都電の走った坂道・今昔
都電の走った坂道・今昔(12)
土器坂を下る桜田通りを飯倉の交差点から南に下る坂道を「土器(かわらけ)坂」という。麻布台の台地から赤羽橋に下る道である。坂名の由来は、渡辺綱がここで「かわらげ」の名馬を求めたという説話によるもの、もう一つはこの辺りに土器師が多数いたためとの伝承によるものの二つがある。写真坂上の左側に電車が姿を見せているのが榎坂でロシア大使館方向へ、右側に曲がると永井坂で東京タワーにつながる。真っ直ぐに行くと坂を下り神谷町に向かうが、坂名はない。というのもこの道は明治にできた道で、それ以前は西の雁木坂に向かい、左折してこの飯倉交差点の正面に達していた。そしてこの坂はもっと急勾配だったようで電車が走る際に緩やかに改良されたようである。都電はこの雁木坂への岐れ道付近に飯倉1丁目の電停があり、坂上で左に行く33番(四谷三―浜松町)(明44開通)と坂を下る線に分岐していた。このポイント操作のため信号所が角地に建っている。33番は榎坂を下ってきて左折してさらに飯倉一丁目に下るという運転の難所だったと聞く。一方、桜田通りには、築地から中目黒に向かう8番と飯田橋から品川に行く3番の電車が走っていた(明45開通)。写真にある2023号は都電・杉並線(狭軌)用に造られた車両で、同線廃線にともない改軌され、三田車庫などに配置されていた。2000型のうち6両は都電廃止後長崎電軌に転じ、700型として今も一部は現役にある。この飯倉交差点付近は道幅も広くなったが、周りの様相は大きく変化した。まず正面に霊友会の釈迦殿が建ち、背景には泉ガーデンタワーなどの高層ビルも目立つ。左手の角地には建築家・白井晟一設計でまるで宗教団体の建のようなビジネスビルのNOAビルが建ち、向側角地もビルになっている。坂西側(左側)には熊野神社があり、その祭礼の様子は近くに住んだ島崎藤村の『飯倉だより』にも登場する。さらに南側には寛政年間創業の有名な鰻屋「野田岩」があり、建物には飛騨の合掌造りの建物利用・復元している。昨今は鰻の値上がりで足が遠くなってしまうのが残念。
上の旧写真は『都電百景百話』(雪廼谷閑人)(S42.3撮影)からお借りした。
現在の写真は筆者撮影(H24.4撮影)