都電の走った坂道・今昔
原 征男
 (1)赤坂、富士見坂(水坂)  (2)安藤坂(網干坂)  (3)相生坂(昌平坂)  (4)高力坂
 (5)日吉坂  (6)中目黒・新道坂近く  (7)東京タワー・榎坂近く  (8)春日町・西富坂
 (9)焼餅坂(赤根坂)  (10)乃木坂あたり  (11)芝の切通坂近く  (12)土器坂を下る
 (13)三宅坂  (14)渋谷・金王坂  (15)下大崎坂(相生坂)  (16)志村坂
 (17)霞坂  (18)富士見坂(不動坂)  (19)東京を代表する九段坂

 

 都電の走った坂道・今昔(6)
中目黒・新道坂近く

 駒沢通りの中目黒の終点である。坂上の鎗ケ崎から曲がりながら下り、皀樹(さいかち)橋を渡ったところが終点であった。左の写真は8番の電車が折り返して築地に向けて出発したところで、次の電停は坂上の「下通5丁目」である。後ろは山手通りとの交差点で、ここには品川駅前から渋谷駅前を経て、池袋駅前に至るトロリーバスが走っていた。
 この路線は昭和2年に玉川電車(現東急電鉄)が敷設し、昭和13年に東京市に運転が委託されたあと、昭和23年都電に統合された。8番の電車は渋谷橋/赤羽橋/桜田門/銀座4/築地と結んでいた。元々祐天寺への参詣道でもあったが、後方の南東の角には日蓮宗正覚寺があり、伊達騒動の烈婦政岡(三沢初子)の立像(北村西望ら3人の合作)がある。
 新道坂の位置については論議のあるところで、この天は0/20の「青葉台の坂道を歩く」で説明したので、その資料を参照いただきたい。遠くに見える坂道が三田用水が駒沢通りを跨いでいた鎗ケ崎へと上っているが、これが新道坂と誤解される「新新道坂」である。

 この都電の線路がなくなったのは昭和42年12月であるが、その後道路も拡がり、周囲の様相も相当変わった。現在の写真は目前のライトバンがいつまで待っても動かないのでやむを得ず左の状態で撮影した。上の写真の右側には白壁の土蔵があったのだが、当然今はない。一方、正面にESSOの看板がある建物は今も健在で、歩道橋の左寄りのビル2棟の右に少しだけ見えている4階建てのビルで、外装は変わっている。左側の商店の建物群 も変化し、整理されて超高層マンションが完成し、間もなく入居がはじまる。 歩道橋の手前が目黒川に架かる皀樹橋である。

上の写真は「都電百景百話」(雪廼舎閑人、大正出版)からお借りした(写真撮影 S42.7)。電車は8系統、広尾車庫所属。下の写真は筆者、H21.9撮影。
右の写真は「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の政岡の像、モデルは尾上梅幸、 昭和9年に除幕、この銅像は戦争中供出となったが、運送屋が当日空襲に遭い、 残ったという運の強い像である。
 

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