ってくる新橋から渋谷に向かう6番の電車である。頭上に覆いかぶさるように工事しているのは首都高3号渋谷線で、昭和41年12月の撮影であるので、工事の真最中である(この区間は昭和42年9月に開通)。工事の状況に合せてスキーのスラロームのように何度も線路が動かされたようである。霞坂の坂名は辺りが霞町と言ったことに由来するが、その霞町は近くにあった霞山稲荷(現桜田神社)の名に由っている。その地名は家康入府の時桜田門や霞が関付近に居住していた先住農民がこの近くに移住させられたためその地名を引き継いだのである。六本木通りはオリンピックで拡幅され、霞坂を下ると笄川が南北に流れていて品川駅から四谷三丁目に向かう7番の都電と交差していて「霞町」という電停があった。現在は西麻布という面白くもない地名になって、昔を知る人たちを嘆かせている。
笄(こうがい)川は南青山・根津美術館の池を水源とし、現在の外苑西通りに平行する50m程西の道路が河道になっていて現在は暗渠、これに架かる笄橋の名を由来とする笄町があり、交差点から西に向かう急坂を現在も笄坂と呼んでいて、霞坂とペアになった坂道である。

下の写真は現在の西麻布交差点から眺める霞坂である。六本木通りの広い坂道であったが、現座は首都高と立体交差が二重高架になっていて、坂道を簡単には感じることができない。最下の写真は霞坂の北側の部分を写したもので坂道の様子がわかる。交差する電車はもとは道路の真中を走らず専用軌道のようになっていたが、外苑西通りの整備にともない解消。
6番の電車は汐留→溜池→六本木→霞町→南青山六丁目→渋谷、と走っていて、高速道路の建設により線路がいつも変更されていたが、昭和42年12月に廃止されてしまった。霞坂を電車が走ったのは大正3年9月だったので53年余の命であった。一方7番の電車は明治39年に開通、昭和44年10月に廃止されたので、寿命はこちらが長かった。
6番の電車は渋谷から従姉の家のある福吉町までよく利用したので懐かしく、また現在も6番の後継の渋谷-新橋のバスを利用することも多いので親近感を覚える坂道である。
上の写真は『都電百景百話』(大正出版・雪廼家閑人)(41、12 撮影)からお借りし、下の写真2枚は筆者撮影(H26、4)。