都電の走った坂道・今昔
原 征男
 (1)赤坂、富士見坂(水坂)  (2)安藤坂(網干坂)  (3)相生坂(昌平坂)  (4)高力坂
 (5)日吉坂  (6)中目黒・新道坂近く  (7)東京タワー・榎坂近く  (8)春日町・西富坂
 (9)焼餅坂(赤根坂)  (10)乃木坂あたり  (11)芝の切通坂近く  (12)土器坂を下る
 (13)三宅坂  (14)渋谷・金王坂  (15)下大崎坂(相生坂)  (16)志村坂
 (17)霞坂  (18)富士見坂(不動坂)  (19)東京を代表する九段坂

 

 都電の走った坂道・今昔(5)
日吉坂(ひよせ坂)

 日吉坂は目黒通りの日吉坂上から桜田通りの清正公前までの坂道で、坂名は能役者の日吉喜兵衛が住んでいたことに由来する。別名の「ひよせ坂」などは音の変化であろう。坂上の日吉坂上は目黒通りから南に下る桑原坂の坂上でもある。
 江戸時代は天神坂を下り、清正公(覚林寺)の前を過ぎ、目黒不動へと向かう参詣道であった。この時代「白金大通」なる名称も残されている。坂下の桜田通はなく、湿地帯で蛍の名所であったとのことで、現在の名光坂はこれに由来するという。江戸の街が拡張し、この辺りまで大名屋敷や寺院が並んでいた。
 明治以降は官界人や実業家などのお屋敷町であった。魚藍坂下−目黒駅前の都(市)電目黒線 は、大正2年に郡境まで開通、3年に目黒駅前まで開通した。この際坂道は緩やかに改修されたという。電車は5番、 目黒駅前−清正公−古川橋−芝園橋−馬場先門−京橋−永代橋、の区間を走っていた。郊外色豊かな目黒から東京駅 付近を通って都心まで便利な路線であり、現在も東京駅丸の内口−等々力の長距離バス路線が走っている。

 上の写真は緑豊かな雨の日吉坂、下は南北線が地下を通り、道路の拡幅が進む現在の日吉坂である。坂道としては 原型をとどめているが、緑豊かであった沿線も、現在の写真では僅かに「白金竹友クラブ(竹中工務店)」の木々が見 えるだけになっていて、マンションが林立しているが、実際に歩いてみると寺院も残っており、通りから一歩下がる と緑が多く見られる地域であり、心安らぐ。坂下の藤山邸はシェラトン東京・都ホテルになって久しいし、薩摩藩邸は実業家の邸宅を経て八芳園になっている。

 上の写真の都電は4番(五反田駅−銀座2丁目の電車で、本 来この線は通過しないものであるが、目黒駅前の車庫から無番で出庫し、清正公で4番とするべきものを雨でもあり横着したのであろう。
 この地域は「シロガネーゼ」などと言われ、おしゃれの発信地になっているが、白金(しろかね)と発音されるのが正しい。


上の写真は「雨の日吉坂」(「都電百景百話」雪廼舎閑人、大正出版)からお借りした(写真撮影S42.7の日曜の朝)。電車は4系統、1000形。

下の写真は筆者、H21.7撮影。  

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