都電の走った坂道・今昔
原 征男
 (1)赤坂、富士見坂(水坂)  (2)安藤坂(網干坂)  (3)相生坂(昌平坂)  (4)高力坂
 (5)日吉坂  (6)中目黒・新道坂近く  (7)東京タワー・榎坂近く  (8)春日町・西富坂
 (9)焼餅坂(赤根坂)  (10)乃木坂あたり  (11)芝の切通坂近く  (12)土器坂を下る
 (13)三宅坂  (14)渋谷・金王坂  (15)下大崎坂(相生坂)  (16)志村坂
 (17)霞坂  (18)富士見坂(不動坂)  (19)東京を代表する九段坂

 

 都電の走った坂道・今昔(15)
下大崎坂(相生坂)



 下大崎坂は、国道1号線の桜田通りが高輪台から下り、山手線・五反田駅のガードに至る長い坂道である。江戸からの旧道は曲折のある中原街道になる道で、相生坂の名で呼ばれていた(南にある桐ケ谷坂と合わせての名)。大正から昭和にかけて坂道が直線的に改良され、当時の行政区域は大崎町になっていたが、以前の名称である下大崎村の名から下大崎坂と呼ばれるようになった。
 明治44年11月、山手線に新たに五反田駅が開業、昭和3年6月には池上電鉄(現東急池上線)が乗り入れ、さらに都心部乗り入れを視野に入れ山手線上部に駅を設けた。加えて桜田通りの改良・整備が行われ、昭和8年11月にようやく都電(当時は市電)がこの道路上を五反田駅にまで達し、五反田もターミナルとなった。坂道は長いが勾配は緩く、電車にとっては走りやすい坂道であった。
 さらに第一京浜国道(旧東海道)の輸送量増加もあり、昭和11年には桜田通りを利用して高規格道路の第二京浜国道(国道1号線)の建設が着工され、通りも一層の拡幅・整備が進められたが、全線完成は戦後に持ち越された。道路は、当初五反田駅前で東に折れ、駅の東側ガードを通過して多摩川大橋に向かっていた。都電の系統ナンバーは品川駅から山手線内周りに付けられていたが、1〜3系統は品川駅前(2系統は三田)で、五反田からは4系統の電車のみが運転されていた。4系統は 五反田駅前→清正公→金杉橋→銀座2丁目 のルートで都心に向かい、目黒営業所が担当し1000形、1100形という戦前製の電車が活躍していた。

 写真は五反田駅のホームから広い桜田通りの下大崎坂を眺めている。上の写真は昭和42年2月の撮影で、折柄都営地下鉄・浅草線の工事が進められていて道路上をこの設備が占拠しているため都電は道路上に小さくなってとまっている。そして第2京浜の改良工事は終わり、道路は山手線ガード下を直進している。しかし、都電はこれから程なく、地下鉄の開通に先立ち昭和42年12月に廃止されてしまった(地下鉄は昭和43年11月に開業)。一方、下の写真は46年後の現在の様子で、道路の整備は進んでいるが坂の様子は大きくは変化していない。これに対し、両側の建物は大きく変化しているが、よく見ると左側の2つのビルは改装されているものの今も存続している。昭和50年頃、私は馬込に住んでいてクルマでよくこの道路を利用したが、都電の名残りというべきものはほぼ消えていた。

 上の写真は『焼跡・都電四十年・山手』(大正出版・林順信)(S42.2撮影)からお借りし、下の写真は筆者撮影(H25.7)


トップページに戻る | このページ上部へ