都電の走った坂道・今昔
都電の走った坂道・今昔
東京都電は最盛期に210kmもの路線を有していたが、その都電が荒川線を残して路面から消えたのは昭和47年(1972年)11月のことである。あれから既に35年以上が経過しているが、当時都電(路面電車)は自動車交通の邪魔との理由で袖にされたのである。しかし、最近になって世界的には弱者に優しい交通手段であり、エネルギー消費や環境負荷の面でも自動車よりはるかに優れた交通手段であるとして見直されつつある。事実都内に残された荒川線と東急・世田谷線は地域の人々の生活に密着し、親しまれているし、広島、熊本、長崎、松山などでも市民に愛用されている。欧州では、新たに路面電車を新設している都市も多い。
それはさておき、都電が走っていた頃とは街の風景は大きく変化し、当時の面影をとどめていないところも多い。坂道は残っているが、都電の走っていた頃とは同様に大きく変化している。実は個人的にではあるが、2002年に既存の写真をお借りし、その写真と同じ角度から撮影をし、その今昔対比を試みたことがある。その時の変化の印象は、建物が高くなったこと、並木などの木々が成長したことであった。それから6年余を経てもう一度今昔対比を試み、坂道の対比をお目にかけ、街と坂道の変化を考察してみたいと考えている。また、旧い風景を見てその時代を懐かしんで頂ければ望外の幸せである。
赤坂、富士見坂(水坂)1回目は話題の「赤坂SAKAS」に近い赤坂 見附・富士見坂からはじめる。
赤坂見附では、青山通りの富士見坂を走る9番(渋谷―浜町中ノ 橋)、10番(渋谷―須田町)と紀伊国坂を下って虎ノ門に向かう3番(飯田橋―品川)が交差し ており、渋谷方面から溜池方面をつなぐ線路があった。
右側の写真は、富士見坂(水坂)を喰違見附を通って三宅坂に向かう9番(右)と坂道を 下ってきた10番の電車(左)である。富士見坂下部の上り坂の様子も一目でわかる。流石に緑の 多い地区で、変形の交差点内には緑地も見える。手前には、紀伊国坂から外濠通りへの線路と青山 通りから外濠通りへの短絡線が見える。背景は元紀伊徳川家の敷地で北白川邸跡の赤坂プリンスホ テルで、その背後にはNHKのテレビ塔が見え、左端には遠く日本テレビのテレビ塔も見えている。
東京タワーができる前の風景である。世の中漸く復興に向かう時代であるが、この辺りの風景には ゆとりがある。都電も濃緑とクリームの旧塗色で、 昭和30年7月の撮影である。撮影は鉄道趣味界の大御所・吉川文夫氏である。
一方、左の写真は平成20年6月の撮影で、ほぼ同じ角度からであるが、青山通りの立体交差の陸橋で富士見坂下部の様子はわからないが、曲がりながら降りてくる側道で、坂道であることはわかる。背景は首都高速道路4号線や赤坂プリンスホテルのきらびやかな新館も加わって昔を偲ぶものはない。しかし、よく見ると森の一部や交差点内の緑地が残っていて都会的な美しさを保っている。
次にもう1枚、富士見坂の対比を見ておきたい。 左の写真は永田町方面から青山通りの富士見坂を下ってきた9系統の電車・渋谷行である。坂の下部の様子が伺える。背景は前と同様に元北白川邸の赤坂プリンスホテルであるが、右側には旧新館(現別館)ができている。
写真は電車の安全地帯から撮影されていて、昭和38年2月である。翌年にオリンピックを控えて、弁慶堀や弁慶橋付近の工事は高速道路の工事であろう。場所柄TBSの中継車が左側を走っており、ホテルのバックにはNHK教育テレビのテレビ塔が見えている。
(上の写真から10年近く経つこの写真では東京タワーの出現で状況が変化している。塔は清水谷公園の上にあった。)
下の写真は現在の風景であるが、同じアングルは陸橋の真下で、展望が全くないのでやや後方右側から撮影した(平成20年6月撮影)。構築物のため視界が十分でなく、対比は難しいが、大きく変化しているは間違いない。しかし、富士見坂下部であることはよくわかり、架線がないため邪魔物は少ない。これらの写真からも東京の建物が高くなったが、緑もそれなりに確保されていることがわかる。
(上の写真、林順信・諸河久「都電の走った街」大正出版で、撮影は鉄道写真の第一人者 諸河久氏である。) 現在の写真は筆者撮影。