都電の走った坂道・今昔
都電の走った坂道・今昔(2)
安藤坂(網干坂)安藤坂は、春日通りの伝通院前から南に下る雄大な坂道で、坂下で西に大きく曲がり白鳥橋を渡って大曲で目白通りに合流する。この坂道を39番の電車が上り下りしていた。
この路線は明治の終りに開通し、戦後は一時休止していたが、S25年に復活、39番は早稲田から大曲を経て、この坂道を上り、伝通院前で右折して冨坂を下り、東冨坂(真砂坂)を上り、湯島の切通坂を下り、広小路を経て厩橋にいたる、坂道に関係の深い路線であった。現在は都バスが、 小滝橋−早稲田―(安藤坂)−上野公園と始・終点は変わったが、それに近い路線を運行している。
この坂道は、ご覧のように雄渾な坂道で、江戸時代は段坂になっていたという。上の写真を見ても電車が一気に下ってくる感じがする。この路線はS43年9月に廃止された。
坂名は、坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことによる。別名の網干坂は諸説あるが、坂下の神田川で漁業が行われていたことと関連している。
撮影地点右側を少し東(右)に行くと「牛天神」があり、坂上の後方には家康の生母(お台の方)や千姫など徳川の夫人たちを葬る伝通院(無量山伝通院寿経寺)がある。
坂の東側(写真右)には樋口一葉らが学んだ中島歌子女史の「萩の舎跡」があり、その近くには小石川・三井家(三井三郎助は初代三井鉱山の社長)があった(現在その門は文京3中の校門として残っている)。坂の西側(写真左)には永井荷風生育の地(11歳まで住んだ)があり、近くに川口松太郎夫妻も住んでいた。
(2枚の写真ともその雄渾さは変わらぬ安藤坂。江戸時代は坂下で東の牛天神側にまわっていた。)
道幅を含め坂道の面影は変わらないが、両側の建物などはすっかり変わり、高くなっている。都バス が内側の車線を走ってくるのを待ったが、バス停の位置の関係で外側車線しか通らない模様なのであきらめてシャッターをおした。上の写真は「安藤坂を下る」(「都電百景百話」雪廼舎閑人、大正出版)からお借りした(写真撮影S41.9)。電車は39系統、3000形。下の写真は筆者、H20.9撮影。